再開の夜
木春
昼下がり
「まだか」
尋ねられた
「未だ、ご到着なされておられぬ様子にございます」
宮人は頭を下げながら相手に悟られぬように静かなため息をひとつ吐いた。これでこのやりとりも何度目になるだろうか、と。目の前の男はその返答を聞くと眉間に小さく皺を寄せ、こめかみに手をあてて俯きながら再び雑然と部屋を歩き回り始める。不安からか、心配からか。それとも緊張からだろうか。男は今その心に迫り来る得体の知れぬ情動を抑える手段を他に知らなかった。
時々椅子に腰をかけて整然と積まれた書に目を通しその決裁の証として筆を運ぶのだが、やはり少し経つと席を立ち、部屋の外に控える官人宮人たちに同じことを聞くのである。
「……まだなのか?そうか。………今、どのあたりだろうか」
「大君。そう案じられずとも、順調にこちらへ向かって来られているようですぞ?」
「諸兄」
宮人たちを困らせ続ける男に慰めるように声をかけたのは右大臣、橘諸兄。この男の――大君の義理の兄にあたり大君が厚い信頼を寄せる太政官の長である。
「今しがた使いが
「本当か!」
大君は喰ってかかるように言葉を返すと、曇った顔にぱぁっと満開の花を咲かせてうんうんと頷く。諸兄は大君の隠しきれぬ喜びようにつられて穏やかな皺の増えた眦を下げると、ゆったりとした口調で言葉を続けた。
「嬉しいですなぁ……やっと会えますからなぁ………」
「や、やめよ大臣」
「失礼いたしました」
諸兄は微笑みながらゆっくりと頭を下げる。大君はわざとらしくぎこちない無表情を浮かべると、良い良いと一言諸兄にかけて姿勢を直させた。
大君が
途中、反乱を起こしていた広嗣の"処理"が終わったとの報告を受けた大君は不破関にて多くの兵を解散させて
到着してから出発する気配も見せずに恭仁の整備を進めさせ、息付く暇なく恭仁を都とする事を定め、そしてつい先日平城に残した妻娘と伯母をここへ呼び寄せたのである。
「そうだな。やっと会える。皆変わりなく息災で居るだろうか」
「火急の知らせもありませぬ故、皆々様、お変わりなき事と存じますぞ」
「うむ。……平城を出てから、二ヶ月になるのか……。長かったな……」
「はい」
「はやく。はやく……」
「………大后は、我が妹は、やはり、幸せ者ですな」
大君の浮き足立った様子に諸兄は朗らかに笑うとそう言った。言われた方は目を点にしてふるふると顔を振ると、拗ねたようにそっぽを向いてポツポツと返す。
「別に、会いたいと思っておるのは、大后だけでは無い。皆心配だ。顔を合わせて話がしたい」
「最もにございます」
「伯母上ももう良い歳だ。平城と恭仁はまだ近いとは言え、移動はさぞかしその身に堪えられる事であろう。お着きになられれば直ぐにでも礼を言わねば」
大君はその旅路を思いながら部屋の外に目を向け、大きく広がる青い空を見上げながら続ける。
「……阿倍も心配だ。いつの間にやら立派になったものだが、
「大君……本当の気持ちを素直に言っても、この老いぼれは何も言いませんぞ?」
すると大君は諸兄の様子を伺うようにちらちらと見る。諸兄は変わらず菩薩像のように柔らかい微笑みのまま相手の返答を待った。
「………さびしかった。
大君がそうポツポツ呟いたのを聞き取った諸兄はまるで弟や子を慈しむような優しい眼差しで小さく幾度か頷いた。部屋の外に控えている宮人も官人も、皆穏やかなほっこりした顔になって暖かな空気が広がってゆく。しかしそんなぬくい視線と無言の空気に耐えきれなかった者が一人。
「言わせておいてなんだ。何ぞ言わぬか」
そう言って大君はむすっとした顔で諸兄に返事を促した。諸兄は恭しく大君の足元に跪くと確かな口調で申し上げる。
「祝いの宴は明日を予定しております。今晩はどうぞ、ごゆっくりお休みくださいませ」
「……うむ。汝も
「ありがたきお言葉にございます」
「……お互い様だな、義兄」
「えぇ、左様ですな」
二人はそう言って互いに長らく顔を合わせていない妻を思いながら笑い合った。
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