第五章 黒い風
(1)黒い風
落ち着かない。テーブルを必要以上に磨き、カトラリーケースのチェックも三回はやった。
後は料理の完成を待つばかりだが、今日はいつもとちょっと違う。
「ダダダダーン!」
手慣れた手つきでキャベツの千切りを披露する入果と、
「入果、もっとゆっくりでいいから手を切らないように注意して」
「らじゃー!」
黙々とコロッケのタネを溶き卵につけて、パン粉をまぶしていく椛沢燕が台所にいるのである。
今日は、燕を我が家に招いてもてなしていたのだが、彼女の希望で夕食を作ってもらえることになった。父親と離れて暮らすこととなった入果の新生活を心配した燕の母親に提案されたらしい。燕の母は入果が小さいころから見ているようで、それなりに気にかけているらしいことがうかがえた。
所在なくダイニングから台所に視線を送ると燕が素早い反応で視線を合わせてきたため、ギョッとした。
「すみません、緒羽途さん、すぐできますから」
「い、いえいえ、いくらでも待つからゆっくりやって……」
「はい」
エプロン姿の燕は学校でのクールなイメージとは打って変わって家庭的な少女に見えた。
「というか、やっぱり俺も手伝おうか?」
「いえ、今日は私のわがままでキッチンをお借りしてますので、緒羽途さんはごゆるりとなさっててください」
そういうわけで、彼女とあともう一人に任せきりになってしまっている。
「にぃには、宿題でもやってなさい」
「……!」
顔をそらしてテレビのリモコンを手に取った、
どうしたんだ……俺は……。
入果の声を聴くたびに、あの柔い感触を思い出して、フワフワとしたものが頭にもたげてくる。ちょっとしたいたずら心がやらせたこととわかっていても、である。
テレビ画面には明日の天気予報、晴れ時々曇りとなっていた。
そういえば……。
虎鉄たちがベイサイドパークに遊びに行く日であることを思い出した。
……行ってみるか。
先日、入果にこれまでのことを説明して以来、どこか自分の中で重しとなっていたものが軽くなってように感じている。鬱屈していたという自覚すらなかったのかもしれない。
「どうせ暇だしな……いや、どうせなら……」
入果たちの方に視線を向けると、インターフォンが鳴る音を耳が捉えた。
「ちょっと出てくる」
キッチンの入果にそう言うと、玄関まで赴きドアフォンの前に立った。
「はい」
「……緒羽途?」
「はい?」
「俺だ……」
「え……? あ……虎鉄⁉」
慌ててドアを開いた。
「よっ」
ジャケット姿の虎鉄が手振りで挨拶してきた。
「どうしたんだいきなり?」
「いや、まあ、近くに寄ったからなんとなく訪ねてみっかなって」
「ともかくあが……あ……」
まずいことになった。家に虎鉄を上げれば入果との鉢合わせは避けられない。
「……ちょっと話したいことがあったんだけど、今、都合悪いか?」
「い、いや悪くはないんだけど……その……」
妙案が思い浮かばないまましどろもどろになった、その次の瞬間だった。
「にぃに、どしたのー?」
来てしまった、とがっくりと首がうなだれた。
「あれ? その人って……」
目を丸くした虎鉄が入果とご対面である。
虎鉄が小さく息を吐くとにやけ面になって緒羽途の胸を肘で突いた。
「……なぁんだ。やっぱり付き合っていたんじゃないか」
「違う! 違うんだって!」
「おいおいさすがに諦めろって、動かぬ証拠が目の間にあんだぞ。ったく、最近、付き合い悪いと思ったらそういうことかよ」
「はひ?」
勝手に自己完結している虎鉄と状況がわからない入果に挟まれてパニック状態になる緒羽途。
「ああ、すみません。君たちの逢瀬を邪魔する気はないんで俺はこれで失礼します。それじゃ、緒羽途これお土産のタコ焼きだからよかったら二人でどうぞ」
「待て待て待て!」
「緒羽途さん、いかがしました?」
さらにもう一人登場である。
虎鉄の開いた口がふさがらなくなっていた。
「お、お、お前、す、すごいんだな……。こんなかわいい娘二人も侍らせて……」
「ちがーう!」
「にいやん、この人だーれ?」
「押し売りの方ですか? 私が処しましょうか?」
「き、き、気にすんなよ緒羽途、俺はなんも見てなかったことにするから。でも二股は倫理的にというか道義的にというか、ともかくよくないと思うが……」
「人の話を聞けえええええ‼」
夕暮れの鴎鳴町に緒羽途の絶叫がとどろいた。
「お前の姪⁉」
「ああ、法律上はそれに近い関係になるらしいんだが……」
結局、虎鉄にすべてのいきさつを説明することにした。これ以上の隠し立てはおかしな誤解を増殖させるだけとの苦渋の、というわけでもないが観念した上での判断である。
「この間、姉さんが婚約したんだよ……それで」
「あの子が生まれた……」
「んなわけあるか! あんな0才児がいてたまるか!」
虎鉄はかなり混乱しているようで、さっきから目の焦点が定まっていない。
「なになに?」
向こうのダイニングから配膳中の入果が口を挟んできたので、問題ないと手振りで伝える。
「あいつはその婚約者の栗駒地誠司さんって人の娘だよ、そんでもって……」
二人が北海道に転勤になり、入果が転がり込んできた旨を説明する。
「そうだったのか……」
「ああ、そうだったんだよ……」
リビングで脱力したように虎鉄がソファに沈みこんでいく。
「ああ……木乃香さん結婚しちゃったのかぁ……」
「まだ婚約の段階だけど……つうかなんでそんな残念そうなんだよ?」
「あ……ハハ……」
虎鉄が歯を輝かせてほほ笑む。なにかごまかされた気がする。
「しかし、そうなると、緒羽途がえーっと、アシカちゃんだっけ?」
「入果だ!」
まだ虎鉄の思考は正常化していないらしい。
「なになにぃ?」
「なんでもない!」
またしてもコップを並べている入果がこちらを見てきたが、手振りで制する。
「ともかく二人暮らしになったわけだ……大変だな」
「別に大変ってほどでも……いや、結構大変だな、うん……」
入果にはずいぶん振り回されている。
「え? それじゃああっちのショートヘアの方は……?」
「ああ、入果の友人の椛沢燕さんだよ。彼女も今年、鴎凛に入った一年生だ」
「モミジザワ……」
「なんだ?」
「どっかで聞いたことあるような……」
腕くみしながら考え込む虎鉄。そうしている間に燕がやってきた。
「お待たせしました、緒羽途さん。夕食の準備完了です」
「ああ、ありがとう」
「そちらのお客様の分もご用意できてますので」
「へ?」
燕が虎鉄の返答を伺うように述べた。
「そうか、だってさ虎鉄。お前も食べてけよ」
「ああ、ごちそうになってもいいか? 入果さんと……そちらの椛沢さんとも話してみたいし」
「こちらへどうぞ」
そんなこんなの晩餐となった。
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