第11話 沢田 咲3

 クソ暑い夏の日のことだ。


 ――37対0。


 これが野球のスコアだってんだから笑える。

 二時間もあれば試合は終わるなんて言ったの誰だ? 三時間経ってまだ三回の裏が終わんねーじゃねーか。

 一回の裏、ウチの学校の一年生エースが大乱調で八連続四球を出して、そのあと満塁ホームランを食らって、更に七連打された辺りで応援団長は役目を放棄した。

 負けるのは分かってんだから、あたしもさっさと帰りたい。クソ暑いから汗が出てたまんない。アイツは綺麗好きで、そういうことに敏感なんだ。


 汗臭い女だって思われたくない。下着の替え持って来るんだった……。


 マウンド上じゃ、一年生エースが泣きながら投げている。時折駆け寄るキャッチャーも泣いている。


 あの二人はスポーツ推薦による特待生だ。なんでも、中学生の時は軟式野球の大会で優勝経験があるんだとか。


 あたしはバッテリーの二人を気の毒に思った。


 分かる。これまで無敵だったから、これからもずっと無敵だって思ってたんだよな。たとえそうじゃなくても、自分はいい線行ってるって思って、油断したんだよな。


 ――甘えよ。


 あたしは真夏の太陽を見上げて舌打ちした。


 アイツは虚弱体質なんだ。最近は大分マシになったけど、この日射しはキツいだろう。


 心配になって視線を送ると、アイツは炎天下の中、声を枯らしてバッテリーを応援している。


 やめろって言っても聞きゃしない。その内、水島の馬鹿まで一緒になって応援始めやがった。


 ――だって……泣きながらでも、なんとかしようとしてる。


 アイツの言葉を思い出して、あたしはまた一つ舌打ちする。


 そんなことは、どうだっていい。ぶっ倒れたらどうするんだ。


 あたしには、バッテリーの気持ちがよく分かる。アイツら、きっと頭の中が真っ白だ。逃げることしか考えてない。この試合が終わっても、それは変わらない。もう野球を続けるのは無理だろう。

 応援団は役目を放棄した。学校くんだり応援にやって来た全校生徒は恥さらしだなんだと口汚く罵ってる。この試合があの二人の学校生活に落とす陰は大きい。今後、まともに学校に来るかどうかすら疑問だ。


 これまで無敵だったんだ。通用しなくなったら、そこでおしまいなんだよ。


 クソっ、早くコールドゲームになんねえかな……。


 マウンド上じゃ嗚咽の止まらないピッチャーを、やっぱり泣いてるキャッチャーが励ましてる。

 もう終わってんだっつの。

 っていうか、ピッチャー替えろよ。監督なにやってんだ。いや、ここまで来たら誰も投げたがらないのか? チーム内不和?

 どっちでもいいか……。

 とにかく、あたしは家に帰りたい。アイツにも水分摂らせなきゃいけないし、シャワー浴びたい。今日はもう剣道もいいから、アイツとゆっくりしたい。


 そんなことをつらつらと考えていると、マウンド上のバッテリーの動きが止まった。


「……?」


 こっち……応援席のあるアルプススタンドを見ている。


 バッテリーの視線の先には、アイツ。声を張り上げて応援する、アイツ。


「……ふん、気付いたのか」


 最早、応援団ですら役目を放棄しているこの現状。バッテリーの二人にとって、周囲は敵しかいないように見えていただろう。


 アイツは無茶苦茶いいヤツなんだよ。分かったか?


◇◇


 ホント、世界にあたしと悠希の二人だけなら良かったのに。


◇◇


 このクソみたいな試合が終わって暫くして、あのバッテリーの二人組が、たまにアイツとつるむようになった。


 バッテリーの二人と軽口を叩き合うアイツはよく笑うし、なんだか楽しそう。


「……里村、俺たち甲子園目指してっからよ……!」


「右肩上がりの男は、言ってることまで右肩上がりだね。それは女子生徒に言った方がいいんじゃない?」


「あはは、こいつぅ。俺たちのファンの癖にぃ……!」


 ファンなのは逆で、本当はバッテリーの方がアイツのファンなんだって、あたしは知ってる。

 ……まぁ、女じゃないし、許す。


「おら、悠希。帰るぞ」


「……あ、うん……」


 バッテリーと絡んでたときは笑ってたのに、あたしが話し掛けた途端にアイツの笑顔が曇りを帯びる。


「…………」


 あたしを見るバッテリーの目付きは、どことなく嫌悪を感じる。


 ……ムカつく。


 水島の事があって、クラスで浮き始めたアイツを何となく苛めるようになった。

 最初は、パンやジュースを買いに行かせたり、荷物持ちをさせたり。

 そうしていると、付き合ってるとか、実は好きなんだ、とか茶化されずに済むから都合よかった。楽しくてやったんじゃない。だから二人きりのときは、ちゃんと謝った。


「……今日は悪かったな」


 チンピラの水島も、バッテリーの二人も、あたしのことを害虫見るみたいに嫌悪剥き出しで見やがる。なんだコイツら。あの女からの視線を感じるようになったのもこの頃からだ。


 ――片桐素子。


 クラスの学級委員長なんかやってる眼鏡の女。真面目そうな雰囲気だけで、特に理由もなく新入生の学級委員なんていう損な役割を押し付けられた冴えない女。


「なに見てんだ」


 あたしが悠希にちょっかい掛けてると、決まってこの女の視線を感じる。


「……沢田さんは、里村くんの幼馴染なんですよね?」


「ああ、腐れ縁だよ」


 あたしは内心、唾を吐き掛けてやりたい気分だった。

 どいつもこいつも、あたしが悠希の幼馴染だったら悪いみたいに言いやがる。うんざりした。

 眼鏡女は瞬きすらせず、親の仇を目に焼き付けるように睨み付けて来る。


「とても、そうは見えません」


「……!」


「なんで、里村くんを苛めるんですか?」


「…………」


 カチンと来て、それでも何も言い返せない。

 そんな、あたしがいた。

 この冴えない眼鏡女が、あたしに『終わり』を運んで来るって知ってたら、何を差し置いてでも、何処に逃げても、絶対に殺してやったのに――。


◇◇


 眼鏡女の視線を感じると、あたしはとてつもなくイライラするようになった。

 苛立ちのぶつけ場所はアイツ。

 自分でも良くないって分かってたけど、どうしようもなかった。そうしていると、からかわれずに済んだし、あの女もあたしをむきにさせるだけだって分かってからは、あまり睨まないようになった。


 悠希は、あたしを見ると嫌そうな顔をするようになった。

 良くない流れ。


「なんだ、テメー! 誰のお陰で生きていられると思ってんだ!!」


 良くない流れ。でも、止められない。こんなこと、おばさんには死んでも言えない。


 二人きりのときは、いつも謝るようになった。


「……悪かったよ……」


「うん、いいよ……」


 アイツは、こんな不器用なあたしを理解してくれる。付き合いの長さがそうさせる。


 そう、あたしの人生の95%ぐらいは悠希で構成されてる。あたしから悠希を取っちゃうと何も残らない。


 つまらない高校生活が一年目の終わりに近付いた頃、悠希は、あたしに寄り付かないようになっていた。


 良くない流れ。腹立つし、焦るしでもう泣きそう。


「…………その、買い物付き合ってくんない?」


 必死の思いで言ったのに、アイツと来たら……


「その日は、水島くんと遊びに行くんだ。ごめんね」


「……」


 悠希は、あたしの手が届く距離には入らないようになった。その気になれば、抱き締められる距離に居なくなった。


 やばいやばいやばいやばい。これは『そういう』流れだ。


 幼馴染っていう御利益が底を尽きかけていることに気付き、あたしは呆然とした。


 そんな時、剣道部の活動中にバスケ部の北条から呼び出された。


「沢田、好きだ。俺と付き合ってくれ」


「……はあ?」


 名前ぐらいは知ってるけど、北条とはクラスも違うし、口も利いた事がない。


「テメーのことなんて知らねえよ。なんで、そうなる」


「だって、お前スゲー美人じゃんよ」


「…………」


 顔だけはいいウチの母親を思い出して、あたしはゲロ吐きそうになった。

 北条は自信満々。


「俺、自分で言うのもなんだけど、結構イケてるだろ? 里村みたいなチビじゃないし、俺たちなら、きっといいカップルになると思うんだ」


 あたしは、持っていた竹刀でこの勘違い野郎をぶちのめした。


 体育館裏だったし、ちょうど竹刀を持っていたからメチャクチャ都合がよかった。コイツはあたしに殴られに来たんだとすら思った。


 カエルみたいに這いつくばる北条の頭を踏みつけ、あたしは笑った。


「どうしたイケメン。かなり情けないことになってるぞ」


「ご、ごめんなさ――ヒッ! もう叩かないで……叩かないで……」


「あたしと付き合いたいんだろう?」


 悠希の代わりに、コイツを苛めることにしようと思った。

 スゲー、超名案。

 あたし自身、震えるぐらい名案だと思った。

 これは使えると思った。


◇◇


「咲、バスケ部の北条くんと付き合ってるって本当?」


「え? あ、ああ……」


 サンドバッグ替わりに叩いてるなんて言えない。あたしは笑って誤魔化した。


◇◇


 高校二年生になった。

 眼鏡女……片桐素子は、あたしより悠希を見つめるようになっていた。


「…………」


 何が起こっているのか、あたしにはよく分からなかった。

 片桐も悠希も、あたしが居るってのに平然と見つめ合う。あたしの記憶が確かなら、悠希と片桐は喋ったことすらないはずだ。

 ……ムカつく。

 あたしは益々悠希に当たり散らすようになり、足らない時は北条に分担させた。


 片桐はあたしの視線に気が付いていて、それでも悠希と見つめ合うことを止めない。

 無口で地味な女だと思っていたけど、よくよく見るとそれなりに見られる顔をしている。眼鏡の奥の視線はいつも冷えていて、何にも興味が持てないヤツに見えていたけど、悠希と見つめ合う時は頬を赤らめ、潤んだ瞳を逸らさない。


 ――大丈夫ですか?


 見つめ返す悠希は、口元に柔らかい笑みを浮かべている。あどけなさを残した笑顔は、いつかのあたしが見た天使の誘惑。


 ――うん、大丈夫。


 あたしの目に、二人は通じあっているように見えた。


 片桐素子は敵だ。


 それをはっきりと自覚した日、あたしはもう、一刻の猶予もないと思った。


「お前……片桐と仲がいいのか?」


「片桐?」


 あたしに最後の分岐点があったとしたら、ここだと思う。


「委員長だよ。あの眼鏡女のことだ」


「ああ……」


 悠希には人の名前を覚えない悪い癖がある。でも、あんなに見つめ合ってるのに。あれだけ通じあってるのに。


「名前も知らなかったのか……?」


「うん」


「アイツ、じろじろ物欲しそうに見つめやがって……」


 ホント、意表突いてくれた。わざとなら絶対見抜けたから、この悪癖だけはホント腹立つ。


「名前も知らねーか。なら、いいや」


 この時は、ざまあみろって思った。あんな女、目じゃないって思った。でもスッキリしなかったから――


 この日、キスしようと思った。


 部活が終わったらマックに寄って、そこじゃ色々話して、機嫌取って、アイツの家で初めてのキスをしようと思った。


 回り道するのは疲れたし、潮時だった。

 そう決めてしまうと、あたしは色々と楽になったような気がした。見栄張っちゃって馬鹿みたいだって思った。


 これが、ハッピーエンドのはじまりなんだって思ったら、あたしはすごく気恥ずかしくなって――


 アイツを、一人にしてしまった。


 この日、待ち合わせの場所でアイツは待っていてくれなかった。


 用意周到に――

 あの女が仕組んだ、バッドエンドが始まったんだ。

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