美女と野獣 (環境工学科二年 長瀬和也)

 あまり頻繁に顔を出すと鬱陶しいと思われるに決まっているので、長瀬和也ながせかずやは毎週月曜日だけ医務室を訪れることに決めていた。この日は校医の輪島五月わじまさつきの面談があるからだ。

 しかし輪島が来る前にもしっかりと顔を出す。そして二人の看護師と世間話をするのが今の和也にとってはささやかな息抜きとなっていた。

 看護師の安積佑子あさかゆうこは、若い頃は相当美人だったと思わせる四十前くらいのパートの看護師で、華奢な体、色白の顔から、「……して下さる?」などと妙に丁寧なことば遣いが出てくるユニークなオバサンだと和也は位置づけていた。

 お節介なことをいろいろ言うが、自分のことを避ける連中が多すぎるので、とても新鮮な気分になれる。まじめな看護師を適当にあしらうのは良い気分転換になった。

 もう一人の若い看護師の方は今やすっかりお気に入りになっている。藤田沙希ふじたさきという名の可愛い系の美貌の持ち主で、気さくで大変喋りやすい。「彼氏いない歴二十二年」などと馬鹿げたジョークを笑いながら言えるところもなかなかしたたかだ。

 むさ苦しい大学の静かな医務室において置くのは勿体無い女だと和也は思った。キャバ嬢でもやらせればきっとナンバーワンになれるのではないかと勝手な想像をしてしまう。

 そういえば最近女を抱いていないな、すっかりご無沙汰していると和也は思い出した。

 抱かせてくれないかなと沙希の顔が浮かぶ。しかしそれが無理なことを和也はわきまえていた。

 このキャンパス内では自分はすっかり監視の対象となっているし、それにも増して藤田沙希は見た目以上に固い女だと思われる。今日も顔をあわせた瞬間に目の奥に「あなたには呑まれない」という固い意志の光を感じた。

 すぐにそれはいつもの愛想に変貌したが、おそらくは安積あさか看護師からいろいろと自分のことを知らされたのだろうと和也は解釈した。

 でも喋るくらいはただのはずだ。沙希の方も話をするだけなら全く気にならないという顔をして、和也の馬鹿げた話に笑い返すのだった。

「じゃあ、結局彼氏はいるんですね? この前はいない歴二十二年のバージンとか言っていたじゃないですか」

「その時によっていたりいなかったりするのよ。世界は時々刻々とめまぐるしく変化するものなのよ」

「何だか哲学的な発言だな」

「よく言われるわ」

 そう言って沙希は舌を出した。この小悪魔め、と和也は言いたくなる。

「それより、もう慣れました? うちの大学」

 たまには庶民的に普通の問いかけもしてみる。

「そうね、病院よりは静かで平和に感じるけれど」と沙希は少し顔を曇らせて「でもいろいろメンタルな問題を抱えた子が多くて心配だわ」

「青春の一時期とはそのようなものですよ」

「あら、哲学のお返しかしら?」

「まあ、そんなところです」

 澄ました顔で答えると、沙希の顔が笑ったように見えた。しかしそれは見間違いだったらしく、その後のことばはどこか思わせぶりなものだった。

「理系の大学って、どこもこういう雰囲気なのかしら?」

「といいますと?」

「何だか、学生さんたちがみんな疲れていて、覇気がないの。『おはよう』って声をかけても返事が返って来るのは少ないわ」

「それはきっと美人のお姉さんに急に声をかけられてどうしていいかわからず戸惑っているんですよ」

「まあ上手ねえ、でも何もあげられないわよ」

「そうですか、それは残念だ。じゃあ答えを訂正して、挨拶をする習慣がないとか」

「『おはよう』も言えないの?」

「そういうことです。ここでは珍しくもない。もともとコミュニケーションが苦手な人種がたくさん集まってきていますから」

「やっぱりね」

 沙希は妙に納得したようだった。

「ここにも喋れない奴がたくさん来るでしょう?」

 少しの間天を仰ぐようにしてから沙希は答えた。

「――まだよくわからないわ」

「そのうちわかりますよ」

「意味ありげな言い方ね」

 困った子供を見るような目になる。それがたまらないと和也は思った。

 その時ドアが静かにノックされたような音がした。和也が振り返ると、すりガラスに女性らしい姿が映っていた。

「はい、どうぞ」と、それまで和也と沙希の話を黙認していた安積看護師が訪問者の来室を許可した。

 ゆっくりとドアが中へ開き、黒のレザージャケットにベージュのミニスカート、黒タイツを穿いたスタイルの良い女の子が入ってきた。

 前髪が目の辺りまでかかっていて、ぱっと見るとショートボブのような髪型だが、安積看護師に促されて中へ入っていく後姿を見ると茶髪はセミロング程度に肩へ降りていた。

 先日も見かけた建築学科の新入生だ。おとなしく地味な動きだが、今日はいちだんと神秘的だった。あの時は大柄な男子学生にそっと後をつけられていたのを和也は思い出した。

「どうしたの?」と安積看護師がこどもに問いかけるような口調で訊ねた。

「あの」と彼女は少し逡巡してから、「頭痛がするので休ませていただけませんか」

「そう」安積看護師はすべて理解しているかのような動きで彼女を医務室内にパーティションで仕切られた個室に導いた。「今から一時間ね。今日は輪島わじま先生がいらっしゃるから、また話をしていこうね」

「はい」と彼女は小さく答えた。

 個室のドアが閉められると、室内はすっかり静かになった。先ほどまで楽しそうな顔をしていた沙希もすっかり真顔になっている。とても話ができる雰囲気ではない。

「では、僕はこれで」と和也は、後でまた来ることを伝えて、医務室を退室した。


 通路に出た和也は、その少し先にあるホールに大柄な男を見つけた。そこは学生課の受付窓口があるところだから学生がたむろしていても不思議はないのだが、その男はじっと医務室の入り口の方を窺っているように思えた。

(また、あいつか……)

 その男が先日、今医務室で休んでいる彼女を尾行していた男子学生であることを和也は確認した。

 彼は和也の視線を感じると、目を逸らし、ゆっくりと方向を転換して四号館校舎の外へ出て行った。

(彼女にベタ惚れなんだな。しかしあまりにも釣り合わない、まさに美女と野獣だ)

 大柄な男は横幅もかなりのもので、熊のような体格をしていた。遠くから見ただけでも何となく顎鬚らしきものがうっすらと見えたりした。にもかかわらず音や気配を消して動くのだ。これを獣の動きと言わず何と言おう。

 方や心中の天使は、ちょっとしたことで壊れそうなくらい繊細な体で、いつも自信のなさそうな挙動をしている。磨けば絶世の美女として光り輝く原石であるかもしれないのにと和也は惜しんだ。とてもあの大男の思いが届きそうな相手ではなかった。

 和也はその日のノルマを果たすべく、実験室へ向かった。

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