第7話

 朝陽の中、僕は雀の囀ずりで目を覚ました。

 チラリと時計に目を向けると午前7時まで後5分というところ。

 咲のいない朝は爽やか健やか。そして、ゆっくり。誰に急かされることなく、パジャマ姿のまま部屋を出て、父さんと母さんがいるだろうダイニングに向かう。

 そこで――


「ちぃっす」


 などと言いながら手を振って、朝食をパクつくDQNの水島くんがいた。


「…………」


 難しい表情の父さんは、新聞を開いたまま水島くんを見つめている。

 母さんは母さんで、この初めてやってきた珍客に胡散臭げな白い目を向けていた。

 僕は言った。


「やい、ドキュン。人の家で食うタダ飯は旨いか?」

「超ウマイ」

「図々しいやつだ」


 そんな会話を交わしながら、僕が食卓に着くと、向かいに座っていた父さんが疑わしそうに水島くんを見ながら言った。


「……二人は本当に友達なのか?」


 さて、DQN生徒の水島くんだが、身体中から煙草の匂いをプンプンさせている。彼を除いて喫煙者はいないから、当然父さんと母さんも気付いているだろう。トンチを効かせた受け答えをしたいけど、二人の表情から考える限り、それはいい結果に繋がらないような気がする。


「まあね」


 無難に頷いて見せると、水島くんは僕を見て、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。


「……そう」


 応えたのは母さんの方だ。眉を寄せ、怪訝な表情をしている。


「よかったら、二人がどういう経緯で仲良くなったのか聞かせてくれないかしら?」


「……」


 そこで水島くんは箸を止め、視線を伏せた。


 沈黙。


「…………」


 母さんは平淡な表情で、黙って水島くんを見つめていて、その顔に書いてある。


 ――あんた、誰?


 これは咲の影響だろう。母さんは水島くんを信用していない。

 水島くんが、ポツリと呟いた。


「……俺、口も態度も悪いし、皆から嫌われてます……」


「……そうでしょうね」


 母さんが相槌を打ち、ただでさえ重かった雰囲気が一層、重くなった。

 なんだこの空気。


「母さん、やめてよ。水島くんもらしくない。父さんも何か言いなよ」


「父さんは、水島くんの話が聞きたいかな……」


 父さんは惚けた調子で言った。これも咲の影響。僕の周囲に警戒している。

 水島くんは俯いたまま、話を続けた。


「……俺、学校じゃすげえ浮いてて、喧嘩ばっかしてて、んで、質の悪い何人かが結束して、俺のことやっちまおうって話になったみたいで……」


 正確には12人。DQN生徒の水島くんでも手を焼く数だ。


「……クラスの連中もグルで嵌めに来てて、今思ってもすげえ不味い状況で……」


 僕は知ってる限りの情報を記した手紙を一枚渡しただけだ。


「……里村くんが助けてくれました……」


 何が里村『くん』だ。水島くん、ニコチンが脳に回ったんだろうか……。


「……何も言ってくれないんで、俺は知りませんけど……里村くんは立場悪くしたと思います……」


 おいおい、何いいヤツみたいになってんだ? ソイツら全員、一人づつしっかり型に填めたの誰なんだよ。アイツら泣いてたんだぞ?

 水島くんが、天井を見上げて震える声で言った。


「俺、ボクシングやってて腕っ節には自信あります。でも里村くんは、そうじゃない」


「…………」


 いつの間にか母さんは眦を下げ、神妙な面持ちで水島くんの話を聞いている。


「俺みたいなヤツが行き当たりばったりで馬鹿やるのとは違います。里村くんは……いいヤツです……」


「……」


 父さんが、ずずっと大きく鼻を啜り、僕と目が合いそうになると慌てて新聞を持ち上げて顔を隠してしまった。


 水島くんは超我慢。天井を見上げて動かない。両肩は少し震えていて、何だか泣いているように見える。


「……勝手に、友達だって思ってます……」


 最後に呟いた水島くんの声は、殆ど聞き取れないくらいか細く、頼りない声で――


 僕は笑った。


「大丈夫、水島くん。煙草(クスリ)が足りてないんじゃないの……?」


 僕が煙草を吸う仕草をして見せると、水島くんは一瞬目を丸くして――それから、ニヤリと口元に不敵な笑みを浮かべた。


「タフな野郎だ」


 やれやれ、と僕は肩を竦める。

 母さんはクスクスと笑いながら、納得したのか何度も頷いた。


「水島くん、もっと食べなさい」


「ちぃっす」


 僕は溜め息を吐き出して、この朝のやり取りを締め括る。

 後はもう、いつもの朝。


「母さん、僕のご飯まだ?」


「あらあらまあまあ、ごめんなさいね」


 ささやかな笑みの絶えない、いつもの朝と、いつもの食卓。


 咲が居なくても、僕は充分やっていける。


◇◇


 水島くんと二人で家を出た。

 咲は居なくなったけど、それでもウチは通常運転。水島くんのお陰もある。父さんも母さんも、笑って僕らを送り出してくれた。


「水島くん、また来なさい。おじさんは、いつでも歓迎するよ」


「そうね。でも煙草は控えた方がいいわ」


「ちぃっす」


 この日はちょっと曇り空。

 湿っぽいのは嫌いだ。天気も人間関係も、晴れ渡っているのが一番いい。

 不意に考える。

 咲はどうなった? 片桐さんは何をしている? 水島くんは何でウチまで来た?

 水島くんの告白は懺悔の言葉にも似ていて――

 嫌な感じだ。妙な胸騒ぎがして落ち着かない。水島くんは口も態度も悪いけど、咲と違って繊細な部分がある。


 水島くんが言った。


「里村、先に行っててくれ。振り返るなよ」


「……?」


 いったい、何を。黙って視線を向けると、水島くんはニヤッと笑って真っ直ぐ先を指差した。


「…………」


 水島くんの指差した先を視線で追って行く。

 するりと延びた道路の突き当たり、T字路の中央部分に――


 うっすらと微笑みを浮かべた片桐さんが、学生鞄を両手に持ったまま、優しげな視線をこちらに向けていた。


「あ……」


 そう。僕と片桐さんは『付き合い』始めたんだ。通学路の先で彼女が待っていたとしても何の不思議もない。

 水島くんが立ち止まった。


「これ以上付いてくほど、野暮じゃねえ。ここで一服して後追うから、先に行っててくれ」


「…………」


 赤面したまま、僕は、うんうんと二度頷いた。


「今度、奢れよな」


 片桐さんの方を見つめて、僕はだらしなく頷く。


 ――きっと、このときの僕は相当な間抜け面をしていたと思う。


「里村くん、おはようございます」


 言って、片桐さんはペコリと頭を下げた。


 ――舞い上がってなくて、もう少し冷静でいたなら、僕はきっと水島くんを一人にすることはなかったと思う――


 後で思ったことだけど、片桐さんは、一瞬、水島くんに目線で合図を送ったように思う。

 でも、このときの僕には軽く目礼しただけにしか見えなくて。

 始まりの日。片桐さんが僕への好意を告げた日。黙って頷きかけた水島くんが、何故そうしたのかなんてことを、間抜けな僕は考えずにいる。


 片桐さんがT字路の先を指し、僕に先を促す。


「行け。振り返るな」


 僕は笑って駆け出した。


 例えば振り返った先、僕を見送る水島くんの後ろに、誰がいたかなんて、そんなことは想像もできなかった。

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