新しい校医 (保健師 安積佑子)

 午後二時前になって、本日より医務室勤務となる、南部クリニックからの派遣の非常勤の校医が姿を見せた。

降旗ふるはたです、よろしく」

 第一印象はかなり良い。ソフトな語り口で、女性にもてる外見をしている。三十代半ばといったところか。

 差し出された名刺には、明和学院大学文学部社会学科臨床心理学准教授、降旗隆一郎とあった。大学の先生なのか。

「ご専門は精神科ですか?」

 思わず佑子は訊いていた。

「――のようなものですね」と降旗は曖昧に頷いた。「――もう臨床とは離れていますから、アルバイトでクリニックの一般内科をしているくらいですよ。今は大学でのんびりとしています」

「では、学生のカウンセリングなどの方は……」

「ぼくが大学時代していたのは、精神科といっても薬物中毒や統合失調などの外来の代診ばかりで、あとは精神鑑定の手伝いでしたね。だから思春期外来とか心療内科とかは他に専門外来がありましたから、ほとんど経験がないです」

 少しがっかりする。心療内科の医師が週に二人、しかも男女二人の医師になればかなり助かると思ったりしたのだった。それを期待してはいけないのか。

 佑子はこちらの医務室での業務を簡単に説明した。午後二時から五時までの三時間、体調不良を訴える学生または教職員の応急対応をする。平均的には一日五名程度で、平和な日ならライトノベルを一冊読むことも可能な程度だ。だからパソコンを持ち込んで内職をする医師もいるといったことも伝えた。

 一通り説明が終わったところで、降旗の方からの要望や質問はないかと訊ねると、診察の際は看護師が立ち会って欲しいという。

 診察室は医務室の中でパーティションで仕切られ簡単なものだが扉を閉めると個室になるようになっていた。もちろん三床あるベッドもパーティションで個室になっている。

 プライバシーに配慮して個室にしているわけだが、学生とくに女子学生と個室の中で一対一になることを避けたいという意思のようだった。

 これが女医によるカウンセリングの際には長く時間をとるせいもあるが、佑子ら看護師は退室して女医と学生との一対一になるケースが多く、その際には扉を開けておくようにしている。これは女医からの要望だった。それぞれ目的や方法が違うのだからと思い、佑子は同意した。

 沙希がお茶とお菓子を用意して降旗のところへ運んできた。目をキラキラ輝かせ愛嬌を振りまいているように見え、佑子は苦笑した。

 このくらいの年代の若い子の目には降旗が羨望の的のように映るのかもしれない。自分も二十代前半の頃は三十代の医師に憧れたものだった。

 二時を回ると、学生課から課長が挨拶に来たり、新しい先生がやってきていると聞きつけて、挨拶代わりに診察を受けに来る職員がいたりして、ふだんよりも医務室は盛況な様子となった。相談員の菅谷もその一人だった。

「喉が痛いです」といつもの訴えだ。

「確かに赤いですね」と降旗は喉を見て言った。「煙草とか吸いますか?」

「校舎内禁煙となったのを機にやめました」

「花粉症などアレルギーはありますか」

「花粉症です」

 いくつかやりとりがあって、置き付けの薬を与え、菅谷は世間話を少しした挙句、喜んで退室して行った。

 その後、菅谷のカルテを見て降旗は言った。

「こちらの方、月に二回は診察に見えてますね。それも喉の訴えと微熱、頭痛、胃の痛みなど同じような症状ばかりです。常連さんですね」

「はい、ほとんど息抜きで来られます」と佑子はあっさりと認めた。

 医務室の利用はほとんどが一部の「馴染み客」によるものだと佑子は説明した。さぞや平和な世界だと思われたに違いない。

 週に一度の非常勤医師に大学内の病んでいる部分を理解してもらうには時間がかかるだろう。そのあたりのことをじっくりと説明したかったが、今日の訪室者は多かった。

 応用化学阿木あき研究室の技術職員米家聖子よねいえせいこが、静かに扉を開けて入ってきた。彼女も常連の一人ではあるが、女医の診察日以外で来ることは珍しい。どうした風の吹き回しかと思っていたら、どうも降旗とは顔見知りのようだった。

「先生、やっぱり来ちゃいました」と申し訳なさそうにしている。

「あ、先ほどはご馳走様でした」とそれでも降旗は丁重に挨拶をしている。米家聖子の態度とは若干様子が異なる。それほど古くからの付き合いでもないのかと佑子は思いなおした。

「お知り合いですか?」

 佑子は二人の顔を代わる代わる見ながら訊ねた。

「応用化学の阿木先生とちょっとした面識がありまして、こちらへ来る前にご挨拶に窺ったのですよ。そちらでこちらの秘書の方と……」

「技術職員です」と聖子が訂正する。

「すみません、技術職員の米家さんとお茶を頂戴しながら阿木先生のお話を伺っておりました」

 今日初めて会った仲なのか、それにしてはあまり男性と馴染まない米家聖子が降旗と話をするのが楽しそうに見えるのだった。藤田沙希と同じ反応と考えるべきなのだろうか。

「で、やっぱり頭痛や熱っぽい感じは続きますか?」

 降旗は聖子に訊ねた。

「お熱を測ってみる?」と佑子は聖子を診察室へ誘導しつつ訊ねた。沙希には聖子のカルテを出すよう指示を出した。こころなしか沙希の顔が固くなっているように感じたのは考えすぎというものだろうか。

 聖子は「はい」と素直に返事してシャツのボタンを二つほど外して体温計を腋の下に差し入れた。

 何だか違和感のある光景だと佑子は思った。それはその後も続いた。いくつかの問診の後、聖子は大胆にも胸を開いて聴診を受けた。これまで女医以外の診察を受けたことがあっただろうかと記憶を穿ほじくり出したが、その断片すら見つけることはできなかった。

「特に問題ないと思いますが、ご希望なら風邪薬くらいお渡ししましょうか」

 降旗はソフトに語りかけ、聖子は満足そうに頷いた。

 聖子が退室した後に、彼女がつけていたと思われる化粧品の残り香が仄かに感じられた。その余韻を遮るように沙希が食器の後片付けをしている。何だか大きな音をたてていて苛立っているようにも感じられた。

 初日から若い女性の心を捉えてしまうくらい不思議な雰囲気の男だと佑子は思った。ただ単に格好が良いとかいう理由ではない。彼には何かしら人の心をつかんでしまう魅力があるのだ。

 そういうことを考えているところへ、静かにドアが開けられて、午前中に休憩をとりに訪室した東瀬麻美あずせまみが、同級生と思われる二人の女子学生に付き添われて入ってきた。

「頭痛がおさまらないので、また休ませていただけますか?」

「それなら、ちょうど校医の先生が見えてますから診察を受けましょうね」

 佑子が促すと、麻美はこくりと頷いた。

 佑子は沙希に目で合図し、二人の同級生からそっと話を聞くよう促すと、自分は東瀬麻美と一緒に降旗のいる診察室へ入った。

「じゃあ、先生に具合の悪いところをくわしく話してね」と佑子はやさしく麻美に語りかけた。


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