第8話
いつもの朝、いつもの通学路のはずなのに、片桐さんと隣り合わせになって歩くというだけで、僕の日常はいとも簡単に変わってしまう。
水島くんと別れ、暫く歩いたところで、すっと片桐さんの手が伸びてきて、僕の頬に触れた。
「さと……悠希くん、怪我の具合はどうですか?」
「……怪我?」
少し首を傾げ、質問の意味を考える僕の前で、片桐さんは困ったものを見るように眦を下げた。
「……沢田さんに殴られましたよね?」
「ああ、それなら大丈夫」
握り拳で殴られたのには驚いたけど、咲に殴られること自体は慣れている。それに僕は男だし、二日経った今はダメージも抜けている。
そんなことより――
「…………」
僕は眉間に皺を寄せる。
北条と抱き合っていた咲のDVDのことを思い出して、得体の知れない気味の悪さが込み上げた。
気持ち悪い。
咲に関してはそれ以外の感情はない。
頭の奥で北条と求めあっていた咲の姿が浮かぶ。その反面で僕に付きまとい、殴り付け、片桐さんを傷付けた。
何考えてんだ、あいつ――
そこで、僕はハッとした。
「――片桐さん! 片桐さんはどうなの!? 大丈夫!?」
片桐さんは薄く微笑み、小さく頷いた。
「少し痛みはありますけど、普通にしている分には問題ないです」
「……」
僕は唇を噛み締めた。
この怒りと嫌悪を、どう表現していいか分からない。ムシャクシャする。咲に対して、こんなに強い怒りを抱いたのは初めてだ。
「……ごめんね、片桐さん」
片桐さんは不思議そうに言った。
「なんで悠希くんが謝るんですか?」
「……」
僕は首を振って、その問いに関する返答を避けた。
片桐さんを守れなかったのは僕で、咲を止めることが出来なかった僕の責任は重い。言い訳は卑劣だった。
その後の僕たちは、少し距離を取って歩いた。
頭の中はグシャグシャ。何処から手を付けていいか分からない。隣を歩く片桐さんは、ずっと困ったように眦を下げたままで、黙り込んだ僕の顔を見つめている。
「沢田さんのせいで、悠希くんが落ち込むのは違うと思います」
「……咲は僕の幼馴染みなんだ」
腹が立ったからといって即座に切り捨てるのは違う。簡単に忘れていいほど、咲は軽い存在じゃない。
片桐さんは視線を伏せ、ポツリと呟いた。
「……だから許せないんですよ……」
――手紙とDVD送ってきたその人は、おまえに凄く執着してる。相手が女の子なら、とても怖い子だから、気を付けなさい――
父さんの言葉を思い出し、僕は足を止めた。
片桐さんも足を止め、黙って僕と見つめ合う。
いつもの朝。いつもの通学路。でも、何もかもが違う。
「……」
僕らは黙って見つめ合う。
眼鏡のレンズ越しに見る片桐さんの瞳は優しげ。
断言した。
「手紙とDVDは、片桐さんがやったことだよね」
「はい」
片桐さんは僕と見つめ合ったまま、視線を逸らさない。堂々とした様子。
「なんで?」
「私の目の前で、私の好きな人が傷付けられてます。本気で止めようと思いました」
「……」
その堂々とした告白に、僕は頬が熱くなった。
「いけませんか?」
「あ、いや……」
片桐さんは僕を好いていてくれて、僕も彼女を憎からず思う。その前提で言えば片桐さんは正義だ。やり方は誉められたものではないけれど、それが片桐さんの『本気』なんだろう。
「あのDVDにあったことは、全て事実です」
片桐さんの勝利宣言はそういうこと。勝つために必要なピースを全て揃えた上で、咲の首筋に噛み付いた。
「この話は、やめませんか? 沢田さんのことで悠希くんと悪い雰囲気になりたくありません」
僕は頷いた。
咲の件に関して、これ以上聞きたいことは何もなかった。
◇◇
なんてことだろう。
片桐さんは完璧だ。それを少し恐ろしいと思う僕がいる。
恙無く学校に到着し、朝の喧騒包まれた教室に入る。チラリと視線を走らせて確認すると、水島くんも咲も、まだ登校していない。
嫌な感じだ。背筋に、べっとりとまとわりつくような不安を感じる。片桐さんの咲に対する攻撃は、未だ途切れることなく続いているような気がする。
やがて始業のチャイムが鳴り、それでも二人は登校しない。
そして片桐さんは、休み時間の度に僕の座席までやってきて、本当によく喋った。
好きな食べ物、趣味、ファッション、レジャー……etcetera。自分のスリーサイズまで喋ったときは、気もそぞろで話を聞いていた僕も思わず赤面した。
「悠希くん、聞いてますか?」
「……えっ? あ、うん、勿論」
半分くらいは。
内心でそう付け足して、僕は未だ来ない水島くんと咲の空席に目を滑らせる。
「…………」
そんな僕に、片桐さんは煙るような半目の視線を向けていた。
◇◇
お昼休みになり、二人はまだ来ない。
そして片桐さんは、お昼休みになった直後、真っ直ぐ僕の方へやって来て、にこりと笑みを浮かべる。
「悠希くん、お昼ご飯は一緒に屋上で食べませんか?」
「……」
片桐さんの申し出は凄く嬉しい。でも、この頃になると僕の不安はいや増すばかりだ。
水島くんと咲とは、お互い、『チンピラ』『アバズレ』と呼び合う程度には不仲の関係だ。今朝、僕の通学路上で足を止めた水島くんが咲と遭遇していても不思議じゃない。そして、まだ二人とも登校していない。胸騒ぎが止まらない。
「水島くん、まだ来ないから……ちょっと様子見てこようかと思うんだ……」
片桐さんは首を振って。
「水島くんなら、心配はいりません」
「……なんで?」
「彼、高島屋のオムライスが食べたいとか言ってました」
なんだそりゃ。でも、水島くんなら言いそうな感じだ。
「その前は殺人カレーが食べたいとか言ってましたし、食に対する欲求が強そうです」
それは僕も聞いた。
学校の近くに新しくできたカフェに殺人カレーとかいうメニューがあって、水島くんは挑戦の意識を露にしていた。
なんだろう。
水島くんを心配することが凄く馬鹿馬鹿しくなってきた。そもそも、あのDQN生徒が咲に不覚を取るとは思えない。彼に僕の心配はいらない。
笑みを浮かべる片桐さんと目が合った。
「ご飯、食べましょう」
「……いいね!」
僕も、にっこり笑った。
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