「さて、という事は次にいらっしゃるであろうお方は」

「吾が后」

 大君に睨まれバツの悪そうにそっぽを向いた諸兄は仕切り直すように言った。間違いなく乗っかってくるようなことを狙って。案の定、目の前の男は被せるように待ち人の名を呼ぶと、不機嫌そうなジト目顔をたちまちウキウキとした表情に変えて、今か今かと想い人を待ち侘びる。

 耳を澄ませるとゆっくりと足音が近付くのが分かる。段々と音が大きくなる。大君は直立不動で部屋の入口をじっと見ながら待ち構えていたが、その姿が正直面白かったと思ってしまったのは右大臣の墓場まで持っていく秘密である。


「大君」

「大后」

 この香りを聞くのは一体いつぶりだろうか。優しい陽だまりのような暖かい香りが部屋に満ちる。大君は一目散に駆け寄ると念願の妻の身体を固く抱き寄せた。その妻も迷わず夫の背中に腕を回して夫の背の形を確かめるようにそっと撫でる。

 ――苦しいわ、と妻がむず痒そうな顔をして夫の背をとんとんと叩く。夫は少し不服そうな顔をしつつも名残惜しそうに身体を離してその瞳を揺れるように捉えた。

「変わりないか」

「はい。大君も、お変わりなく」

「あぁ。………媛、その……」

「はい」

「……えっと、こういう時なんて言えばいいか。どうにも、言葉が上手く出てこないものだね」

「本当に。……会えて、嬉しいわ、あなた」

「僕も。君にやっと会えて、嬉しい」

 そっとその頬に手を触れて、髪を梳いて、ただ穏やかに微笑みを交わし合う。永遠と響く秋の虫の声も二人の耳にはまるで入らない。

「ん゛ん゛。それでは私もここで失礼させて頂きます」

 予想はしていたものの居た堪れなさが限界まで到達した諸兄は大きく咳払いをすると、一言挨拶をしてそそくさとその場を後にしようとした。そんな兄の姿に大后はハッとすると、大君からやや突き飛ばし気味に離れて背の丸まった兄を引き止めた。

「あっ。ごめんなさいね、兄様。どうか兄様もゆっくり休まれてくださいまし。この人について行くのはさぞかし大変でしたでしょうから」

安宿あすかべ?!」

 折角再会に浸っていたのにとか、なんで突き飛ばされたんだろうとか、自分の事を大変な人だって言ってない?とか、色々思ってしわしわな顔になった大君が驚いた声を上げて大后の後ろを追いかけて来る。そんなしょうがない男の姿なぞ一切お構いなく諸兄は微笑んで妹に返す。

「はい、一段落したらゆっくり隠居生活でも……」

「何言ってるんだ諸兄。まだまだ働いてもらうぞ」

「まぁ酷いわ」

「義弟が鬼……」

「……そ、そんな……別に……そんな風に言わなくとも……」

 妻と義兄に総スカンを喰らった大君は義兄はともかく妻からの批難に面食らい、皇帝の威厳というメッキが剥がれ落ちて情けない声を出すと、拗ねて奥へととぼとぼ帰っていこうとする。――もう、仕方が無いんだから。とその妻は大君の背を追いかけ隣に並ぶ。


「もう、あなたったら。私も兄様も冗談ですわよ?」

「よく僕相手に冗談しようと思うよね、恐ろしい兄妹だねホント……」

「それだけ信頼し合っているって事ですわ?……あら?あなたはそうでも無かったんですの?」

「そんな訳ないだろう!でも傷ついた」

「お許し下さい大君」

「許す」

「許されるのが早い」

「怒ってないからな」

「怒っておられなかったみたいですわ兄様」

「安心しました。今夜も良く眠れます」

「吉日にもよろしく言っておいてくださいな?」

「かしこまりました」

 そう諸兄は言うとほっぺたをぷるぷるさせながら一礼して去っていった。


 やっと部屋に二人きりになった夫婦は、優しく見つめ合うと、今度こそ固く抱擁し合って夕闇に溶けて行った。

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