(3)黒い風




 自宅に戻り、玄関で靴を脱いだ、その時だった。

「え……入果……⁉」

 入果が体勢を崩して壁に寄りかかりっている。


「どうした⁉」

 駆け寄って入果の肩を支えるようにした。


「……大丈夫……またいつもの風が来ただけ……」

 例のダウナーモードのことである。入果はこれを黒い風と表することがある。


「部屋に行くぞ、もう休んだ方がいい」

「……私、病気なんかじゃないよ。だから明日は……」


「わかってる、明日も遊ぶんだから今日はもう寝よう」

「うん……」

 入果の部屋に入ると、ぶしつけを承知で入果をベッドに横たわらせた。


「なにか温まるもので持ってくるか?」

「……シャワー浴びたい」

「わかった、風呂の用意してくるからちょっと待ってろ」

 廊下に出ると、携帯に着信が来た。手に取ると、誠司からであった。


「あ……誠司さん!」

『こんばんは、緒羽途くん』

「あの! 今ちょっと……」

 小走りで入果の部屋の前から離れて、入果の状態を伝えた。


『そうか……最近少なくなっていたから安心していたんだが……』

「普段からこうなるんですか、入果は?」


『うん、心配で医者に連れて行ったこともあるが神経的なものではないと言われている。いろいろセラピストの先生方にも診てもらったことがあるが気鬱の原因は入果自身もよくわかっていないみたいなんだ』


「……俺が見ている限り、ここに来てから二回目です。時間が経てばケロっと回復するみたいですけど……」

 躁鬱の類とも違う感じがする。


『すまない緒羽途くん、入果に代わって……っと! こ、木乃香……!』

『緒羽途!』

「え……? げっ!」

 木乃香も近くで聞いていたようだ。


『なにがげっよ! 入果ちゃん大丈夫なの⁉』

「……ああ、平気だよ。しばらくすれば元に戻るだろ」


『そんないい加減な……!』

「いい加減なんかじゃない、まだ数週間だけど俺はちゃんとあいつを見ているからわかる。ずっと一緒だった父親と離れて、しかも住み慣れない家での生活で不安定になっているんだろ。でも、それを乗り越えようとしてるんだ。下手な干渉はしない方がいい」


『……そう、でも、話し相手にはちゃんとなってあげて』

「わかってる、燕さんも協力してくれるし、明日は虎鉄たちと遊びに行くから」


『ええ、お願い』

 最後に誠司と話すと、通話を終えた。今は様子を見つつ、入果自身に任せようという方向でまとまった。


 風呂を終える頃には入果も多少リフレッシュできたのか、わずかながら瞳の輝きには力が戻っているように見えた。ただ、手つきが不安定に感じたのでベッドメイキングは緒羽途が行った。


「ごめん、にぃに……」

「別に構わん。というか、お前が、そんなだと調子狂うよ」

「コンニャロー、あう……」

 入果が体当たりを敢行すると、勝手に跳ね返って崩れていった。


 パジャマに着替えた入果がベッドに入っていく。

「ほら」

 掛布団を上からかけていると、泥酔した木乃香を介抱して寝かしつけたという、しょうもない記憶を思い出していた。


「それじゃ、電気消すぞ」

「うん……」

 リモコンで照明を落とすと、カーテンを閉じた。


「なにかあったら呼べ」

「……にぃに、こっち……」


「なんだ?」

「手……握って……」

 体を横たえた入果が右手を出してきた。一瞬の、逡巡を経てその手を取った。そのまま時計の秒針が一巡りした。


「……もういいか?」

「……やだ」


「お、おい……」

「こっち……」

 入果が掛布団を手にもってめくるようにした。


「来て……」

「え……? い、いや……」

「ずっと手、握ってて、私が眠るまで……」

 観念するように入果のベッドに入り込んだ。


 夜になって急に風が強くなったようで、窓を叩く音が激しくなってきた。風切り音が鳴ると入果が指に力を込めた。


 どうすんだこれ……。

 その場の流れに任せてしまったとはいえ、男女二人で寝床を共にしているという事実を冷静に分析すると、心臓が縮む思いだった。


「緒羽途……」

「な、なんだ……?」

 名前で呼んでくる時はたいてい本音を語る時だろう、


「手がざらざらだぞお前、ちゃんとスキンケアしろよ」

「……指へし折るぞ」

 と思った自分が馬鹿だった。


「冗談……ごめんね、あと少しで嫌なのも消えるから」

「よくわからないんだけど、大丈夫なものなのか?」


「うん……。時々すごく昔のことが頭に浮かんでくるの、自分でも止められない……」

 その声色は深淵なものを帯びていた。


「私の本当の両親は誰だったんだろうかとか、まだ生きているんだろうかとか、実の父親……なのか知らないけどパパンのお兄さんはどうして私を捨てていったんだろうか……とか」

「……」


「考えたところでなんの意味もないのはわかってる。でも風が吹くのは誰も止めるこ

とができないのと同じように、そんな考えがいきなり頭の中に吹き込んでくることがあって……その黒い風が嫌なものを運んでくるの……」


「……そうか」

「これでもマシになったんだよ、昔はいきなり泣き出したりして、パパンがめちゃくちゃ心配して、近所の人が警察に通報したりして大変なことになったりもしちゃって」

 誠司の苦労が目に浮かぶようである。


「ごめん、次からは見かけても無視して……」

「そういうわけにはいかないだろ。俺たちいちおう……その……家族……みたいになってんだから」


「……うん、ありがとう……にぃに……」

 入果の声が細くなっていく、ほどなく眠りについていった。


 不思議なもんだな……。

 まだまともに出会ってから一ヶ月も経たないというのに、兄妹となり、同じ学校に行き、生活をともにする。それが自然にできてしまっているということである。燕や虎鉄が述べた通り、自分と入果は相性において優れて一致を見るところが多いのかもしれない。


 それ以上に入果と生活を共にしていくうちに、ずっと自分を覆ってきたもやが晴れていくようにすら感じている。

 入果の小さな口から寝息の音を聴くと、こちらも意識が安らぎ薄らいでいく。そのまま二人、夢の中へと呑まれていった。


 あの日以来、悪夢は見なくなった。代わりなのかしらないが、古い記憶がよく夢に現れる。在りし日の父と母がダイニングで朝食を取っている。まだ高校生だった木乃香もパンをかじりながらテレビを見ていた。


 ただそれだけの光景なのに、光る雫が目からこぼれ落ちていく。最後の別れすらいえなかった無念が今になって胸を焦がす。積み重ねた日常のすべて、決して失ってはいけない思い出の宝石箱。これこそが自分の人生をかたどっているのだ。


 失うばかりの人生だと思っていたが、今は、新しい絆をこの指に結んでいる。これから築いてく未来の自分、そこに共にある人は……。


 ひんやりした感触に意識が覚醒していく。目が開くとぼやけた視界の先になにかが見える。

「う……。……!」


 勢いよく身を起こすと眼前の相手を正視した。胡坐をかいてこちらに穏やかで、いたずらっぽい視線を向けていた。

 澄み切った瞳は精神の全快を明瞭に示している。


「おはよう、お兄ちゃん」

 黒い風が運んだ毒素は消失したようである。


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