(3)入果とともに


 既に地に落ちた桜の花びらも見なくなり、季節は春と夏の合間に移行した。


 ゴールデンウィーク初日、宿宮区の高台に位置する市民公園は行楽客でにぎわっている。そこから少し外れた展望台に二人の姿はあった。


「今日は練習お休み?」

「ああ、まあこの後、庭で筋トレはやるけど」

 入果を誘って散歩にきたのだが、ずいぶんこの関係も馴染んできたと思う。


「それよかこれ……」

「うん、いよいよだね……」

 手紙を一枚かざして見せた。北海道の誠司と木乃香からである。


「六月に入籍か……」

 二人から、休暇を取って綾浜に戻り婚姻届けを出す旨を伝えられた。これで木乃香は、二人は名実ともに夫婦となり、堂場木乃香は栗駒地木乃香に改姓することとなった。


「なんで六月なんだろ?」

「んもーにぶちんだね、緒羽途きゅんは。一生の記録に残るんだよ。ジューンブライドにしたかったに決まってんじゃないの」


「それ結婚式だろ。まだ先になるらしいが……」

 誠司の方は支社代表として目が回るほどのいそがしさである。挙式を先送りにせざるを得ないことへの埋め合わせなのかもしれない。


「代わりにあたしたちで簡単なお祝いしてあげようよ。燕やこてっちゃんも呼んで」

「そうだな、食事会かなんかやってみるか」


「はー、これであたし、木乃香さんの娘になるのか。ママーって呼んであげたら喜んでくれるかな?」

「ああ、喜ぶんじゃねえの……」

 げんなりした声を返す。


「それじゃあ、にぃにのことはおじさんって呼んであげるね」

「やめろ貴様……」


「ねえ、寂しい? 木乃香さんが結婚しちゃうの」

「……まあ、ちょっとな」

 二人が無事にゴールであり、スタートラインに立てたことを喜ぶ気持ちの裏で、姉とは他人になってしまうかのような寂寥感も抱いていた。


「これで堂場の苗字が俺一人になっちまうからな」

「……そこは、よかったらあたしが……」


「あん?」

「……理解しろおおお緒羽途おおお!」

 入果が体当たりを敢行してきた。


「なにすんだよ⁉」

「んもー!」


「なにが、んもーだ。牛かお前は」

 日差しが雲に隠れて、あたりが暗んでいく。


「……ねえ、あたしね……実を言うと」

「あーはいはい、言わなくていいです、そんなつまらんジョークは」

 どうせくだらないことだろうと先手を打ったが入果は微笑を浮かべたままだった。


 入果が髪をかき上げると、毛先が風にたなびいた。

「ここに来る前からにぃにのこと知ってたんだ……」

「え?」


「あはっ、やっぱり気づいてなかったんだ」

「ど、どゆこと……?」


 入果が手すりに手をかけて、下方に見える河川敷を指さした。

「中学の頃あそこでよく自主練してたでしょ?」

 瞬きができなくなり、目元が接着剤で貼り付けられたように動かせなくなっている。


「ちょうど船越区の境になってんだよあそこ。そんでね、私も練習がてら散歩しに行くことがあったから、そこでしょっちゅうボールを壁打ちしてる人がいてね。最初は散歩してたら偶然、飛んできたボールが目の前にどーんと落ちてきてびっくりしちゃった。そしたら丁寧に謝ってくれて、礼儀正しい人だなと思って、それ以来、ここに来るたびになんとなく見物してたわけ。あたしのことなんか目にも入ってないようだったけど、でもその人……ある日を境に来なくなっちゃった」

「……」


「なにかったのかなって、ずっと気になってた……。だから、最初木乃香さんからにぃにの写真見せられた時はびっくりしちゃった。まさかあの時のって……」

 入果が手すりに寄りかかりながらこちらを見つめた。


「そんで実際会ってみたら、もうこれ間違いないってわかって、なんもいえなくなっちゃったってわけ」

 最初に、あのカフェで対面したときのことを想起していた。


 そうだ……俺は……。

 以前はあそこで自主練というか、ジュニアユースでの練習で高揚しきった精神を瞑想させるかのように、あそこでボールを蹴っていた。


 そこで明後日の方向に飛んでいったボールを追いかけて一人の少女と出会った。それ以来、度々、見かけるようになった。

「やっと言えた……」

 雲の隙間から光の柱が差す。


「……あー、すんません、全然覚えてないっす」

「はうあ!」

 言い出せるはずもない。


 本当は気づいていた。彼女の視線に。本当はその娘のことが気になっていた。


 でも俺は臆病だったから……。

 顔を見ることさえできなかった。無心でボールを蹴ろうと思うほどに心を乱された。


 挫折を重ねた末に薄らいで見えなくなっていた記憶がよみがえっていく。

 ユースに昇格できたら勇気を出して話しかけてみようと決意していたこと。それができなくなり情けなさから河川敷に行けなくなってしまったこと。


 そしていつしかそんな出来事があったことさえ淡い夢のようなまどろみの中で消えていってしまった……。


「まあ、そうだよね……あてくしなんか……」

「……君とこうなれてよかった……」

 自分の耳ですら拾えないほどの小声であった。


「んにゃ? なんていった?」

「……向こうでアイス売ってんぞ、食べるか?」


「あー! 食べる食べる!」

 紅潮した頬を見られないように先を歩いた。

 これから入果とともに作り出していく人生は、きっと楽しいものになる。

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ビゲットライフ 夏野南 @natsuno_minami

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