ささくれが治る頃に

川木

ささくれ

「いたっ」


 洗い物をしようとして、手に痛みが走った。右手の人差し指、爪の付け根の右下。ささくれがひっかかったようで引っ張られ血がにじんでいた。そこに水が触れて痛みがしたらしい。気が付かなかった。

 こういうのはそこそこ血が出ていたりするのに、意外と気づかないことが多いのがいつも不思議だ。


 これ以上ひっかからないよう、絆創膏をはって洗い物を済ませ、入浴をしてから絆創膏をはがして洗う。冬場はどうしてもお湯で洗い物をするからか、ささくれが増える。手が乾燥しているのだろう。ハンドクリームを塗りたいけれど、傷口に塗ると痛いし、お風呂上りにすぐに絆創膏を張ると傷口がしめってなかなか治らない気がする。

 絆創膏を一枚とお茶をいれたコップをもって寝室に戻る。


「お疲れー」

「うん」


 寝室では先に入浴を終えた恋人の真美がのんびりとテレビをつけたままスマホをいじって迎えてくれた。真美はいつもテレビを見もしないのにつけっぱなしにする。電気代もったいないな、と思わないでもないけど、生活費はすべて真美が負担しているので私に言えることはない。

 ベッドに寝そべったままの真美の腰辺りに座って、テレビのリモコンをとってチャンネルを変えていく。基本見ていないので確認はとらない。


「……」


 美味しそうな料理を作ったり食べたりするする系のテレビがあったのでそれにする。安いスーパーでよく売れている商品をつかって簡単料理。興味がなくはないので見ながら、ちらっと右手を曲げてささくれを見る。気づくまでは痛くなかったのに、気づいてしまうと気になってしかたない。


「美優、どしたの?」

「え? いや、なんでもないよ」

「なんでもなくない。見せて」


 それに目ざとく気づいた真美は起き上がって強引に私の手をとった。


「ささくれてるじゃない。もう、痛いでしょ。ちゃんと手当しなきゃ」


 そしてまじまじと私の手を見て、さっと立ち上がって傷薬と絆創膏を出してきた。


「手当って、大げさ。絆創膏はもってきてたよ。乾くの待ってただけ」

「濡れてる方がいいらしいよ。それに薬も塗らなきゃ。はい、おとなしくする。ほーら、痛くないよー。痛いの痛いの、飛んでいくねー」


 真美はそう言って私の指先に丁寧に薬を塗っていく。血は出ていないけどちょっとさかむけているところにも塗ってくれる。その顔も、声も、手つきも、何もかも優しくて、あったかい気持ちになる。

 真美はいつもそうだ。いつも私に優しくしてくれる。ちょっとめんどくさいなってことを嫌がらずに、私の為にすぐに動いてくれる。


「あ、ありがとう、真美」

「いいよ。私が好きでやってるだけだから。ね、これ見て。可愛くない?」

「え? うん、可愛いよね」


 真美は何でもないように私のお礼にもさらっと頷いてから、私を抱き寄せて顔を寄せてスマホの画面を見せてきた。可愛いワンピースだったので頷くと、真美は満足げに笑った。


「だよねー、ぽちっとな。んふふ。金曜に届くから受け取っといて。あと試着しておいてね。土曜、それでデートしよ」

「えっ。ちょ、ちょっと待って。今の結構高かったよね?」


 まさかそんなにすぐ買うと思ってなかったし、買うとしても真美用だと思ったので軽く肯定してしまった。


「きゃー、値段なんてみないで、えっちぃ」

「ねぇ、ふざけないでよ。私のこと甘やかしすぎだって」

「えー、そんなことないでしょ。可愛い恋人に可愛いデート服買うくらいフツーだって」

「こんなに優しくされると、そのうち駄目になっちゃうよ」


 真美の優しいところが本当に大好きで、同時に情けなくなる。私は今、働いてない。ある朝、急に駄目になってしまって、一人では外にでることもできなくなった。とっさに助けてって真美に言ってしまった。それから真美は私を養ってくれている。当たり前みたいに。家事はするけど、買い物にも一人で行けない私がそれほど役に立っているとは思えない。

 ただでさえ真美の優しさに甘えてよりかかっているのに。こんなに優しくされると、できない自分が情けなくてみじめで、真美がいなくちゃ生きていけなくて、そんな自分がつらくなる。


 ちくちくと、自分の言葉でさらに胸が苦しくなる。ドアを開けようとして、どうしてもドアノブが回せなくて、頭の中に怒鳴り声が響いて、自分が消えてしまいそうなあの感覚がよみがえる。


「駄目になっていいよ」

「え……」


 その言葉に顔をあげると、真美は私をまっすぐ見ていた。驚く私を、そのまま真美はベッドに押し倒した。


「むしろ私がいなくちゃ生きていけないくらい、駄目になってよ。私しか見えないくらい駄目になってくれたら、嬉しくって一生真美の面倒をみちゃうけどな」

「……」


 表情は笑っているいつもの優しい美優だけど、他でもない私だからわかってしまう。その目が本気で、どこか必死に願っていることが。


 嬉しい、と言う感情と、嫌だと言う思いが沸き上がる。だってそんなのは怖い。今美優が私を好きなのも本気でそう思ってくれているのも信じてる。でも、それが永遠だとどうして信じられるのか。私が一方的に依存して駄目になって盲目的になって、それで美優が私を重荷に思うことがないって言いきれないじゃない。捨てられたら、私は生きていけなくなる。私はそれが恐い。

 でも同時に、それだけ求めてくれることが嬉しい。甘やかしてくれることが嬉しい。うんって言って、依存してしまいたい。美優に依存して、何もかも美優じゃなきゃいけなくなって、美優がいてくれたら頭からっぽでただ幸せになれるなんて、とっても楽で幸せじゃないか。


「じゃあ、駄目になるくらい、可愛がってよ」


 二つの感情の板挟みになった私は、どちらの選択も選べないまま、真美の軽い言葉の調子に合わせるようにして、気づかないふりをして、ただ一夜の快楽を求めた。


 きっと、この右手のささくれが治っても、心にできたささくれは治らないままだろう。こんなに真美が優しくしてくれているのに、何度も血がでて、とまらない。

 この関係は、間違っているのだろうか。甘えるべきじゃなかったのだろうか。だけど今更この優しさを自分から手放す勇気も、真美の優しさに溺れて沈む度胸もないのだ。


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