ドアが閉まると、止まっていた景色が動き出した。
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ドアが閉まると、止まっていた景色が動き出した。
日暮れの薄暗い町並みを電車の窓から眺めていると、今日も一日が終わっていくのだとしみじみ実感する。
こうして真田家から離れていく。
数分前に別れたばかりなのに、枝光の笑顔が薄れてゆく。
自分から近づかなければ枝光たちに会えない。
だから学校が終われば真田家に顔を出すようにしている。
枝光がもとの家に戻りたいと本音を口にする瞬間を待っていたが、あの子は新たな人生を受け入れていた。
改めて、困った人を見過ごせない正義感の強い性格なのだと痛感した。
話を聞いている限りでは植物のような清末兄さんや思慮深い森井と良好な関係を築いている。
どうしてあの二人の影響で、優しいお転婆と軽薄なお調子者が形成されたのか、今でも謎であるけれど。
ともかく環境や人によって性格は変わる。
朱に交われば赤くなる。
よって、新しい環境によって枝光が変わるのは当然だ。
幸いにも枝光はあっちでうまくやっている。向こうへ行ってから明るくなったのだから、心配するのは間違っている。
だからあとは、こっちの心構えの問題。離れ離れになった現状を受け入れるだけだ。
「……家に帰りたくないな」
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終点だというのに、ドアが開くなり女の人が車内に飛び込んできた。
彼女は降りようとしていた乗客をかき分けて、目の前まで迫ってきた。
「シューキチくーん! ねえ、箱は? 箱は⁉︎」
血走った目の瑞橋先生に肩を掴まれた。
幻覚であってほしかったが、車内にいた全員が驚きの目で瑞橋先生を凝視している。
「なんとか言いなさいよ。箱は?」
「え、えっと……」
目が泳ぐ。言葉が出ずに、口だけが意味もなく動いている。
まさか今日中に詰問されると思っていなかったので、心の準備ができていない。
だいたい、放課後にもらってまだ数時間しか経っていない。帰宅途中なのだからまだ使っていなくても責められる筋合いはない。
だが、口答えでもすれば激怒するに違いない。返答は慎重に選ぶべきだ。
「…………あ、あれは一体何だったのでしょう」
「まだ寝ていないだろうが!」
怒気のはらんだ一声で、車内は緊張と恐怖に支配された。
ドアは開いているのに、誰も電車から出ない。
だが彼らは怒りを向けられていないだけ、まだマシといえる。
「なに寄り道してんだよバーカ」
「ごめんなさい……」
「はーあ。見にくい、見にくい。とくに試験の採点は、苦労したわ。最悪」
「お、お疲れ様です」
「いたわってくれるのね。けど嬉しくない。いたぶられている気分なのよ。ねえ箱は持ってるよね? だったら早く使いなさいよ。今すぐに!」
先生の声が悲痛な叫びになっていく。放課後の時より余裕がなくなっている。
「あ、あの……」
謝罪はこの場では何の意味をなさない。
箱を使えば先生の不安はやわらぐが、すでに真田家に預けてしまった。
「あなたのせいよ……。私がおかしくなったのはね、シューキチくんのせい…………うっ、目がっ、痛い! ほら追いつかれたじゃない」
「え? 後ろには誰もいませ──」
「ぎゃああ!」
絶叫をあげて先生はうずくまった。偶然なのか、箱を見た森井とそっくりそのままの格好だった。
「あなたのせいよ! 許せない! あなたのせいで私は……! どうして助けてくれないのよおお!」
先生は必死に目を押さえて、何かを見ないようにしていた。
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やがて先生は気を失い、近くにいた人々の善意によって、とりあえず座席に寝かせておいた。
ようやく乗客は動き出したが、僕は居心地の悪さに苛まれた。
なぜかというと、錯乱して倒れた女性を心配する人と、ボーッと突っ立っている男子生徒を非難する人に反応が分かれたからだ。
とくに非難する人の目が、僕には耐えられなかった。
お前がしっかりしていれば助かったのに。
どうしてこの人がおかしくなる前に手を打たなかった?
直接言われなくても視線に込められた意図は伝わってくる。
なぜ責められているのだろう?
先生を助ける方法なんて僕は知らない。
悪いものに憑かれていたとしても祖母のようにお祓いなんてできない。
「頼まれていたことをやっていればあの女性は救われていたのに」
電車に乗っていた老人が独り言を呟いた。
穏やかな口調だが、先生に同情的だ。
何も知らない人は、その場で可哀想な人の味方になる。
それでも、尋常じゃない先生の怒りに違和感を覚える人が一人くらいいてもいいと思うのだけれど。
「でも、まだ間に合うんじゃない?」
仕事帰りであろうスーツ姿の女性が二人、ひそひそと喋っている。
誰かに聞かせるつもりはなくても、距離が近いせいで聞こえてしまう。
「運良く気を失ったけど、本当の地獄は目が覚めてからだよね」
「本当に追われているのなら、まずいですね。その前に手を打つべきですが、どうしようもありませんね」
「ダメ元で指示に従った方がいいんじゃない?」
「それで助かるのですか?」
「病は気からって言うでしょ? 錯乱しているからこそ、気の持ちようで問題は解決するわ」
「それだけで助かったのですね」
「だってその方法で助かると信じているのよ? これでもう大丈夫だと本人を安心させることが大事で……」
会話が聞こえない場所へ避難するべく電車を出ると、ホームに残っている人に睨まれた。まるで犯罪者のような扱いだ。
ここにいたくない。居心地が悪い。なにより見当違いの罪悪感を刷り込まれる。
悪くない。悪くないんだ。
必死に言い聞かせるものの、足は止まり顔色から血の気が失せてゆく。
このままではマズイ……。
精神的な限界を迎えそうな時、声が聞こえた。
「 箱を使えば、人を救えます 」
「………………………………え⁉︎」
振り返った。息のかかりそうな至近距離でささやかれたような気がしたが、誰もいなかった。
いや、人どころか烏や猫さえいない。
そりゃそうか。
ホームでは好き勝手に怒っていても直接「箱を使ってやれ」と言わない卑屈な人ばかりだった。
さすがに引き返すところを見届けるだけで、追いかける人はいないか。
それにしても、学校や仕事から帰る人くらい街道を通ると思ったのに、本当に誰もいない。
「……とにかく、やれることはやってみよう」
建て付けの悪い格子扉を開けた。
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「ごめんください」
「……はい」
声をかけてしばらくすると、割烹着を着用した清末兄さんが姿を現した。
料理中だったらしい。片手に包丁、片手に人参を握ったままだ。
森井のしつけがなってない。刃物を使わないときは手から離すよう覚えさせてくれ。
「こんにちは秋よ……立花くん? どうしましたか?」
「だから僕は……いや、それより兄さん、箱を返してほしい」
「箱?」
「さっき森井を混乱させた石だよ。あれは本当に危険なんだ」
「…………。あのとき、秋吉くんがしっかり握っていました」
「あのあと枝光に渡したんだよ。そうだ、枝光は?」
「二階です。元気がありあまっているのに、もう寝ると張り切っていました」
「はあ⁉︎」
就寝にしては早い。しかもこのタイミングで?
体じゅうの血液が凍ったような感覚に襲われた。頭の中で最悪な想像が膨らんでいく。まさか……嘘だ。
「秋吉くん。あの石はとても危険です。お返しできません」
「それだよ清末兄さん。それだけ言っておけばよかったんだ」
廊下の奥から森井が姿をあらわした。
その堂々としたたたずまいが、かえって開き直っているように見えた。
「まさか秋吉殿が戻ってくるとは思わなかった。こうなるのなら、もっと早く口裏を合わせておけばよかった」
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「森井……」
「どうした秋吉殿? 忘れ物か?」
「枝光は……どうして寝ている?」
「秋吉殿のお察しの通りだ」
なんで使わせた! 森井が危険性を一番実感しているのに。
「なんで使わせた! 枝光にもしものことがあったらどうしてくれる!」
怒号に、清末兄さんの肩がわずかにはねた。
「気を確かに秋吉くん。あなたの混乱は呪いのせいではありません。あなた自身が生み出したものです」
「わかってるよ」
どうして落ち着いているのだろう?
不条理だとわかっていながら、怒りの矛先を兄さんに向けそうになったところで、森井が口を開いた。
「いちおう忠告したが枝光君の意思は変わらなかった。最終的にじゃんけんで決めたのだが……私はこういう勝負事できっちり負けてしまうな」
森井はやれやれと肩をすくめた。
この呆れた態度は誰に対してだろう。
箱を使った枝光に?
慌てる僕に?
肝心な勝負で負けた自分自身に?
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「しかし我々は呪いを専門として扱っている。枝光君の情報収集能力を考慮すると、前向きに捉えてもいいかもしれないと思い直した」
思い直すな。
「私は枝光君に助力しよう」
「枝光の意思が変わるまで説得してほしかった」
「そう言われてもな。枝光君は自分の無力さに打ちひしがれていた。躍起になっていただけに、説得しても聞く耳を持たなかったよ」
「そんな……無謀な挑戦に気づかないほど追い詰められていたのか?」
これまでの善行を思い返せば、枝光の人助けは度をすぎていると言ってもいい。
しかし今回はいつもと違う。呪いの分析をしたところで誰が救われる? 瑞橋先生ならお祓いをしてもらったほうが効果的だ。
言いたいことは山ほどあるが、なにより森井が枝光の愚行を見過ごしたことに強烈な違和感がある。
呪いに慣れているからといって易々と箱を使わせるほど薄情ではない。
なにか手立てを講じてから枝光を危険に晒したのだとしたら?
……清末兄さん?
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「はい。万が一に備えて手を打ちました」
兄さんは正直に答えてくれた。
そうだった。この人は素直で人を疑わないから、細かい事情を知らされなくても指示に従ってくれる。
たとえこの先、危険な目に遭うことになろうとも、教えなければ気づかない。
それに、他の人の意見を否定しない。
だったら……。
「清末兄さん、僕は枝光を追いかける」
「
「箱を使うって意味だよ!」
「わかりました」
「待て。秋吉殿は部外者だ。それでも協力したいと言い出すのなら、枝光君の報告を待っていろ。共に推測しよう」
森井は呆れていた。なぜわざわざ危険に近づくのかと、怪訝な表情を浮かべている。
「森井……それはないよ。枝光だけ危険に晒されていて、兄が安全な場所にいろと? それは許しがたい状況だ」
「蛇足だ。被害者を増やす意味がわからない」
「二手に分かれて情報を集めた方が効率はいい。微力ながらも役に立てる」
「遅れて枝光君と同じ道を辿るだけだと思うが?」
「しんちゃん。秋吉くんを許しましょう」
意外なことに清末兄さんが口を挟んだ。
畳んだ割烹着の上に包丁と人参を置いて、僕を見る。
心なしか、引き返すなら今のうちだと訴えかけるような目をしていた。
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「
「あ、ありがとう清末兄さん」
自分の意見がないからおとなしく協力してくれると思っていたけど、そんなことはなかったようだ。
兄さんなりに考えて、ちゃんと他人の意思を尊重してくれるのか。
感情が芽生えたのか、心の内を声に出せるようになったのか。
とにかく兄さんは手を貸してくれるようだ。
たしかに兄さんなら守ってくれるだろう。
……信じていいよね?
「今度こそ死なせません。嘘ではありません」
「やっぱりこうなるのか。まあ、清末兄さんが守ってくれるのなら、私はこれ以上何も言うまい」
一方森井は諦めの表情を浮かべている。不満はあるけれどこれ以上反論するつもりはなさそうだ。
枝光の現状を気づかれた時点で、何を言っても引き下がらないだろうと勘づいていたかもしれない。
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「いいか。清末兄さんの対策によって、秋吉殿は死をまぬがれる。その残酷さに気づいているな?」
「もちろん」
死にやしないが五体満足である保証はない。手足が欠けても、首から下が動かなくなっても生きていることには変わりない。
かすり傷ではすまされないことくらい覚悟の上だ。
「かすり傷ではすまされないことくらい承知の上だ」
「……あとで秋吉殿がぼこぼこになっても、私はどうすることもできないからな」
「受け入れよう」
「ぼこぼこになって秋吉殿が泣いても、私はどうすることもできないからな」
すごく念をおされた。中平秋吉は泣く。この事実は確定しているようだ。これから痛い夢を見るのだろうか。腹をくくろう。
「それにしても、どうやって遅れて夢に入ることができる? まさか同じ枕で寝れば途中参加可能とでも思っているのか?」
森井は首を傾げている。現実はそう簡単にいくものかと言いたげだ。
「そのつもりだったけど、安直だろうか」
「試してみるといい。それで秋吉殿が危険な夢を見られないのなら枝光君が喜ぶ」
むしろ失敗しろと顔に書いている。
なにがなんでも潜りこんでやる。
「それでは…………そうそう、秋吉くんでした。準備を整えましょう」
返事をする前に、頭を掴まれた。
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