ケーキに目を輝かせる女医 (保健師 安積佑子)

 長瀬和也が退室した後、安積佑子あさかゆうこはすぐにでも話が聞きたかったが、その前に輪島五月わじまさつきの儀式をじっと見守る必要があった。

 五月は一人診察やカウンセリングを行うたびに念入りに手を洗うという習慣があったのだ。特に今日はわざわざ着ていた白衣を脱いだ上で丁寧にハンドウォッシュで洗うという念の入れようで、待ち受ける佑子と学生課課長は顔を見合わせ、溜息をつきたくなった。

 やがて五月が、手洗いを終え、さっぱりとした表情で医務室内化粧室から出てきた。

「いかがでした、長瀬の様子は?」

 じっと蓄えていたものを吐き出すかのように課長は診察コーナーへ戻ろうとする五月に訊ねた。

「変わりありませんわ」

 顔だけ課長の方を向いて素っ気無く五月は答えたが、佑子がソファに囲まれたテーブルにケーキを用意していることを手振りで伝えると、見る見る笑顔になってソファに移動した。

 こうしたお嬢様の相手には手数が必要で疲れるが、要領さえ掴めれば難しくはない。背後にこっそりと自分の分のケーキを食する沙希の様子を感じながら、佑子は課長とともに五月の傍らに移動した。

「で、長瀬君の様子はいかがでしょう? 何か変わった様子などありましたか」

 今度は佑子が訊ねる。

「そうですね、あの様子では精神的にも安定しているようです。規則正しい生活をしておりますと、煩わしい欲に惑わされることも少なくなります」

 何だか宗教家のような答弁を聞いているようで歯がゆい感じがするが致し方がない。傍に課長がいるのだ。

 輪島五月が女性だけを相手に話をするときと、男性とくに課長のような年配の男性を相手に話をするときとで態度が幾分異なることを佑子はこの一年のつきあいで知っていた。

 ことば遣いこそ丁寧だが、まるで教祖が信者を相手に語るかのような雰囲気のベールをかぶる。

 その姿しか目にしていない課長には、輪島五月が何やら神秘的な、崇拝すべき存在に見えるかもしれない。

 しかしいざ医務室の女性三人だけになると、甘いお菓子に目を輝かせる少女のように振舞うようになるのだ。

 佑子はその変化を受容するのに少々時間を要した。

 新人の藤田沙希は若いこともあって柔軟に対応している。沙希もまた相手による態度の使い分けが得意なようだった。

「今度女子学生とトラブルを起こすようなら退学もありうるときつく言っておりますから、彼もそれをわきまえてくれていると思いたいですな」

 事勿れ主義の代表のような課長の発言に、佑子は眉が動きかけたが、それをどうにか封じ、同調を示す首肯を繰り返した。

 背後の自分の席でケーキを食している沙希が笑いを堪えているに違いない。

「彼のような人間は、損得勘定を考えずに突然欲求のままに動くことがありますから、安定しているとはいえ注意は必要でしょうね。ですから今後も大学側が監視しているという態度を見せ付ける意味でも、こうした面談は続けていく必要があります」

「はあ、そうでしょう、そうでしょう」

 課長はさも満足したかのようにおべんちゃらを述べた挙句、用事があるからと言い残して去って行った。

「このケーキ、どちらの?」

 課長が姿を消した途端、この変貌である。

 沙希が笑って、駅近くの個人経営のケーキショップで買ってきたと伝えた。

「おいしいわね、母に買っていこうかしら。それにしても藤田さんはよくあちこちからおいしいものを見つけてくるわね」

「たまたまですよお」と沙希は照れ笑いをしている。そういうところで褒められて喜んでいる場合だろうか。

 長瀬和也の話題はそっちのけでケーキ談義に話が咲きそうだったので、佑子は間をおかずに話を戻した。

「彼が週に一度報告に来るのは良いのですが、慣れてきて適当に嘘を言ったりしないのでしょうか?」

「それはありえますね」と五月は平然と言ってのける。「嘘かどうかは、質問に対する反応時間の長さとか、その時の表情とかである程度判断するしかないですが、彼なら平気で嘘をつけるでしょう。ですからそれを見極めることは難しいと思います。嘘をつくのが上手い人間は大部分を本当のことで占め、その中に少しの嘘を紛れ込ませるのです。彼がジムへ行ったり、バイトに行ったりとある程度規則的な生活をしているのも、カモフラージュの可能性がないとはいえません。それらは実際に行っている習慣ですから本当のことなのです。合間に誰か女性と会ったりしているかどうかなど言わなければわかりませんからね」

「そうですよねえ」と佑子はがっかりしたように言った。

「でも、彼がバイト先の女性と何をしようが、ジムで行った先で女性と良い関係になろうが、大学内の女子学生とさえ問題を起こさなければ良いんですよね? 課長さんの態度にはそれがありありと窺えます」

 身も蓋もないことを平然と言う。大学が気にしているのはまさにそこなのだ。しかしそれならいっそのこと去年問題を起こした時点で退学にしておけばよかったのだ。それすらできないところに大学の中途半端で情けないところがはっきりと窺える。

「そもそも男という生き物には、多かれ少なかれ彼のようなところがあります。あの一見頼りない課長さんでさえ、家に帰れば暴君のように振舞っているかもしれません。奥様に暴言を吐いたり、DVをはたらいているかもしれないのです。そうした生き物と同じ空間で生きていかなければならないのですから女性も賢さが必要になります。男という生き物とある程度の距離を置くこと。そして付かず離れず適当な緊張感を持った糸で繋いでおくということでしょうか」

「甘い顔と辛い顔を使い分けるってことですかあ?」沙希がすかさず質問した。

「そう受け取ってもらってもいいわ」

 輪島五月はにっこりと微笑んだ。

 彼女が男性を動物のように思っていることがよくわかった。あるいは課長も家畜のように思われているのかもしれない。だから課長がいる時は態度が変わるのだ。あれは家畜を相手にする調教師の態度だったのだ。

 呆気にとられたような顔で黙っていると、それを気遣ったように五月が声をかけた。

「なーんてね、そういう考え方もあるってことよ。ね、それよりおやつを楽しみましょうよ」

 ときおり少女のように無邪気な顔になる。佑子は五月自身にも何らかの障害があるのではないかと思うようになった。それでないと精神科はつとまらなかったのだろう。

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