(4)彼女の流儀
兄さんというのは、元々僕の母親の再婚相手の連れ子だったんだ。僕より五才年上で僕が十才の時に義理の兄弟ということになった。寡黙でいつも険しい表情をした人だった。
母さんは夜の仕事をしていてその時に旦那さんと知り合ったらしい。ただ、母さんはいい加減な人でね……。家庭のことはほとんど顧みなかった。そして僕が中学に上がる頃には、再婚相手の旦那さんと一緒にどこかに蒸発してしまった。当時住んでいたアパートに残されたのは、僕と兄さんだけになった。
公的な支援を受けてなんとかアパートでの生活は維持できた。ただ兄さんは元々家にはいない時が多くて、僕のことはほとんど興味がないみたいだった。僕の方も、なんだか怖い感じがする人といった印象を抱いていたから、積極的にコミュニケーションを取ろうとはしなかった。
時折帰ってくる兄さんになんの仕事をしているのかさえも尋ねなかった。兄さんは支援を必要としていなかったからなんらかの収入があったんだと思うが……。
だから兄さんとは本当に必要最小限な会話をした記憶しかないんだ。そして僕が高校に進学した年に兄さんもどこかに行ったまま帰って来なくなってしまった……。
他に頼れる親戚もいなかったから、知り合いの伝手で紹介してもらった北条電工、つまり今勤めている会社でバイトをしながら一人で生活するようになった。
僕は親とは違う、堅実な生き方をしたいと思っていた。それで技術者になろうと決意して理系の大学を目指した。もちろん親のいない自分には経済的に厳しい話だったが、奨学金の獲得に目途がついてなんとか合格できた。
そのすぐ後だったんだ。高校三年最後の二月、今でもよく覚えている。ちょうど雪が降っていた日だった。突然兄さんが帰ってきたんだ。それも小さな赤ん坊を連れて。一体なにごとかと思ったよ。
今までどこにいたのか、その子はなんなのかと、問い詰めたが兄さんはまともに答えてはくれなかった。ただ、僕にこう述べたんだ。
『しばらくこいつを頼む』
なんとか引き留めようとしたが、そのまま兄さんはまたどこかへ行ってしまった。
アパートには呆然と立ち尽くした僕とそのすぐ横に赤ん坊を乗せたクーファンが残されただけとなった。
籠の中にはその赤子と一つのネームプレートらしきものが入っていた。
イルカ、カタカナでそう書かれていた。どうやら女の子らしい。
今、話した通り僕と兄さんは実の兄弟ではないし、保険証の類も残されたなかったから、この子が兄さんの娘なのかどうかさえ確かめる術がなかった。
僕は進学を取りやめることにした。バイト先の北条社長に頼み込んでそのまま北条電工に就職させてもらうことができ、働くことにした。
別に大学に行くのは二、三年遅れても構わないと思っていたし、その間に兄さんも帰ってくるだろうと考えていた。
だがそのまま兄さんとは音信不通の状態が続いて、興信所に頼んで捜索もしてもらったが発見することは叶わなかった。
その間にも女の子、入果は育っていき、僕を親と認識するようになってしまった。僕はそのまま、なし崩し的に入果の父親になってしまったというわけだ。
いつまでこの関係を続けて行けばいいのか、この子の本当の母親はどこにいるのか、何度もどうすべきなのか考えたが、具体的な案が思いつかないまま時間だけが過ぎて行った。
だけど、それもだんだんと……どうでもよくなってしまった。入果の成長を見守ることができるのが、僕にとってなによりの喜びになってしまったんだ。
そして、入果が小学生になったその日に、もう完全に吹っ切れた気がしたよ。このままこの子と人生を築いていこうと。
言葉を失う。あまりにも壮絶な経緯に絶句したままになった。
「すまない、こんな話をされても困るだろうが、こうして縁戚関係になった以上は君にも知っておいてもらった方がいいだろうと思う」
「……いえ、しかし、ずいぶんな……苦労をされたようで……」
なにいったらいいのかわからなくなってきた。
「フフ……確かに大変ではあったが、苦労したなどと思ったことはないよ。僕自身親から見捨てられたようなものだったからね。本当はどこかで他人とのつながりが欲しかったんだとも思っている。だから兄さんとももっと分かり合いたかったとも後悔している気持ちがある」
寂しげな瞳に、緒羽途の顔が映し出した。
「なによりも、入果が可愛くなってしまったからな……」
沈黙を破るように玄関のドアが開かれる音を捉えた。木乃香だろう。
「……俺、二階からあいつを連れてきます。四人で話しましょう」
「ああ……」
優先順位をつける形で話を進んだ。
第一に札幌転勤の話は誠司にとって将来的な出世にもつながるもので受けるべきという彼以外の三人の意思を受ける形で誠司も承諾した。第二に木乃香も札幌にある支社への転勤が可能であることから誠司に同行し、生活を共にする方向でまとまった。問題は、第三の綾浜に残る入果がどうするか、である。
「木乃香さん、お願いします! この家はちゃんと管理して守りますから、どうか私が住むことを認めてください」
木乃香に嘆願する入果。あの異様なテンションはどこへやらである。
「ここは俺も半分権利持ってんだけどな……」
「緒羽途くんとも仲良くやりますから」
木乃香が相貌を崩すと口を開いた。
「入果ちゃん、本当はね、私と緒羽途と入果ちゃんの三人でここで暮らすつもりでいたの。誠司さんの向こうでの勤務がいつまでなのかはわからないけど、別居でも夫婦としてやっていけると自信があったから」
誠司が頭をかく。
「すまない木乃香……さん、さすがに向こうで骨を埋めるような長さにはならないが、なにぶん立ち上げからやるという話だから、数年はかかると覚悟している」
「ええ、大丈夫。それに入果ちゃん鴎凛に受かったんだから……二人でここから通うのが自然なことだと、思う」
「じゃあ……」
「緒羽途のことお願いできる?」
「はい!」
入果が手をテーブルについて欣喜雀躍する。
「俺は蚊帳の外かよ……」
小声で自分の意向を訊きもしない二人に毒づいた。
「ったく……。……?」
見えてしまった。テーブルにつけられた入果の指先が、微弱に震えているさまを。
この娘……。
本当は怖いのかもしれない。住み慣れた家を出て、父親と別れて、見知らぬ近い年の男と同居する。
自分が女だったら絶対嫌だと思う。
誠司についていきたいのが入果の本音なのかもしれない。だが彼女は先ほど説明を受けた通り誠司と木乃香が自身にはばかることなく夫婦として暮らしてほしいと願っている。
鴎凛を密かに受験したというのも覚悟を決めるためだった、とも考えられる。
「緒羽途、あなたも入果ちゃんと仲良く、助け合いながら生活できる?」
「……ああ。入果さんさえその気があれば……」
それが入果の流儀だというなら、その想いに応えてやってもいいと思えた。
「誠司さん、そういう方向で構わないですか?」
「……入果を頼む、緒羽途くん……」
十五年連れ添った娘である。彼も他人に任せるのは不安だろう。木乃香の弟ならば、という信頼が言わせた言葉のはずである。
「入果、緒羽途くんに言うことは?」
入果が席を立った。自分も同じようにして彼女と相対する。
「……緒羽途くん、これからよろしくお願いします」
「……こちらこそ……よろしく」
白さのある手が差し出された。
「……」
そっとそれを握る。ひんやりとした感触、彼女の覚悟と決意が骨の髄までしみこむような感覚を覚えた。
それから四月からの新生活に向けて慌ただしく準備に追われることなった。
緒羽途と入果は、木乃香の指導を受けながら地域生活において必要な事柄や災害等緊急時の対応、その他家事全般を学んでいった。
桜の花が咲き乱れる三月末日、二人の共同生活は始まった。
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