謎の章
【怪物の棲む夢】
***
三十路を過ぎた顔色の悪い女性がわずかに口を動かしているが、遠くから聞こえてくる蝉の鳴き声に遮られる。
否、そもそも驚きのあまり言葉を失っているのかもしれない。それでもなにか喋ろうとして口を動かしているだけで。
彼女の顔色が悪いのは元からではなく、僕の訪問した理由を聞いたからだった。
寺の和尚におつかいを頼まれて、僕は山の麓に建てられたこの屋敷を訪れた。
話は通してあるから「引き取りにきた」とだけ言えば伝わると聞いていたのに、出迎えてくれた小間使いは僕の訪問に驚いていた。
事情を説明しても思い出す素振りさえしない。まるで初めて知ったような反応だ。それでは困る。
僕の感情を読み取った彼女は黒目を忙しなく動かして思い出そうとしているが、血色が悪くなるばかりだ。
なんと彼女は一昨日から雇われたばかりの小間使いで、前任者や屋敷の主から何も聞かされていないという。
申し訳ありません。時間はかかると思いますが、一度屋敷を隈なく探してみます。ところで、あなたに渡す予定だったという物の特徴を教えていただけますでしょうか?
今度はこちらがたじろぐ番だった。
和尚から詳細を明かされていない。
桐の箱を受け取ったら寄り道せずに寺へ戻ってこい、決して箱を開けるなと念を押されたので、無意識に箱の中身に触れてはいけないのだと思い込んでいた。
和尚は徹底的に箱の中に入っている物の説明を伏せていたので、たとえ何が入っているのか尋ねても教えてくれなかっただろう。
「ごめんなさい。桐の箱に入っているとしか答えられません」
僕が正直に答えると、小間使いの彼女は恐る恐るといった様子で質問を投げかけた。
「箱……棺桶も含まれますか?」
棺桶。たしかに日本の棺桶は木製が一般的だ。
葬式と和尚は結びつくが、僕一人で運ぶには大きすぎる。
「これから葬儀が始まります」
「それで真っ先に棺桶が思い浮かんだのですね」
いつの間にか、周囲を取り巻く蝉の声が、老若男女の喧騒に変わっている。
怒号が飛び交うやりとりは、これから親しい人と惜別する雰囲気とかけ離れていた。
怒鳴り声に耳を傾けてみると、「死体はどこだ」ではなく「誰が死体だ」で言い争いをしている。
ますます、葬式が行われるのか怪しい。
彼女は萎れた声で呟く。
棺桶の中は無人でした。そのせいで、誰をとむらうのか、わからないのです。これでは葬式が始まりません。しかし、おかげで探す時間が確保できました。
それはありがたいと、不謹慎ながら思ってしまった。
急いで回収するよう和尚に頼まれた。なんとしてでも見つけなければならない。
「屋敷を管理している
葬式は必ず屋敷で行われるしきたりによって今日はにぎわっているが、基本的に加納家の人間以外は出入りを禁止されている。
なぜなら不幸を招く呪われた品々をこの屋敷で保管しているからだ。
しかも噂によれば人間ではない存在がうろついているという。
目が合うと頭が狂うため、今のところ容貌を詳しく語る者はいない。
管理人を決め、屋敷の出入りを制限することで犠牲者を最小限にとどめている。
和尚と引き渡しの日常を取り決めたのは加納家の者だ。小間使いに何も告げていないのなら、責任者が直々渡してくれるのだろう。
旦那様は別件で屋敷から離れた倉庫にいます。奥様は葬儀に参加される皆さまのためにお茶を用意しています。ここからだと奥様が一番近いです。案内します。
長居すれば狂うと和尚から注意を受けたが、手ぶらで帰るわけにはいかない。
意を決して屋敷へあがる。大丈夫、忠告は覚えている。
赤い場所へ行くな。黒い部屋へ逃げろ。
無事に屋敷から出るための言い伝えだが、初めて足を踏み入れる屋敷のどこに黒い部屋があるのか不明である。
小間使いは三歩進んで足を止めた。玄関からでも見える位置に襖がある。
そこへ彼女は声をかける。
和尚におつかいを頼まれた者が訪れました。怪物ではありません。どうか対応をお願いいただけますか。
襖の奥まで聞こえるよう大声で伝えると「どうぞ」と控えめながらも耳に残りやすい小声が返ってきた。
これからわたしは桐の箱を捜索して参ります。どうかあなたは話を聞き出してください。まずは怪物ではない証拠にあなたが襖を開けてください。
この屋敷には恐ろしい存在が徘徊している。
よって、屋敷内の人間と対話するならば、自分自身がそれではないと認めてもらうところから始めないといけない。
失礼します。開けます。
慎重に襖を開けて室内をのぞくと、開いた仏壇に背を向けて正座をしている人影もまた、部屋に入ってこようとする僕をじっと見つめていた。
こんにちは。そんなに怖気付かれると、かえって申し訳ないわ。
先に挨拶をしたのは相手だった。落ち着き払った裏声じみた声は、声量をひかえていても鼓膜がビリビリと震えた。
黒髪だった名残のない白髪や骨と皮だけの腕から、齢は七十を過ぎていると推定した。
しかし、滑舌の良い張りのある声はとても長寿を迎えているとは思えなかった。
僕は訪問した理由を説明しようと口を開いた。そうすることで怪物ではないと信じてもらうためだ。
しかし、声を発する前に相手が喋り始めた。
あの異形な存在は、断りをいれて部屋に入ったりしません。それに襖を開ける知性もない。むしろ開けっ放しだと入りこむのよ。本物がそこを通る前にこちらへ避難しなさい。
そういうものなのかと納得しながら、僕は部屋に入り後ろ手で襖をしめた。
机の上には、殻を剥いたゆで卵のような質感の湯呑みが隙間なく置かれている。すべての湯呑みにはお茶が注がれている。
葬儀に参加される人々のために用意したのだ。
「取りに来るのが遅い」
机を挟んで座った直後、冷たい手で張り手でも食らったような鋭い痛みが走った。
少なくとも目の前の彼女は張り手のつもりで声を放ったのだろう。恨みがましい目つきで僕を睨む。
本来なら和尚に向けられる非難を、僕が代わりに受ける。
じりじりとくすぶりにも近い罪悪感を、和尚の代わりに抱いている。
「どうして沙希が死んでから動き出すの? 手遅れじゃない。あなたが先に回収しておけば、娘はあれを拾わなかったのに」
「ま、待ってください。なんのことですか? そもそも沙希さんだけはありえません。だって……」
長女の沙希さんは旅行雑誌のライターで日本のあらゆる観光スポットを巡回している。
怪物のいる屋敷から逃げるように上京したのだから、これから和尚に引き渡すなにかと無関係だ。
たとえ用事があって屋敷に戻ってきたとしても、余計なものには近寄らないだろう。
「数日前に沙希から連絡が来たの。四国の有名な神社で、おかしな物を拾ったと。特徴を聞いているうちに確信したわ」
「まさか、たまたま早希さんが拾った物こそ、寺に届けられる予定の物だったと? しかしなぜそんなところに?」
「わからないわ。でも、実際あれは紛失していたの。とにかく娘が届けてくれるから、確認する日を待っていたの。でも飛行機の事故で丸焦げになって……」
脳裏に真っ赤な地獄絵図が広がった。
炎に包まれた飛行機。ぞろぞろと乗客が外へ出てくるが、全員力尽きて倒れてゆく。
遠くから消防車の警報が聞こえるが、近づく気配はない。
消火活動をおこなっても誰一人助からないと諦めている。
赤い場所へ行くな。
黒い部屋へ逃げろ。
赤。
炎。
なんて不運。
赤い場所は突発的に出来上がった。
「赤い飛行機なんて乗るから……。いや、そもそもあの子がすぐに捨てなかったからよ。こんなことになるのなら、持って来させるべきじゃなかったわ……。わたしが繋げてしまった」
「繋げた? しかし怪物は屋敷から出られないのでしょう?」
「出られないから、自由に動き回れる人間の脳味噌に分身を植え付けるのよ。その証拠に沙希の死因は焼死なのよ」
「そ、そうでしたか」
なぜ、その証拠として焼死が挙げられるのかわからなかったのは、ぼくがまったくの部外者だからだろう。
「怪物は人間に擬態して火にまつわる災いを招くと聞いているわ」
「火災。だから、赤い場所へ行くな……」
「馬鹿な忠告よ。災害は唐突に向こうからやって来るのに」
僕はどんな言葉をかけていいのかわからない。
娘の死に対し悲しみに暮れ、恨みを募らせ、ひどく悔やんでいる。
この人にとって、娘の死は不慮の事故ではないのだろう。
ほんの些細な選択で命をおとすことはなかったかもしれないのだから。
深いため息から悲嘆とも落胆ともとれる感情が伝わってきた。
憐れんでも悔しがっても後の祭り。
わかっているけど割り切れないのが人の心。
「お母さん! お茶を淹れたのなら呼んでよ!」
重苦しい空気を打ち破るように勢いよく襖が開いた。
部屋に入ってきた恰幅の良い女性は、お盆に素早い手つきで湯呑みを置いていく。
乱雑にあつかうせいで溢れたお茶が畳や袖を濡らす。
あんた誰? 少なくとも葬儀の参加者じゃないよね?
その女性は僕の方を見ないで尋ねてきた。
部屋に入った一瞬で、私服姿の僕を葬儀の参加者ではないと見抜いた。
「そういえば、今日はお客さんが屋敷に来るって言っていたような。もしかしてあんたがその人?」
「はい。おそらく……」
はきはきと喋る人だ。
それにはっきりとした顔立ちも加わって彼女から快活な印象を受けた。
「僕はその和尚に頼まれてある物を回収しに来たのです。しかしそれが何なのか聞きそびれてしまい……。あの、心当たりなどは……?」
「え、なんだろ。あたしは知らないね。母さんは?」
「……主人に任せているので、わたしには答えられません。あくまで加納家の子供を産む役割のみ押し付けられ、屋敷の管理までは……ひい!」
とつぜん大きく目を見開いた。
彼女は僕の背後を凝視している。しかし後ろは襖……いや、お茶を運びやすいように開けたままだ。
すると廊下にいる何者かに怯えている。
「目が合った」
絶望的な声だけで僕はすべてを理解した。
見てはいけない存在が、振り返ったらすぐそこの距離まで迫っている。
前を向いていろ。
いや下を向け。
後ろは見るな。
余計なものを視界に入れるな。
自分に言い聞かせていると、箱に怯える従妹の悲鳴が脳内で自動再生される。
下を向け。
目に焼き付けるな。
狂う。狂う。頭が。
「逃げるよ」
畳一面の視界の端から手が伸びた。
心臓が止まりかけたが、僕の腕を掴んだのは先ほど部屋に入ってきた明るい女性だった。
彼女は僕を隣の部屋へ押しやると、素早く閉めた。
閉めた直後の襖を激しく叩きながら、甲高い罵倒が聞こえてきた。
よくも開けたままにしたわね。そのせいで、そのせいで入ってきたじゃない。脳みそが爛れる。目が痛い痛いいたい。あつい。ゆるさない。もうたすからない。だずげで。
目が合ったから母さんは狂ったよ。
静かな声で娘はつぶやいた。
救えないと理解しているのか、迷いのない足取りで歩き出す。
「屋敷をうろつく異形は人間を追いかける習慣があるからね。常に追われていると思って。警戒してね」
「肝に銘じます」
「もちろん振り返っちゃダメだからね。あんたも部屋の戸締まりは徹底してよね。じゃないと母さんみたいになるから」
誰の不注意であの人は狂ってしまったのか問い詰めたくなったが、責めたところで現状は変わらない。
僕は話題を変えることにした。
「助かりました。えっとあなたの名前は……」
「加納沙希。苗字だとややこしいから沙希でいいよ」
「では沙希さんで」
さて、僕らは危機を回避したが、同時にあの人を見捨てた事実を忘れてはならない。
怪異に対処する術を持たない僕たちは、せめて救出してくれる人を呼ぶべきではないだろうか。
その旨を伝えると沙希さんは眉間に皺を寄せて唸った。
「目が合った人は絶対助からない。脳味噌をやられたあげく、皮を剥がされるから」
「恐ろしい……。まるで鬼です」
「鬼はここにいないよ」
「なぜ、皮を剥ぐのですか」
「かつて皮を剥がされたからだよ。痛かった記憶って残りやすいでしょう? まともに会話できないほどに知能は低下しているのに、奪われた皮を求めて歩き回るんだよ」
ほらね、だから救えないんだよと、沙希さんは同意を求めるような目で僕を見た。
「それなのに、誰に頼るっていうの? 医者は見当外れだし、警察は論外よ。葬儀のために屋敷へやってきた人々はもってのほか。道連れにするつもりならあんたは外道よ」
「沙希さん。まだ寺の和尚を挙げていませんよ」
ダメ元で言うと、沙希さんに鼻で笑われた。
知らないの? 和尚は寺の敷地から出られないのよ。だからあんたにおつかいを頼んだでしょう?
そうだったのか。
僕は何も疑わず、深く考えず、言われた指示だけに従っていた。
屋敷から寺へ物を運ぶだけだと思っていただけに、考えなしの自分を痛感する。
まさか和尚に届ける物が紛失していて、怪物の居る屋敷にあがることになろうとは想定していなかった。
万が一に備えて和尚に聞き出すべきだった。
「そういえば、箱の中が空だからって、妹の亜紀が探していたような」
「亜紀さん、ですか」
「あの子は勘が鋭くて、危険を避けながら屋敷内を歩き回れる逸材よ」
葬儀に参加するために一時的に戻って来ただけで血の繋がった部外者だと言わんばかりに胸を張っていた沙希さんが、妹の名前を口にした時だけうつむいた。
霊感が強くていざという時に頼れるからね。
結果的に屋敷の管理をあの子に押し付けるようなかたちになってしまったけど……。
悔しそうに唇を噛みしめた。
僕は見なかったことにして前を向いたまま尋ねた。
「では、妹さんに報告しましょう。客間にいますか」
「あのさ、今日の葬式は亜紀をとむらうためなんだけど」
その声は
これで何回目よ、ちゃんと覚えていてよと、苛立ちが含まれている。
僕はとんでもない過ちを犯したような気持ちになった。
「ごめんなさい。初耳だったもので……」
だから沙希さんは白装束ではなく喪服用のドレスを身に纏っているのか。
「べつにあんただけじゃない。みんなも今日は誰の葬式なのか意見が一致しなくて言い争っているから」
そして沙希さんは自分の主張の正しさを伝えるべく、妹の死を事細かく語り始めた。
買い出しを頼まれて遠くのデパートに行った亜紀さんは、火事に見舞われて命を落とした。
……お母さんのせいだから。なにがなんでも苺を買ってこいと言うから、めったに行かないデパートまで行って火災に遭った。
怒りの矛先は娘の死因につながった母親に向けられている。
すると、さっきの不注意は意図的な事故かもしれない。
言い替えるなら復讐だ。
赤い果物を探した果てに赤い炎に包まれた。
また火事だ。また赤い場所だ。また赤色がきっかけだ。
あれ、待って。と、沙希さんは息を飲んだ。
大きな見落としに気づいたような反応だ。
「あれはお母さんじゃない。そうだよ。だって加納家のみんな、苺は好きじゃない……」
「怪物は人間に擬態して火災を招く。擬態ってそういう意味だったのですね」
「でも、怪物が擬態できるのは死んだ人間だけで、母の訃報なんて聞いてない。それにさっき……」
答えに辿り着く前に騒がしい客間に到着した。
沙希さんはさっさと配膳を配りはじめた。
言い争いの絶えない客間の壁は、月のない夜のように暗い。
室内は明るいにもかかわらず。
なるほどこれが黒い部屋か。
葬儀の参加者たちはまだ言い争っている。
今にでも取っ組み合いが始まりそうな険悪な空気に耐えきれず目をそらすと、松の枝に縄を縛りつける若い女を見た。
垂れた縄の先は輪っかになっている。
首を吊るつもりだ。
他に縄を垂らす理由はない。
僕は庭にでた。
「待ってください。いったい何に強いられて自害するつもりですか。あなたのこれからする行為は意味のないことですよ」
まさか呼び止められるとは思いもしなかったようだ。
弾かれるように、泣きはらした目がこちらに向けられた。
目の下の隈は濃く、頬は痩せこけている。
この表情は一日でできたものではない。
日に日に衰弱していったにも関わらず誰も気にかけなかったのか。信じられない。
……放っておいてください。
彼女のか細い声は針のような鋭さがひそんでいた。
非難めいた目で睨まれ、引き止める僕が悪いのではないのかと不安になった。
もちろん、ここで引き下がる訳にはいかない。
「なら僕を説得させてください。納得したら手を出さないと約束しましょう」
「わかりました」
小さな椅子の上に立ったままだが、彼女は縄から手を離してくれた。
涙を袖で拭くと、凛とした顔つきで僕を見下ろした。
少しつり上がった涼しげな目元は、沙希さんとよく似ていた。
「わたしは加納亜紀。屋敷の管理人になれなかった落ちこぼれです」
「あなたが亜紀さん……」
「姉の沙希が家を飛び出し、わたしが父の次に怪物のいる屋敷を管理するはずでした。そのことに関しては不服ではありません。霊感は強い方なので向いているだろうと受け入れていました」
悔しそうな口調から、父の役目を継げられなかった無念が伝わってきた。
危険な仕事を外されて命拾いしたのに、自害を選択するのは視野が狭まっている証拠だ。
父が選んだのはわたしの娘、朝香です……。信じられません。あの子はまだ十四なのに。
彼女の悔恨は娘を心配する心のあらわれだった。
話を聞くと、朝香さんは現在の管理人である亜紀さんの父親から仕事を教わっている。
対して亜紀さんは屋敷の出入りを禁止されている。
わたしが寺で修行していたとき、和尚から言い聞かせられた忠告は今でも覚えています。『はじめは青いがだんだん白くなる』と。あの異形が青いうちはまだ命の猶予があるけれど、白くなったらおしまいなのです。
どれだけ注意を払っても危険は着実に迫ってきている。
よって屋敷を管理する仕事は一人の人間が長く続けられない。
基本的に一歩手前のところで、次の人に仕事を任せる。
もし線を超えてしまったら?
「朝香は学校に火をつけて、そのまま焼け死にました。取り込まれた証拠です」
「そんな」
「自分に火をつけて命を落とす。加納家の人間なら珍しい死に方ではありません」
亜紀さんははっきりと言った。
遠目から見れば安全というわけではありません。見過ぎてはいけないのです。限度をこえてしまうと、その人はある色を見るなり気が狂ってしまうのです。
僕は言葉を失った。
どうやら異形なる存在は青から白に変色するらしい。
真っ白になるまでにどれくらいの猶予があるのかわからないが、まだ十四歳の朝香さんが不条理な理由で命を落とすには早すぎる。
「怪物は人間に擬態し火災を招くと言い伝えられていますが、脳味噌に狂気が住み着いた人間とどう違うというのでしょう?」
「亜紀さんは、怪物の正体が狂ってしまった人間であると思っているのですね」
「だって実際に火を放つのは屋敷から出てきた人間です」
「つまり今日は娘の朝香さんの葬式だと?」
「わたしはそう思っています」
まただ。
いろんな人の話を聞くたびに、誰の葬式なのかわからなくなってくる。
一気に情報を詰め込まれ、頭の回転が鈍ってきた。
事故で死んだと思われた沙希さんは生きていて、火災で命を落とした亜紀さんは生きている。
この流れだと朝香さんも……。
「娘が理不尽な死を迎えたのに、わたしだけのうのうと生きているなんて許されません」
「そうだったのですね。しかし待ってください。やっぱり僕にはあなたが無駄死にしているようにしか見えません」
「屋敷の管理を外されたわたしは役立たずです。いてもいなくてもいい。すなわち生きても死んでもいいのです」
「だからといって、葬式のさなかに首を吊るのは場違いです。棺桶は空っぽなのでしょう。だったら娘さんを探すべきでは?」
「おかーさーん! なにしているの?」
時間を稼いでいると、セーラー服の少女が駆けつけてきた。
日焼けした肌と大きな目が少女に快活な印象を与える。
亜紀さんは幽霊でも見るような反応で女の子を凝視している。
無理もない。
火災で命を落としたはずの娘が生前と変わらない姿で現れたのだから。
初対面で図々しいことは承知のうえで質問する。
「朝香さんですよね? 今日は誰の葬式なのか答えられますか?」
「おばあちゃんの葬式だよ。加納家は意味不明な焼死を遂げる人がほとんどなのに、おばあちゃんは寿命をまっとうしたんだ。これはとても凄いことだよ。でも、遺体がなくなって……」
早口で説明する朝香さんは辺りを見回している。
彼女は無駄な口論をよそに、いなくなった遺体を探している。
「聞きましたか亜紀さん。今日は朝香さんの葬式ではありません」
「……この屋敷には死体が歩き回ります。なぜ死者や幽霊ではないかというと、そっくりな偽者か無残な死体のどちらかが徘徊するからです」
そこに魂は宿っていませんと、亜紀さんが警戒した目で娘を見下ろす。
朝香さんを歩き回る死体だと信じている目だ。
これ以上何を言っても無駄だ。朝香さんが本物なのかどうかは亜紀さんの判断に任せよう。
誤解を解く義理はない僕は、本来の目的を果たすべく二人に聞く。
「僕は寺の和尚に頼まれて、ある物を引き取りに来ました。いろんな人に聞き回ったのですが、誰一人ピンとこなくて……」
「あー! もしかして、あれかな?」
朝香さんはばつが悪そうに顔をしかめた。
実は一昨日、お手伝いの朱美さんが自分に火をつけて力尽きるまで屋敷を歩き回っていたんだよ。それで屋敷は全焼して……。和尚さんに渡すものを探してはいるんだけど、もしかしたら燃えたかもしれない……。
怒られてしまうと勘違いしている朝香さんは申し訳なさそうに事情を打ち明けてくれた。
屋敷が全焼した?
そんなわけがない。
それだけは絶対に有り得ない。
もし朝香さんが嘘をついていないのなら、これから葬儀が行われるこの建物はいったいなんだろう。
「ぎゃあああ!」
沙希さんの悲鳴が耳をつんざく。
振り返ると屋敷が炎に包まれていた。
客間にいた人々にも橙色の炎は移り、火だるまと成り果てた彼らはおぼつかない足取りで庭へ移動する。
炎をまとう顔面には大きな穴が空いていて、唸り声を発している。
彼らは流れに沿うように門の外へ出ていく。
火だるまの間を縫って沙希さんは庭の隅へ逃げた。
「まずい。怪物のたくらみで檻が壊される……って、亜紀⁉︎ どうして喪服を着ているの?」
「娘の葬儀に参加しない母親がいるとでも?」
「何言ってるのお母さん! 今日はおばあちゃんの葬式だってば!」
火の勢いは止まらない。
目の前の地獄絵図をものともせずに、三人は言い争っている。
誰一人離れようとはしない。
つい僕は口を挟んだ。
「あの、みなさん。話し合いは安全な場所に避難してからにしましょう」
「どうしてあなたは参加しないの」
喉を潰されたようないびつな声がすぐ後ろから聞こえてきた。
壊れたおもちゃのような甲高い声。仏壇の部屋でお茶を注いでいたあの女性だとわかった。
いい? この事態を収拾する方法は一つ。怪物を見つけ出すことよ。『お前が怪物だって知っているから逃げても無駄だ』と思わせることが重要なのよ。
だから三人は焦りながらも誰の葬式なのか激論を交わしているのか。
しかし三人とも人の話に耳を傾けずに、主張を突き通そうと声を荒げている。
このままでは結論が出る前に煙を吸って体調不良に陥ってしまう。
「あなたが怪物を見つけなさい。答えるための手掛かりはすでに揃っているでしょう」
「手掛かり……?」
目の前では炎を纏った人々が、ぞろぞろと移動している。
あまりに多すぎて一人一人を見定める時間がない。
悩んでいる間にも次々と火を纏った人間が外へ出て行く事実に、冷静さが奪われてゆく。
簡単なお使いをすませるだけだったのに、どうしてこんな目に遭っているのだろう。
いや、ともかく怪物を見つけなければ。
かならずこの中にいる。
だが怪物を直視したら発狂する。
矛盾している。
視界の端で沙希さんと亜紀さんと朝香さんが無表情に僕を見ている。
僕の答えを待っている。
急がなければ。怪物は……怪物は…………。
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