容疑者を絞る

バケツの水をぶちまけるように僕は転倒したはずだ

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 バケツの水をぶちまけるように僕は転倒したはずだ。

 目を覚ますと、僕は隅に追いやられていた。背中を壁に預けるような体勢に変わっている。


 指先に力を入れてみる。夢の中でバラバラにされていたショックがまだ残っているのか、うまく動かせない。


「……生き返った」

「くだらない理由で気絶していただけだ」


 森井に冷ややかな目で見下ろされた。

 逃げるべき状況で呑気に寝ていた僕に呆れている。


 しかし森井は避難せずに従兄が目を覚ますまで待っていた。

 すでに危険は去ったと考えていいだろう。


「相変わらず、枝光君のことになると周りが見えなくなるな」

「兄なんで」

「転倒した際ちゃんと手をつけられないとは情けない。いくらなんでも我を忘れすぎだろう」

「頭を打った従兄に冷たいな。森井らしいけど」

「もう頭に血はのぼっていないな?」

「うん。流血していないようだし問題ない」

「わざとか? 会話が噛み合ってないのだが」


 森井が頭を押さえてため息をついた。



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「ありがとうございます! お兄さんが注意してくれたおかげで、穏やかに解決できました」

「はは、お義兄にいさんだなんて照れるなあ」


 枝光は和輝にペコペコ頭を下げていた。

 一礼一礼に勢いをつけているのでスカートがパタパタとはためく。

 枝光は言動がいちいち大げさだが、今回は命を救ってくれた感謝を全身であらわしているのだろう。


 二人の様子から察するに、外の騒動に気づいた和輝が駆けつけてきてくれたのか。

 異変に気づいて様子を見にきてくれたのが和輝だけというのは、なんだか不思議だ。


 映画に出てくるゾンビのように、がむしゃらに襲ってきた女性の姿が見えない。

 どこに行った? とりあえず危険は去ったのか?


「彼が錯乱状態の女性を説得してくれた」


 森井が手短に話してくれた。理解しがたい状況を目の当たりにしたのだろう。腑に落ちない表情を浮かべている。


「あなたは図書館で働いているのだからカウンターに戻りなさいと、言い聞かせていた」

「ごもっともだね」

「すると彼女は正気に戻った。まるで憑き物が落ちたようだった」

「なんだ、話し合いで解決できたのか」

「取り合ってくれるように見えたか?」


 枝光を襲ったあの人は、何者かの操作によって体を動かされているように見えた。

 聞く耳を持たない状態だったのに、和輝の言葉に反応した。しかも元に戻った。


「彼は何者だ?」


 森井は腕を組んだ。助けてくれた和輝に向ける目は、警戒している。



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義妹いもうとさんが無事でなにより! フフ。まずはこの子から手懐けるところから始めようか」

「それは聞き捨てならないな。たとえ命の恩人だとしても、スカートをまくった罪は消えないからね」

「あ、お兄ちゃん!」


 和輝に頭を撫でられていた枝光はハッと目を見開いた。

 お得意の愛想笑いが崩れて、愕然とこっちを凝視している。


 一方和輝はあからさまに顔をしかめた。懐柔する矢先に僕が割り込んだから気にいらないのだろう。


「出たな、お邪魔虫め」

「虫じゃなくて親友だよ。そんな態度じゃ僕は協力者になってあげないよ」


 たとえ森井のついでに助かったとしても、お礼として和輝にチャンスを与えたい。

 というか、僕が和輝に聞きたいことがある。

 話すきっかけは……。


 ポケットの紙札を確認してから提案する。


「そろそろお昼になるし、みんなで駅前のパン屋に行こう。いいか和輝、あまり高いものは選ぶなよ」

「え! マジで!」


 一番喜んだのは、もちろん和輝だ。

 明らかに森井から距離を取られて元気がなかっただけに、その喜びようは半端ない。

 直接話せなくても、そばにいるだけで十分幸せなのだろう。


 しかし森井はぶっきらぼうに断った。


「遠慮する。彼女が良しとしないだろう」

「彼女って、和輝の? いやいや、それだけはないよ」


 だって彼女がいながら森井とお近づきになりたいって……いや待て、そういえば和輝は森井と話がしたいだけだと言っていた。

 そもそも恋仲になることを目標としていない。その理由は……?


「……浮気相手を探しているのか」

「アッキーの目が怖い! 誤解だって! オレに彼女なんていない!」

「しかし一緒に雑誌を読む仲なのだろう? お似合いだと思うがな」


 森井が「お似合い」を強調すると、和輝の顔色はさらに悪くなった。否定するどころか、言葉に詰まっている。

 心当たり、あったのか……。

 

 まあ恋人ではないのなら、たまたま女子と一緒にいる瞬間を目撃されたのだろう。

 一番誤解されたくない人に見られてしまったのか。可哀想に。

 

 それにしても、危険人物でない限り人の顔を覚えようとしない森井が、本を読んでいるだけの人を記憶していた?

 なんだからしくない。



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 とにかく、たった一度でも和輝の隣にいた女子は森井にとって都合がいい。

 恋人ということにしておけば、自分が無理に和輝と面会せずにすむから。


「そういうわけだから、あとは秋吉殿に任せる」

「あ、あのね、森井ちゃん。僕がパンを食べたがっているんだけど……」

「枝光君。私についてきなさい」

「はい……」


 肩を落とす枝光を連れて、森井は商店街の方へ行ってしまった。


 任せると言われてもな。

 誤解が解けずに膝から崩れ落ちている親友をなんて励ませばいいんだよ。


「…………よかったね。パンが三個も食べられる」

「そんな気分じゃない」

「とりあえずパン屋へ行こうよ。途中まであの二人と同じルートなんだから」

「ストーカーじゃねーか!」

「とりあえず今日は遠目で堪能すればいいってことにしなよ」


 後襟を掴み、ゆっくりと歩こうとしたが、重くて進めなかった。

 自分で歩けと肩を叩くと、和輝はヨロヨロと立ち上がった。


「あー、あの時だ。でも彼女じゃないのに……」

「ドンマイ」

「こうなったらアッキーとあいつをくっつけるしかない。そうすれば誤解は解ける……」

「その考えは最低だよ。見ず知らずの地味な男子といきなり交際させられるとか、女の子が可哀想」

「アッキーのクラスメイトだから見ず知らずではない」


 勝手に進めないでほしい。


 お互いに好意はなく、他人に押し付けられて誕生したカップルなんて不憫じゃないか。どちらも幸せになれない。


 それに、相手の女子は顔見知りの和輝のほうがまだマシだと思うに違いない。


「その女子と読んでいた雑誌って、『恐』? もしかして、心霊芸術家こと則松さんのインタビューで盛り上がった?」

「なんで知ってんだよ。じゃなくて、なんで知っているのなら訂正してくれなかったんだよ」

「僕は推理しただけだよ」


 予想が当たっただけ。

 というか、そうでなければ辻褄が合わないんだよね、いろいろと。

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