第9話
その後、僕は片桐さんに手を引かれるようにして屋上に向かった。
積極的。
片桐さんは、ぐいぐい僕に迫ってくる。眼鏡の奥の涼やかな瞳は笑みの形に綻んでいて、僕だけを視線に捉え続ける。
「悠希くんは、お弁当ですか?」
「あ、うん。そうだけど……」
「それでは、取り替えっこしましょう。新しい発見があるかもしれません」
僕は笑って頷く。
春の暖かい日差しに恵まれたお陰か、屋上はリア充のカップルたちで結構な賑わいだった。
ずっと笑顔の片桐さんは、空中でフラフラと指先をさ迷わせ、人気のない場所を指差した。
「あそこにしましょう。乳繰りあうには絶好の場所です」
そんな冗談を言う片桐さんの指差した先は、給水塔の陰になっている場所。
「ちなみに私は、好きなものから食べるタイプです」
「そうなんだ」
「誰かに取られたら困りますからね。お腹に入れちゃいます」
片桐さんは笑っている。
僕は給水塔の陰に腰掛けていて、その隣に寄り添うように座っていた片桐さんが、指を絡めて来た。
「…………」
例えば、時折は重なる視線だとか。
例えば、軽い挨拶の中に、僅かに残る熱だとか。
予感は確かにあって、いつかこうなる――
昼休みの校舎の屋上。人目を避けた給水塔の陰で、僕と片桐さんは、初めてのキスをした。
甘い匂いが鼻を衝く。軽く合わせただけの唇が離れると、銀の雫が糸を引く。僅かに漏れる吐息を震わせる片桐さんが堕天使の微笑みを浮かべる。
どこまでも、堕ちて行くような錯覚があった。
「……今、自分がどんな顔をしているか分かっていますか……?」
「……」
そんなこと分からなくて、首を振った僕に笑みを返す片桐さんは唇を軽く舐めていて、堪らなく淫らに見えた。
「……泣きそうに目が潤んでます。でも、あなたは嫌じゃない。私からは……」
――もう、逃げられない。
甘ったるい匂いが強くなる。雰囲気に思い切り当てられて、意識が朦朧とする。
そこに――
「――何やってんだッ!!」
甲高く尖った声は悲痛の色を帯びていて――僕の幼馴染。あまりにも遠くなってしまった、僕の幼馴染。
片桐さんが、ぺろりと舌を突き出して、悪戯っぽく笑った。
「えへへ、見られちゃいました」
「てめえ、悠希に何やったんだッ!」
悲痛な叫びを上げる咲は、全身汗だくで、半袖のブラウスには赤い水玉模様が点々と付着している。
「無粋」
そう言って片桐さんは立ち上がると、首を鳴らして身長181㎝の咲と対峙した。
言った。
「――いいところだったのに、邪魔しないで下さいよ。沢田咲」
「て、めえ……!」
汗だくの咲は、焦ったように何度も僕と片桐さんを見比べた。
「水島くんはどうしたんですか?」
その言葉に反応し、咲は鋭く片桐さんを睨み付けた。
「てめえが、あのチンピラけしかけたのかよ……!」
初めてのキスの衝撃と、夏の暑さに目が回る僕は、朝別れたきりの水島くんを思い出した。
強く頭を振る僕を横目に、片桐さんが僅かに腰を落とした。何かの『構え』。
ゆっくり、丁寧に問い直した。
「沢田さんは、水島くんを、どうしたんだって、聞いたんですよ?」
……そうだ。水島くんは……
――行け。振り返るな――
僕は、強く頭を振った。
「咲、水島くんは……?」
咲は激しく舌打ちした。
「ふんっ、あんなクソは死ねばいいんだよ!」
前に出た片桐さんが、僕を庇うように咲の前に立ち塞がった。
「暴力反対」
咲はせせら嘲笑った。
「チンピラけしかけたの、てめえだろうが。何を白々しい」
咲のブラウスに染み着いた赤い水玉模様が気に掛かる。あれは……
血痕……?
僕は立ち上がって叫んだ。
「咲、水島くんをどうしたんだ!!」
「……!」
ぎろりと横にずれた咲の目は、赤く血走っていた。
刹那、咲の全身から赤黒い瘴気が吹き上がったように見えた。僕に伸ばした右手には悪意が満ち満ちていて――
「とまれッ!」
一喝したのは、眼鏡のクールビューティー。
「……んの、性悪女がッ!」
片桐さんの制止の声に構わず、一気に距離を詰めた咲は、次の瞬間、頭から思い切り給水塔の柱に突っ込んだ。
ごずん、と鈍い音が響いた。
「え……?」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。でも、咲は自分から給水塔の鉄の柱に突っ込んだように見える。
額から血を流し、ずるずると崩れ堕ちる咲の右手を握っているのは片桐さん。
口元を三日月の形に釣り上げて嗤っていた。
「踊れ」
片桐さんに掴まれた右手が、びんと伸び、咲は苦悶の叫びを上げながら跳ね上がるようにして立ち上がった……かと思うと、今度は金網のフェンスに向けて、また頭から突っ込んだ。
片桐さんは嗤っている。
「まだまだ」
咲は思い直したように、また頭から給水塔の鉄の柱に突っ込んだ。
ごずん、と鈍い音が響いた。
「踊れ」
片桐さんは嗤っている。掴んだ咲の右手を引っ張る度に、まるで振り子のように左右に揺れる。
僕の目には、咲が自分の意思で頭をぶつけに行っているようにしか見えない。
とても高レベルな、何かの技術。
片桐さんは嗤っている。
「私が弱いって、誰が決めたんですか?」
「…………」
都合、十二回。それだけ頭から突っ込んだところで、片桐さんは漸く咲を解放した。
咲はその場に崩れ落ち、俯せになって倒れ込んだ。
――完全 勝利――
思い出したのは、片桐さんの勝利宣言。
「幼馴染だって理由だけで、悠希くんに付きまとわないで下さい」
「……う」
圧倒。その表現が相応しい。
……片桐さんは、全ての面で咲を凌駕している。それを理解するには十分な、刹那の惨劇だった。
「ゆ、うき……」
地べたに這いつくばる咲の顔は、涙と血に塗れてグシャグシャだった。悔しそうに地を掻く右手は、小指が逆の方向に曲がっている。
その咲の右手を、片桐さんが踏みつけた。
「……ずっと、悠希くんと結ばれることだけを考えて生きて来たんですよね?」
片桐さんは嗤っている。言った。
「今、どんな気分ですか?」
それは、滴るような悪意だった。
「そのことだけを考えて生きて来て、それが台無しになるって、どんな気分ですか?」
――あの子には、気を付けなさい――
「ここに、あなたのものなんてない。あるのは私のものだけです」
痛烈に言った。
「図々しい……!」
『手紙とDVD送ってきたその人は、おまえに凄く執着してる。相手が女の子なら、とても怖い子だから、気を付けなさい』
片桐さんは……完璧だ。
完璧だからこそ、完膚なきまで咲を叩き潰してもなお、片桐さんの攻勢は止まらない。
気が付くと、僕はガチガチと歯を鳴らして震えていた。
片桐さんが踏み潰す咲の右手が、ごりっと鳴った。
「悠希くん、水島くんが気掛かりです。行きましょう」
咲は泣いていた。言い訳の余地なく、徹底的に片桐さんに敗れた咲は、涙を流して泣いていた。
思った。
二人とも、頭がおかしい。
そして僕は、この二人のどちらかを選ばなきゃならない。
そう思うと、僕も頭がおかしくなりそうだった。
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