(8)蹴れない理由

 サッカー部に入った緒羽途は、早々にレギュラーとなり、背番号配布で十番をいただくこととなった。同期のみんなは祝してくれたが、ポジションと十番を奪われた三年生とその派閥は緒羽途に暗い妬みの念を抱いた。


「上級生は俺が目障りになったんだ……練習中に、ため口を叩かれるのが気に入らないだの、自分らを軽く見ているだのなんだのと、言いがかりをつけて練習をサボるようになった」


 年齢や学年差を考慮に入れない、能力による選抜が当然のこととして理解されていたジュニアユースとは全く異なる環境の違いから摩擦が生じ始めたのだ。


「俺は気にしなかった。顧問の大東も実力主義者だったし、部員は学年に関係なく正当に評価してくれただけだと思っていた。だけど……新参の一年ににポジションを奪われるってのが連中にとってどれだけ屈辱的なことか俺は無自覚だったんだ……」


 そして秋の公式戦でそれは起こった。

「俺はスタメンで唯一の一年、ポジションは例によってセンターハーフ、ボランチで前線を指揮する立場だったんだが、フォワードとサイドミッドフィルダーの五人くらいだったか……。あいつら示し合わせていたみたいで……」


 露骨に手を抜いてプレイしたのである。指示は無視する、パスはまともに受けようとしない、挙句の果てには敵にボールをパスする始末だった。


 チームは二つに分断された。当時二年でキーパーの薬師岳浩輔やディフェンダーの数名は緒羽途の側に立って怒ってくれたが、怠慢組は態度を改めようとはしなかった。


「さすがに怒り狂ったよ、なにをやってるんだ! 公式戦なんだぞ! ってさ……」

 汗だくの両手をうつむいた顔につけて呪わしい出来事を回顧する。

「貫くべきエゴってそういうものじゃないだろ……」


 一点を取られた時点で敵チームもこちらの異常を察して、当惑するように動きを止めた。


 脳裏によみがえるあの時の光景、

『天才様がなにかおっしゃってるぜ』


 せせら笑うように愚弄した上級生に、とうとう堪忍袋の緒が切れてつかみかかってしまった。


 ピッチは前代未聞の味方同士の大乱闘と化し、対戦相手である他校の選手たちが慌てて仲裁に入るという異常事態であった。


 ほどなく監督の大東は試合放棄を主審に申し出て、五分程度のゲームは仲間割れの末の不戦敗という不名誉というのも恥ずかしいくらいの不名誉で幕を閉じた。


 ロッカールームに戻っても、お互い口を閉じたままにらみ合いが続いた。

 大東は姿を現すと全員を前にして、特に怒るわけでもなく無言でポケットに手を突っ込んだまま乾いた目を向けた。


 中立寄りの立場だったキャプテンは謝罪の言葉を述べるが、

「必要なのは謝罪じゃなくて総括だ、って言われたよ……」


 全員の視線が緒羽途に集中した。良い悪いは別として、争乱の原因となったのは間違いないからだ。虎鉄ら同期生はかばうように前に出ようとしたが、緒羽途はそれを制し、敵意むき出しの視線で先ほど自分と、そして試合を愚弄した上級生に向かって口を開いた。


「俺は言った……言ってやった……」

 こんなクズどもとはもう一緒にはやれない、と。


 そうか、と大東は一言発し、目を閉じてわずかな間を置いてから、こう述べた。

「なら廃部にしよう、だ……」


 そういう心根でいるならもう続ける必要はない、と続けた。一年生、全員が言葉を失う中で怠慢組の一人が事もなげに放言した。

『ああ、いいっすよ、廃部で』


 自棄になっているわけでもなんでもない、自分たちが主役になれない部活動などに未練はない、そんな口ぶりだった。


「やつらはもう本気でそれでよかったんだろう……。俺も意地になって発言を撤回する気は全くなかった。完全な決別だ」


 しかし、まだ先がある一、二年生たちこそいい面の皮だった。大東に詰め寄って、処置があまりにも極端すぎると抗議したが、大東は今の部のこの状態がすべてだとして方針を曲げることはしなかった。しまいには泣きつくような声まで上がったが、大東は何も言わずにロッカールームを去った。


 あとに残されたのは部員たちはもう喧嘩を再開する気力も残っていなかった。怠慢組の一人が吐き捨てるように一言述べた。

『あーあ、みんな楽しくやってたのによ』

 そうしてサッカー部は崩壊した。



 すべてを話し終えた後には日はもうわずかに面積を残して没しかけていた。

「……つまんない話だろ……」

 入果は目を閉じて黙然と口を閉じていた入果が、静かに腰を上げた。そのまま、数歩歩いて緒羽途に背を向けた。


「……?」

「コホン……入果ちゃんが言っておきたいこととしましては……」

 くるりと半回転すると緒羽途に向き直り、


「お疲れ様、緒羽途」

 労わるような笑顔で、そう言ってくれた。


「……」

 体から力が抜ける、ずっと自分の中で澱んでいた負の念が散逸していく。

 なんだ……これ……。


 何かを見ている、幻視の先に見えるのは、もう、ろくに顔も思い出せなくなった母親の顔。


「うん、にぃにはもう十分がんばったよ、クラブの人たちと上手くいかなかったのは残念だったけど、にぃには悪くなかったと思う。ただ、めぐりあわせが悪かっただけなんだと思う。またチャレンジしろとか、もう一度がんばれなんて言わないから……」

 入果の瞳に橙色の水面が映し出された。


「ありがとう、教えてくれて……」

「いや……」


 あの夏の大会以来、ずっと自分に貼りついていた固いなにかにひびが入っていき、少しずつ砕けて、はがれて落ちていく。


 日が沈む時刻だというのに視界が開けてあたりが明るくなっていく。

「ほら」

 入果が差し出した手を、手繰り寄せられていくようにそっと握った。


「ああ、そうそうあっちの方がまだだったね」

「え? ……!」

 首筋をなでる柔い感触、入果が唇を当てるとすぐ話した。


「それじゃ、帰りますか」

 街灯が灯りはじめた。入果の背に定まらない視線を送る。


「おーい、はやくー!」

「あ、ああ……」


 踏み出した足が綿のように軽いのに驚く。今まで泥濘を走っていたのかと思えるほどに、体が解放感に満ちている。



 いつぶりだろうか、これほど安らいだ気持ちで帰路につく日は。

 これからはこれが当たり前になっていくと思うと、心に羽が生えた心地にすらなっていった。

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