(6)蹴れない理由
放課後になると、またあそこに向かう。
スポーツシティの受付を済ませてボールを一つ手に取ると、
「ねえ、君」
「はい?」
振り返ると、一人の男性がいた。年齢は二十代前半ほどに見え、奥ではさらに数名がなにやら話している。大学生の集まりだろうか
「よくここに来るよね? 鴎凛の子?」
「……そうですけど」
「俺たち向こうのコートでフットサルやってんだけど、今日ちょっと人数が合わなくてね。よかった一緒にやらない?」
「……すみません、下手なので」
「別にそんなことどうだっていいよ。俺たちも趣味でやってるだけだし」
「……すみません」
男性は、諦めたように微笑むと踵を返した。
自分で断っておいて、物寂しい心地のままいつものソロスペースに足を進ませた。
一時間は経っただろうか、跳ね返ったボールをトラップし、自分の頭で設定した的に向けて蹴る。ひたすら蹴る。
「ハァハァ……」
一人でできるトレーニングとしては、極まった感すらあるほど体は馴染んできた。だが、
「く……!」
ふとした拍子に、脳裏によぎってくる。あの、去年の公式戦でのあまりにも醜悪で馬鹿馬鹿しい争いが。
『天才様がなんかおっしゃってんぜ……』
『すんませんねえてめーと違って下手で……』
『ああいいっすよ、廃部で……』
幻聴が脂汗を吹き上がらせてきた。
ふざ……けるな……ふざけるな!
怒りのままに蹴り込んだボールはウォールに激突して派手な音を奏でた。
「おお、ナイッシュー」
「あ……? ……⁉」
まさかである。なぜこいつがここに、という思うより先にボールが足元まで戻ってきた。
「どしたの?」
「……なんでここにいる……?」
制服姿の入果がそっと一歩前に出た。
「んー、今日は午後練休みだから、にぃにのことストーキングするのも面白いかなって。ってのは冗談で、はい忘れ物」
「なに……?」
入果が差し出したものを見て、心臓すら止まったような気がした。
「お、お前どこでこれを……⁉」
「どこって、家だよ。物置片付けてたら見つけたんだけど」
「お、お……お前ってやつは……本当に……!」
なぜこうも自分を惑わすのか。入果が手に持っているもの、それは、
「運動するならちゃんと着替えなよ。ほらこれ、すごいよね十番ってエースナンバーってやつだっけ? サッカーよく知らないけど」
廃部になったサッカー部のユニフォームだった。
「ふざけるな! 捨ててこいそんなもの‼」
「……」
これほどの怒声を浴びせたことはなかったはずだが、入果は身じろぎもしない。
「……いい加減教えて。なにがそんなににぃにを迷わせてるの?」
「俺は迷ってなんかいない! ここでやってることもただの憂さ晴らし! ストレス解消だ!」
ほかの利用者の目も気にせず叫んだ。
「だいたいお前にそんなこと話してなんになる⁉」
「ご褒美にチューしてやるぞ」
「ざけんな!」
入果が軽く息を整えてから真っすぐに緒羽途を見据えた。
「ごめん、今日聞いちゃったの食堂で」
「……⁉」
「ちょうど隣の席にいたんだよねぇ。燕も一緒に。にぃに全然気づかなかったけど」
あまりの不覚に絶句する他なくなった。
「にぃに呪われし刀を手にした呪われし侍みたいな顔してたからさ、燕が心配して見に行ってあげたんだよ」
そういう事情だったかと、頭を押さえた。
「綾浜エールスだっけ? なんでやめちゃったの?」
「……ッ! 首になったんだよ‼ 俺みたいなやつは必要ないって……戦力外通告だ! 俺は……俺には……」
「うん、わかった……。ごめんね、辛いこと聞いちゃって」
肩から力が抜けていく。気を張らないと膝から崩れてしまいそうだった。
「もうこれ以上は訊かないよ。でも、高校でもがんばろうとしたんだよね。それが、よくわからないけどダメになっちゃった。それでも、これを捨てられなかったってことは、まだくすぶってるものがあるってことじゃないの?」
「お前になにがわかる……⁉」
「わかんないよ」
入果が目を伏せた。
「わからないから、わかりたくなりたいっと思ってるんだよ」
顔を上げてこちらを正視した彼女の瞳は、やさしかった。
「おせっかいやってるのわかってる。でも、にぃにがほんとはもう一度がんばりたいって思ってるなら、なんとかしてあげたいじゃん。私たち……家族になったんだから……」
かぞ……く……。
入果の全身を柔いなにかで包み込んでくるかのような声に猛っていた感覚が正常化していく。発した汗はいつのまにか冷たくなっていた。
遠目になにごとかとこちらを見ている人たちも出てきた。そろそろ退散した方がいいだろう。
深く息を吐いて、精神の均衡を確かめる。
入果をジッと見つめる。この少女はとっくに他人ではなくなっている。それがここまで心を砕いてくれている。もう、これ以上は逃げてはならない。心の奥底で張り巡らされていた氷の膜にひびが入る音を聴いた。
今こそ、過去と向き合わなければならない。
「……少し、付き合え……」
覚悟を決めたその声に、入果は黙って首を縦に振った。
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