蝉の羽音が視神経を刺激して、庭に咲く向日葵が蝋燭の火のように乱れる。
ぐったりとうつむく向日葵のそばで、困惑している和尚と、その反応に焦る小間使いが立ち尽くしている。
どうして二人が客間ではなく庭に出ているのかというと、屋敷に悪霊が住んでいるからだ。
屋敷の管理を任された盲目の小間使いは、何度も人の気配を感じていた。廊下で何かを引きずる音とすれ違い、襖を開けたとたん室内から聞こえる楽しげな声が途絶えたという。
人払いの術はほどこされているので、わけを知らない浮浪者がたどり着くことはない。
本来であれば相談を受けた和尚がこの世にとどまった霊を成仏させる予定だったのだが、悪霊は見つけられなかった。くまなく探し回ったのに。
怪奇な出来事だと思っていた事象は、幽霊やあやかしとは無関係だと結論づけるのが自然だが、そんなことはないと小間使いは抗議する。
しかし、たとえ霊が居たとしても会えなければ打つ手がない。
そんな二人のやりとりを僕は縁側から眺めていた。
「あの和尚、寺から出られないんじゃなかったのかよ」
憎まれ口が聞こえたとたん、僕は一人ではないことを思い出した。
隣を見ると、枝光が釘バットをくるくる回していた。
「よう、兄ちゃん。なんだかボーッとしているが、まだ寝ぼけてんのか?」
「いや、ようやく目が冴えたところだよ」
「そりゃよかった。じゃあ準備運動をかねて、ここにいる経緯を思い出してみようか」
夢の中にいる理由。
そうだ、なぜ夢を見ている?
僕は話し合うために亜紀さんに会おうとしていたのに。
まだぼんやりとした頭で、記憶を遡ってみる。亜紀さんの居る部屋に向かうところまでは思い出せた。
階段を登って、それから部屋に……入った記憶がない。
たしかに、いくら声をかけても塞ぎ込んだままなら、最終手段として夢の中に入ろうとも考えた。
でも、まだ話しかけてすらいない。
きっと、強制的に夢に連れ込まれたのだろう。それしか考えられないが、気を失う瞬間が曖昧なせいで現状に実感が持てない。
亜紀さんが極度に怯えているから攻撃してこないと決めつけていたが、よく考えると僕らは悪意ある夢を見せられ続けている状況下に置かれている。
「でもなんで枝光まで?」
「だって兄ちゃんは僕に憑依したまま姉さんに挑もうとしただろ? 道連れになるのは当然だよ」
「……ごめん。うかつだった」
「僕も私も怒ってないよ。むしろ兄さんの活躍を見学できる貴重な体験だ。ぜひ勉強させていただきます」
そして枝光はうやうやしく頭を下げた。
自分の身の安全より、亜紀さんの救出を優先する枝光は、その程度で怒ったりしない。
それどころか、夢の中の亜紀さんの方が、冷静に会話ができる思っているので、好都合だとさえ考えているだろう。
それにしても……他の枝光ならまだしも、この子に敬意を払われると調子が狂う。
僕がこいつに教えることはなにもないのに。
「実をいうと、昨日那珂川ちゃんの顔を見たんだよ」
頭を下げたまま、枝光がつぶやいた。
「一瞬だけ、生霊が見えたんだよ。あのときは秋吉の兄ちゃんにフラれた女だと思った。真相は兄ちゃんを恋敵のように恨んでいたとはな」
「だからフラれたかどうか尋ねていたのか」
「ちくしょう。見誤った」
「あれって先生の生霊じゃなかったのか。いやー、流石に秋吉についてきた生霊が箱の製作者だなんてすぐに気づかないよ。気持ち切り替えて」
落ち込んでいる場合ではない。
僕たちは一回目と同じ舞台の夢を見ている。
設定に若干の変更はあるものの、怪物はひそめている。
だから枝光は武器を持ってきた。
「怪物を倒せば、手っ取り早く、亜紀のお嬢さんを安心させてあげられるか?」
「冷静に考えてよ枝光。見たらアウトだよ」
「見たあとに何かが起こるんだろ? それに怪物は直接危害を加えない」
枝光は釘バットを振り下ろした。まるで目の前の敵を攻撃するかのように。
何かあった時、本気で戦うつもりだ。たとえ頭が狂っても、亜紀さんを救う。
すでに枝光は腹をくくっている。
「ちょ、ちょっと……まさか捨て身でいけば解決するとでも思っているの?」
「『僕は覚悟を決めている』。そして『私も反対していない』」
嘘をついていない声のトーンで枝光は宣言した。
怪物を倒しても必ず亜紀さんが救われるとは限らない。
兄として、枝光に無理をさせるわけにはいかない。
「枝光らしい。でもまずは亜紀さんと話し合うからね」
自分の服装を見ると、まだ生きていた頃、つまり中学校に通っていた時の制服を着ていた。僕は立花としてここにいる。
現実の世界で怯えている亜紀さんと僕には繋がりがない。どこまで話し合えるか不安だが、とにかく彼女を探すところから始めよう。
「お待たせ」
縁側を歩き出そうとしたその時、正面から沙希さんがお茶を運んでやって来た。今日は葬式ではないので、厚手のジャンバーとジーパンといった動きやすい格好をしている。山登りに向いている服装だ。
「廊下で待っていたの? 先に座ってよかったのに」
「いえ、ちょうど今きたところなので……」
僕らは壁の暗い客間へ通された。
湯呑みの中は空だったけど、お茶を飲みに来たわけではないのでお礼を伝えておく。
お茶を用意してくれたということは、僕らは招かれた立場なのだろう。
せっかく夢の人物と接触できるのなら、亜紀さんの行方を聞きだそう。
しかし、僕が喋り出す矢先に沙希さんがため息をついた。
「あの和尚は霊が見えないけどタイミングはいいね。だって今日が命日だから」
沙希さんの説明によると、この家には葬式をあげてもらえなかったせいで、自分が死んだことに気づかない幽霊がうろついている。それが悪霊の正体だ。
偶然にも和尚が寺に訪れた本日が幽霊の命日なのだが、肝心の和尚はその霊に会えずにいる。
「でね、その幽霊ってのがあたしなの」
「……あ、そうなのですか」
話の流れで、悪霊を探す展開だろうと予想していたが、あっさり見つかった。
まさか自分から告白してくるとは思わなかった。わざわざお茶を用意してくれる彼女が悪霊と思うまでに時間がかかりそうだ。
つまり、和尚が屋敷を歩き回ったのに見つけられなかったのは、霊が隠れていたのではなく、単に見えなかったからなのか。
「この世にとどまった霊は悪化するんだよ。それなのに、和尚に話しかけても無視された……。まあ、目的を果たしてくれるのなら、気づかれなくてもいいか」
和尚に呆れていた沙希さんは、庭の様子を見てため息をついた。ああ、ようやくかと、うんざりしている。
庭では和尚が苦し紛れにお経を唱えている。沙希さんが屋敷をうろつく悪霊だというのなら、やがて天へ召される。
「僕たちは亜紀さんに会いに来ました」
僕たちは立ち上がった。
別れ際に、亜紀さんの居場所をたずねようとしたら、沙希さんは眉をひそめた。
「行かない方がいいよ。移るから」
「移る?」
「朱に交わると赤く染まるってやつ? そばにいるだけで精神的な影響を受けるから」
なんとなく言いたいことはわかる。
彼女が爆発的に怯えだすと、憑いた人間にも伝わって発狂のような状態におちいる。
しかし僕らはすでに、接触したらアウトの状況を通過している。
たとえ会うべきではないとしても、会話ができるかどうかが重要だ。
「一番苦しんでいるのは亜紀さんなのでは?」
「わからない。親から亜紀に近づくなって言われていたから、ずっと避けていたからね。だから亜紀が怒っているのか、苦しんでいるのか、わからない」
「どうして近づいてはいけないのですか?」
これ以上は正確に答えられないと、沙希さんは首を横に振った。避け続けていたのだから、何も知らなくて当然だ。
「だったらあたしが案内するよ」
隣の部屋から、元気よく朝香さんが飛び出してきた。やっほーと大きく腕を振れば、指先を隠すカーディガンの袖がパタパタと揺れた。
「お母さんの世話をしているから、どこにいるかわかるよ」
「こんにちは、朝香さん。まだ若いのに大変だね」
腫れ物扱いされているのに娘を授かったのか。しかも我が子がお世話をさせている。
朝香さんはまだ若い。学校もあるのに忙しいだろう。
「先に生まれた人間から寿命をむかえてしまうから、親がいなくなったあとは子供が次のお世話係としては最適なんだって」
「それ……誰が言っていたの?」
「お母さん!」
朝香さんはそれが常識と言わんばかりに平然としている。
その反応を見ると、自分の役割に不満を持っていないようだ。
僕らは沙希さんと別れ、隣の部屋へ移動した。
その部屋は長く、突き当たりが見えない。
「この奥にお母さんがいるよ」
「お世話をしているの? 怪物がうろついている屋敷で? 危険だよ」
「怪物? ああ。かつて、うろついていたらしいね。その件はあたしが生まれる前に解決したよ」
心配にはおよばないと朝香さんはヒラヒラと手を振った。この夢の怪物は脅威ではないようだ。
「それにお母さんは屋敷から出られないから……」
ドゴオン!
ちょうど真横から、何かのぶつかる音が聞こえた。
前方しか見ていなかったので、壁一面を埋め尽くすお札に気づいていなかった。一目で封印しているとわかる。その奥から音は聞こえた。
「今のところはあたしがいるけど、その次は誰がお世話をしてくれるんだろう」
慣れているのか朝香さんは歩みを止めない。置いて行かれないようにあとを追う。
部屋はだんだんと薄暗くなっていく。
先頭を歩く朝香さんの白いカーディガンがハッキリ見える。
カーディガン。あの分厚い生地は冬用だ。もし彼女が幽霊なら、寒い季節に命を落としたのだろう。
「どうして亜紀さんは屋敷から出られないの?」
「ありがたい存在だから。人間だけど、神様になってもらった。神様だから、神様以外のことはしちゃダメなんだよ。それでお世話をする人が必要ってわけ」
「亜紀さんってすごい責任を背負っていたんだ。もし、亜紀さんがいなくなったら、別の誰かが神様になるの?」
「屋敷から出られないから、いなくならないよ」
朝香さんの白いカーディガンが見えなくなるほど室内は真っ黒になっていた。
前方に細い明かりが見えてきた。襖の隙間から明かりが漏れている。
「お母さーん。お客さんが来たよ……って、うわっ! 散らかしっぱなし!」
室内の状況を見た朝香さんは慌てて部屋に入っていった。
まだ入ってはいけないような気がして、外から室内を覗く。
四畳半の畳は大量の衣服で見えない。整理整頓ができてないという意味の散らかしっぱなしだ。
襖を開けてから生ごみの匂いが強まる。室内に食べ物らしきものは見当たらないのに。
「こんちには。こっちでお喋りしましょう」
着物姿の亜紀さんがニコニコ笑っている。
叱られたばかりなのに、幸福に包まれた微笑みだった。
あんぐりと口を開け、目を三日月のように細めるその表情は、赤ん坊を連想させた。
彼女の外見は二十歳前後だ。そのズレに気味の悪さを感じた。
亜紀さんがしげしげと僕を見ている。遠慮なく観察する目つきも赤ん坊みたいだ。
僕は部屋の外から質問を投げかける。
「こんちには、あなたはだあれ?」
「亜紀だよー。あなはだあれ?」
「亜紀さんに困っていることや悲しいことがないか聞きに来たんだよ」
「ないよー」
「じゃあ幸せなんだね」
「そう。あなたはだあれ」
ストンと、目の前の襖が閉まった。僕らの無意味なやりとりに呆れた枝光が、強制終了するべく襖を閉じたのだ。
「何やってんだよ兄ちゃん。怪物を慰めても意味ないだろ?」
「あー、やっぱり? 皮を被っていれば亜紀さんになるのかなって思ったんだけど……」
あれは亜紀さんではない。亜紀さんのフリをした偽物だ。亜紀さんの皮をかぶった怪物だ。
たとえ怪物でも、亜紀さんに成り代わっているのなら亜紀さんと認識していいとしよう。
それでも、部屋の中にいる彼女は満面の笑みで、困ったことはないと言った。幸せ者を救う方法を僕は知らない。
「子供が産める頃合いを見計らって怪物と入れ替わっている」
「皮って成長しないんだな。思春期の少女の母親が二十歳でも辻褄は合うってわけか」
「さっき壁の中から叩いたのは皮を奪われた亜紀さんかな? まだ生きているのか」
「皮を剥がされた方を封印すれば、他の人は安心して過ごせるって理屈か。僕がこの場にいたら怒っていたな」
枝光が吐き捨てるように言った。
襖の向こうから亜紀さんが呼んでいるが、不用意に赤い場所へ近づかない方がいい。
一方、皮を剥がされた方は知能が下がっている。会話なんてもってのほか。
残念ながら夢の中では亜紀さんとの会話はできなくなった。
「兄ちゃん。どうしようか?」
「ここでは何もできないよ。目を覚ます方向で──」
喋っている途中で、大量の釘が刺さったバットが体をすり抜けた。
兄が怪我しないよう刺さらない程度にゆっくりだったけど、断りもなくバットを近づけられると心臓に悪い。
「あー、やっぱりか。霊が当たり前にうろついているから、もしかして兄ちゃんも幽霊かもって思ったんだ」
「なんで枝光はこころなしか嬉しそうなんだ?」
「たとえ目が合っても奪う皮がないから安心していいよ」
目が合う? 壁の中にとじこめられているのに?
「じゃあ次は僕のターンだ」
隙間から漏れるわずかな明かりが、枝光の笑みを照らす。笑顔を取り繕うとしたけど、ドン引きが隠しきれなかったような、ぎこちない表情だった。
心情を読み取る前に枝光は踵を返し走りだした。
「枝光! なにを…………。え、まさか……嘘でしょ⁉︎」
「いいか兄ちゃん! 庭に避難するなり目を逸らすなりしてくれよ!」
勢いをつけて、お札だらけの壁に向かってバットを叩きつけた。たった一発で、すべてのお札が吹き飛んだ。
僕が言葉を失う目の前で、さらにバットを振るうと、今度は壁が崩壊した。
壁の向こう側に、枝光は話しかける。
「素手が心細いのならくれてやる。今のあいつはニコニコ笑って怖くないぜ」
バットを投げ捨てるなり、枝光は亜紀さんのいる部屋とは反対方向へ歩き出した。ふりかえりはしない。あとのすべては亜紀さんに委ねるつもりだ。
たとえ、彼女が戦うことから逃げたとしても枝光は怒ったりしないだろう。その選択を受け入れたうえで、別の解決策を探す。
これが枝光の考えた打開策。
塞ぎ込んでいる人に励ましの声は届かない。だから説得は諦めた。
助けるのではなく本人が勇気を出して動くチャンスを与えた。
釘バットを取れ。
まだ心が死んでいないのなら、戦え。
誰の手も取らないのなら、彼女を救うのは彼女自身だけだ。
そうか。そういう方法もあるのか。
ことのてんまつを見届ける必要はないと判断した僕は、目をつむったまま歩く。僕の進む反対の方向から女の断末魔が聞こえてきた。それが誰なのか知るよしもない。
夢の中の展開が枝光の深層心理を反映しただけのもので終わってしまわないように、僕は今度こそ現実に向き合う──つもりだった。
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