振り払えない闇 (環境工学科三年 西沢春樹)
金曜日になり、午後六時から環境工学科ホールにて新入生歓迎行事が執り行われた。
同じ時間帯に他のいくつかの学科でも新歓行事が行われている。複数の歓迎行事に呼ばれている教職員は短時間で次の場へ移動するという慌しさだった。
その中にあって、医務室の
しかしそれを柴田の方は自分に対する好意だと思っているようだ。春樹がそばにいると柴田はすっかり安心するのだった。そして春樹が新入生の女子学生の傍に行かない限り、柴田が彼女らに近づくことはなかった。
あれほど女子にもてることを意識して本まで買っていたとは思えないほどの落ち着きだと春樹は思った。あるいは春樹の勘違いだったのだろうか。柴田は単に面白いからという感覚で「女の子にもてる十の鉄則」なる本を買ったのかもしれなかった。
こうした公に近い行事で、あからさまに新入生の女子に手を出そうとする上級生はいない。そういう行為は暗黙のうちに禁じられていた。だから新入生の女子の相手をしているのは専ら女子の上級生であり、春樹と同じ三年生では
遠くの方から藤田沙希と美幌愛が柴田を観察していることには気がついていた。教職員の女性はこの二人しかいなかったので、貴重な存在として、また若い美貌の女性として男子新入生からも注目を浴びていたようだ。しかし彼らの視線をかいくぐるかのようにして二人の女の目線は柴田の動きに注がれていた。
やがて他の学科の新歓に行っていた菅谷が顔を出したが、特に春樹たちの方に来ることはなく、ただちらちらと気にはしているようだったが、男子学生たちの様子をあちこち見て回ったり、知った顔には声をかけたりして盛況な雰囲気を堪能しているようだった。そしてしばらくしてから、落ち着くべきところに落ち着くという様子で、美幌愛と藤田沙希のところへ立ち寄った。
柴田がどうにか問題行動を起こさないようだと思うと、春樹は遥佳のことが無性に気になった。
遥佳はどうしているのかと目で探すと、女子学生が固まっているところの端に近いところにいて、新入生女子や同期の女子らの顔を交互に見ながら話をしているようだった。
そうした姿には、一時の怯えの表情は見られなかった。自信を持って相手に対峙して話をする優等生の遥佳の姿がそこにあった。
それを見ると春樹も安心する。長瀬の出現を遥佳はどうにか乗り越えてくれたようだ。あとは自分次第だなと春樹は思った。自分さえ、遥佳と長瀬の過去の付き合いにこだわらなければことは簡単にすすむはずなのだ。
(簡単にすすむ? 本当か?)
春樹はふたたび考え込んだ。おそらくはビールがかなり入っていたこともあるだろう。何度も同じ考えが巡り、脳裡にはりついて離れない。
自分はこれまで何をしてきたというのか。
二年余りかけて一人の女性を追ってきたつもりだった。はじめは遠めで憧れ、長瀬の彼女になったと知ったときには落胆と敗北を感じ、長瀬から逃げてきた時は夢中になって力を貸した。そして再びチャンスを手にしたと束の間の興奮を感じた後、彼女が男性不信に苛まれていることを知り、遠くから見守り続けることを決意したのだった。
それがどうしたというのか。彼女にとって何か救いになることを自分はしたといえるのか。
長い時間をかけて遥佳の男性不信を取り払い、ついには彼女の傍にいる資格を得ることができたと信じていた。彼女も春樹を徐々に近い存在だと認識するようになり、あと少しで、もう一声で、自分の手に落ちるところまで接近できたと思い込んできた。
それがたった一つの出来事、長瀬和也が再び登校してきたという出来事によって見事に元の木阿弥に帰そうとしている。
結局自分は遥佳に対してたいしたことの一つもできなかったのではないか。そう思うともはやそれまでのように気軽に遥佳に声をかけられなくなってしまうのだった。
そしてもう一つ。長瀬の存在が、自ら思い描いていた遥佳のイメージを曇らせる。長瀬の手がついた遥佳。それは修復しかねない傷のように思われた。
どうして長瀬だったのだ。
頭に浮かぶ長瀬は笑っていた。くれてやるよ、お前に。お前には俺のお古で十分だ。長瀬の口から漏れたと思われることばが脳の中を駆け巡った。
何を気にしている。それしきのことがどうした、と何度思いなおしても、やはり長瀬の顔が遥佳のイメージを穢していくようだった。
俺はやはりだめな人間なのかと春樹は問い続けた。
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