逃げ込んできた女子学生 (保健師 安積佑子)

 あと十分で五時という時間帯に、東瀬麻美あずせまみが飛び込むようにして、すっかり平和になっていた医務室に入ってきた。

「――あの……ちょっと休ませてください」

 しかし体はだるそうではない。むしろ走ってきたらしく息が弾んでいる。それ以上に、落ち着きがなかった。

「どうしたの? 医務室での休憩は五時を過ぎるとできないことになっているの。看護師もひとり五時で帰るし、私も六時で鍵をかけて下校するのよ」

 佑子は麻美の様子を観察しながら説明した。

 すでに帰り支度をし始めていた藤田沙希が心配そうに見守る。奥の診察コーナーにいる輪島五月も帰り支度をして今はこちらの様子に聞き耳をたてているに違いない。

「誰かに追われているようなんです。しばらく匿って下さい」

 ただ事ではない台詞だ。誰かといっても不審者が侵入すれば目立つキャンパスだ。

 もし本当だとしたら学生だろう。しかし彼女の場合被害妄想の可能性もある。

「どういう人が追っているのか見たの? ここの学生かしら?」

「それは……」と麻美は口ごもった。

「人の視線が気になったのね」

「違います。視線だけじゃありません。こっちが歩くと同じ方向に歩いてくるんです」

「これだけたくさん学生がいるのだから、行く方向が同じってこともあるんじゃない?」

「でも、本当なんです。十メートルか二十メートルほど距離をおいて、大きな男の人が……」

 佑子は頭を悩ませた。輪島五月に相談したいところだが、勤務時間として契約している午後五時までもう間もない。麻美の話をゆっくりと聞いてもらっている時間はなかった。

「自宅はどこ?」

 ふいに沙希が声を出す。麻美が答え、帰る方向が同じであることがわかった。

「それなら一緒に帰りましょ」

 沙希は優しく麻美に言う。すっかり落ち着いていて頼もしくも見えた。

「そうね、それがいいわ」と輪島五月が帰り支度を整えて診察コーナーから出てきた。「三人一緒なら大丈夫よ」

 それはまるで自らも不審者を回避したがっているようにも見えたが、佑子はその考えに同意した。何はともあれ一安心だ。

「それで、そいつは大きな男なのでしょう? どれくらいの奴なのかなあ」

 沙希は平然とした様子で麻美に訊いた。

「百八十センチはあるかと思います」

 麻美の身長が百六十前後だからそれなりに大きな男であることは間違いない。

「まさか長瀬君てことはないでしょうね?」と沙希は佑子の顔を見た。

 いくら男がたくさんいるキャンパスだからといって、百八十超えがそうたくさんいるとは思えない。確かに長瀬なら百八十センチ以上あるだろうが、どうなのか。

「どうかしら、彼の行動パターンにはあわないように思うけれど」

 ここで輪島五月が異を唱えた。黙って後をつけるという行為は長瀬にふさわしくないと佑子も思う。

「とにかく、一緒に帰りましょう」

 沙希の一言で、麻美も少し安堵の表情を浮かべ、こうして三人で揃って下校することになった。

 長身の男に気をつけながら帰ると言い残し、三人は退室した。

 はたしてそれは長瀬なのか、あるいは別の誰かなのか、はたまた麻美の被害妄想なのか。可能性をいくら検討したところで答えが出るはずもなかった。

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