夕焼け
「大君!平城宮より、
日が西の山に隠れかけたその時、大君の元へと急いで駆け込む宮人の姿があった。この知らせは何よりも大君が待ち侘びているものとその骨身に堪えるほど知っていたからだ。案の定大君は破裂するかのように素早く椅子から立ち上がると、声が上擦っているのを誤魔化しながら一言命を下した。
「すぐにでもこちらへ通せ」
「畏まりました」
「右大臣にも伝えたか」
「既に別の者が参っております」
「うむ。では、頼んだぞ」
宮人は頭を下げるとぐに踵を返して外へ小走りに去っていった。
「久方ぶりですね、変わりなくやっておりますか」
はじめにこの一室へ現れた女性は深みのある凛とした声で一言大君へと投げた。青と緑の美しい装束に身を包んだその女性は大君より明らかに年上であったが、その美貌も身体も衰えず、ぴんと伸びた背から有無を言わさぬ威厳を放ち甥を見据えている。諸兄は拝礼しながらも己とほとんど年の変わらぬこの女帝に畏敬と親愛の念を改めて覚えた。一方で大君は仮面を付け替えたかのように表情をころりと変えると努めてにこやかに返す。
「伯母上!遠路はるばる恭仁にまで来て頂き、感謝申し上げます。
「それは何より。……遠路はるばるだなんて、甕原から少し足を伸ばしたくらいの距離ではありませんか。なんてことはありません」
「ハハハ、伯母上もお変わりないご様子で安心致しました。まだ何も無い都、何も無い宮ではありますが、どうかごゆっくりお休みになられて下さいませ」
「えぇ、そうさせていただきますわね」
甥と伯母の言葉はそこで途切れた。二人の表情は実に和やかであるというのに、なぜか放たれる厳かで寒気がする空気がその一室に居る者全員にのしかかる。須臾、ピンと張った糸の端と端のように二人は互いに視線を交わしあっていたが、伯母が根負けしたようにひとつ溜息を吐いて目を伏せた。
「それでは、私は一旦、これにて」
側仕えの女官が伯母に傅くと、伯母は一つ頷いた。女官は応えるように立ち上がると太上天皇の仮宮へと先導する。伯母はついていくように部屋を出ようとしたが、何かを思い出したのかその出口で立ち止まり、大君に一言こう告げた。
「…………そう急かさずとも、貴方の大后はちゃんと参りますよ」
太上天皇の居なくなったその部屋には無言なれども秋を取り戻したような暖かな空気が戻ってきた。一人だけ、顔を夕焼けよりも紅く染めぷるぷると小さく震えながら棒立ちしている男の気温は夏模様であったが。
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