第13話 沢田 咲5

 十七歳のあたしにとって、十年って時間は永遠のことのように思える。

 今でも小さいアイツは、十年前はもっと小さくて、うんと可愛かった。病気がちで伏し目がちで、大人しくて、何か困ったことがあると、黙ってあたしの袖を引っ張った。


「……さきちゃん、ありがとうね……」


 その一言で、あたしは何だって出来る気がしていた。


 なんで、こうなった?


 自問自答するけど、答えは出ない。

 いつもの通学路で捕まえたアイツは、憎たらしいぐらいいつものアイツ。この一件を、あたしがどうやって解決させるか頭を悩ませているのに、退屈そうに余所見して、足をプラプラさせている。


 ……さきちゃん、ありがとうね……


 熱が出たときは付きっきりで看病した。学校で体調を崩したときは、いつだってあたしが真っ先に駆け付けた。なのに――


 コイツは、なんであたしを好きにならないんだろう。


 そう思うと、強い怒りが胸に込み上げた。

 コイツだ。煮え切らないコイツが、さっさとあたしを好きになっていれば、こんなことにはならなかった。


 十年って時間は、永遠のことのように思う。その永遠に近い時間を悠希と歩んだ。あたしは、まだ悠希と歩んで行けるって信じていて――


 いつものように。いや、いつもより強く、アイツを殴った。


 そうしたら、あの女、堪らず出てきやがった。


 疑惑が確信に変わる。やっぱりそうだ。片桐素子は敵だ。でも何かがおかしい。


 何の小細工もせず飛び出して来た眼鏡女は、自分の身体を盾にして悠希を守っている。


 何から?


 あたしから、悠希を守っている。


 あたしの暴力から、悠希を守っている。

 そして悠希は、少しでも眼鏡女をあたしから引き離そうと必死でもがき……なんだコレ?


 テレビの中の、間抜けな悪役になったような気がした。


 騙されてんだよ、お前。だから――お互い、庇い合うみたいに……


 あたしの前で抱き合うんじゃないッ!!


◇◇


 ……悪かったよ、ホント。今回は身に滲みた……


◇◇


 最低最悪の女。片桐素子は、あの女は何だってする。あたしを陥れる為なら平気で嘘だって吐くだろう。


 ……騙されてるだけの悠希を殴っちまった。


 最低最悪の一日。おじさんには失望されて、おばさんには見切りを付けられ、トドメはアイツ……悠希があたしを見る目。


 あたしは悪役じゃない。そんな、敵を見るみたいに見るな。


 でも、あれはちょっと間違えたじゃ済まない……。握り拳で行っちまった。


 ――クソッ!


 頭を冷やしたくて家に帰ると、キッチンのテーブルの上に一万円置いてある。いつ頃からか、これがあたしの食事。殆どのものと交換できる便利な紙。本当に大切なものは何一つ買えない紙屑。


 この日、あたしが無くしたものはなんだ?


 冷静に考えて……あたしは、あの眼鏡女をボッコボコにしてやろうと思った。

 中学生のとき、修学旅行で何となく買った木刀を引っ張り出した。アイツが本気で怖がったのを見て、これだけは使わないでおこうと思った木刀。


 ――1280円也。


 まぁ、あの女をシメるのにはちょうどいい価格だ。ひょろひょろの眼鏡女。二、三発小突いてやれば本当のことを喋るだろう。


 アイツに会いたい。全部誤解だって伝えたい。それから――


 好きだよって言うんだ。


◇◇


 翌日、あたしは正直者になった。

 ファッションと若い男に夢中のババアに言ってやった。


「ババア、家でも化粧しろよ。見苦しい」


「……」


 木刀を持っていたせいか、文句を言われることはなかった。


 金の話しかしないジジイにも言ってやった。


「てめえから金取りゃ、死体しか残んねえな」


「……」


 意外な反応だったのはジジイだ。俯いて、少しショックを受けているみたいに見えた。


「人間のフリするんじゃねえよ」


 ぶっ叩いてやろうかと思ったけど、このクソ溜めで本気出すほどあたしは暇じゃない。


「……今日、悠希連れて帰るから……恥かかせるのだけはやめてくれよな……」


 この二人は宇宙人だ。話す言葉も考え方も人間のあたしとは違う。この対応で全然問題ない。


 木刀片手に鼻唄混じりで家を出た。


 そんなあたしが、宇宙人二人にどう思われたかなんて、考えつく筈がなかった。

 昨夜は上手く眠れなかった。頭が鉛でも詰め込まれたみたいに重い。

 十年前に戻りたい。


 ……さきちゃん……


 そうしたら、アイツは困った顔で、あたしの袖を引っ張るから。

 あたしは言うんだ。


「大丈夫、あたしが何とかしてあげる」


 全部、あの眼鏡女が悪い。


 そう思うように、した。


◇◇


 いつもの朝、いつもの通学路。

 あたしはアイツに近付くことを禁止されていて、いつものあたしじゃない。

 ちょっと、そそっかしくて親切なおばさんは、もうあたしの為にコーヒーを淹れてくれない。

 控え目で思慮深いおじさんは、もうあたしを娘みたいに思ってくれない。


 あたしが失ったものはなんだ?


 いつもの通学路。いつもの時間に差し掛かり、悠希がやって来た。


「……みず、しま……?」


 チンピラの水島響が、躾の行き届いた番犬みたいに、談笑する悠希の横で警戒している。


 長めの一本道の通路。足を止めた水島を置き去りにして、アイツは駆け出した。


 その先に、片桐素子。


 あの女……笑ってやがる。


 水島が振り向き、あたしが手にした木刀を見て眉を寄せた。


「……それで、里村殴るのか?」


「やるのは眼鏡女だよ。どけ、チンピラ」


「沢田。お前はイカれてるよ」


 あたしはイカれてない。本当におかしなヤツは、自分だけは『大丈夫』みたいに言うけど、あたしは自分が少しおかしいことに気付いてる。


 だから絶対に『大丈夫』。


「……チンピラ、そこの公園までツラ貸せや。ケリ着けてやるよ」


 あたしたちは幼馴染なんだ。付き合いは、うんと長い。殆ど家族みたいなもんだ。喧嘩しても、すれ違っても、やり直せる。


◇◇


 人目を避けた朝の公園で、あたしはチンピラを一人滅多打ちにした。


◇◇


 剣道三倍段って言葉がある。

 皆が知ってるのは、『武器』を持つ剣道に対して無手の武道で相対する時、段位としては三倍の技量が必要だって意味。


 本当は、『剣術三倍段』って言うんだ。


 正確な意味は……どうでもいいか。

 水島は強かった。

 幾らぶっ叩いても音を上げない。びびってる訳じゃない。目を逸らさないし、絶対に下がらない。しかも――


「――てめえ、何で反撃しねえんだよ」


 水島は、べっと血の塊を吐き出して笑った。


「片桐の言うとおり、お前、やっぱりおかしいわ。素手の、しかも無抵抗の俺相手に木刀でフルボッコかよ」


「……おかしいのは、あの眼鏡女だろ」


「でも、里村は好いてる」


「はあ!?」


 アイツが、眼鏡女――片桐素子を好いている。水島のその指摘は、意外な鋭さを以てあたしの胸に突き刺さった。


「あっ、アイツが、眼鏡女を好きだってえ? あ、あああるわけない!」


 もしそうだったら、あたしはどうなるんだよ!


 激しく動揺するあたしを見て、水島は腹を抱えて笑った。


「片桐もおかしいよ。でも、お前とは方向が違う。あいつに里村を傷付けることはできねえよ」


 ……あたしは、何処で、どう間違えたんだろう。アイツを傷付けて、平気で居られるようになったのはいつだ?


「……どうした。目が泳いでるぜ」


 あたしを見る水島の目に、いつもの嫌悪はない。僅かに眦を下げたそれは哀れんでいるように見えて――


「――うるさいッ!」


 余裕かまして無抵抗でいるこの男は、あたしを憐れんでいる。可哀想だと思っている。


 そんな目で、あたしを見るんじゃないッ!


 鋭い『突き』を右目に受け、流石の水島も倒れた。木刀を通じて眼球や頭蓋骨の固さがはっきりと伝わって来て、あたしは吐きそうになった。


 水島の顔面には大穴が空いていて、右目があった部分からどろどろしたゲル状の何かが流れ出ている。


 そのどろどろとしたゲル状の何かは木刀にも付着していて、気持ち悪くなったあたしは、近くの茂みに痙攣する水島と木刀を突っ込んで、公園を後にした。


「死んでろ、チンピラが」


 悠希とあたしは幼馴染。十年以上の付き合いがある。この先の永遠も一緒に行くんだ。


 アイツに会いたい。今までのことを全部謝りたい。それから――


 愛してるって言うんだ。


 そんな勝手な想像をして……あたしは、少しだけ泣いた。

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