(3)入果見参
誠司との対面から一ヶ月が経った。
木乃香は予定通り誠司と婚約し、家を出て彼の住むマンションで共同生活を開始した。それでも週に一回は堂場邸に戻り、緒羽途の生活が乱れてないか確認にやってくるのだった。
「食事はちゃんとしてるの?」
キッチンからなにかを仕込んでいる木乃香の声に、テレビを見ながら投げやり気味に返答を返す。
「ああ……」
料理は得意ではないが、伊達に姉弟二人で生活してきたわけではない。簡単なものなら作れる程度には心得がある。
「そんなことより、そっちはどう?」
「問題ないわ、あそこの方が職場も近いしね」
木乃香は電機メーカーの企業に勤めている。専門的なメーカーで一般的な知名度は高いとは言えないが、年々規模を拡大して独自の製品を出すに至っており、電設会社向けに頻繁に自社製品の売り込みを行っているという。そうした仕事の延長で誠司と知り合ったのだろう。
「そんな広いマンションじゃないんだろ、手狭じゃないのかやっぱり」
「だいじょうぶ、三人で生活する分になにも」
「……あの子はとはうまくやれてんの……?」
「入果ちゃん? まあ、やれてるとは思うんだけど……」
木乃香が皿をテーブルに並べた。
「なに……?」
「あの子ちょっと……変わったところがあるというか……。気分の上下が大きいっていうのかしら……昔からのことだから心配はないって誠司さんは言ってるけど……」
「はあ……? 大丈夫? 無視されたりとかしてない?」
「そういうことはないわ。うん、仲良くやれてると思う。まあ受験で忙しいからあまりゆっくり話をできる機会がないんだけどね」
どうにも歯切れが悪いように感じた。
「それよりもう進級でしょ。進路はどうするかそろそろ考えてるの?」
「まだなにも」
「もう……! 昔っから動くのが遅いのよあんたは」
「いいだろもう少し考えたって」
「……クラブはどうするの?」
空気の流れが、停止したように感じた。
「……もう終わったよ」
終わった、比喩でもなんでもない。終わったのである。
「そう……」
木乃香もこれ以上その件を追求する気はないようである。
その日のうちに木乃香は栗駒地の家に帰ることとなった。
「余った分はしまっておいたから、明日までに温めて食べなさい」
「わかった」
「今年は寒い日が続くみたい、夜はちゃんと厚着して寝るように。風邪の気を感じたら意地張らないですぐ病院に行きなさい」
「わかった、わかったから……」
いい加減弟離れしろと、目で訴える。
「それじゃ……」
ドアが閉じられる。ガタンとした音を聴くと、
「……」
寂寥感が胸に去来してきた。
この家は一人で暮らすにはやはり広すぎるのだ。頭を押さえる。これからはこれが日常になるのだと言い聞かせるも、木乃香がいない生活がここまで物寂しいものとは思ってなかったというのが本音だった。
そしてさらに一週間が経った。
「……う」
ベッドから手を伸ばして、朝日が漏れ入ってきているカーテンを開くと霜が貼っていた。
「お……」
スマートフォンを手に取る。メールが一件。友人からだった。
『対外試合やれるようになったぞ。緒羽途もよかったら飛び入りでもいいからやってみないか。返事待ってるぜ!』
「……」
朝の気だるさに輪をかけて気分が重くなってきた。
「虎鉄め……がんばってんだな……」
彼の努力を称賛しつつも、この誘いに自分が乗ることはないと考えている。
「悪い、俺はもう……」
疲れ果てたのだ。
再びベッドに身を沈めた。
その時だった。インターフォンが鳴った。
「うん……?」
まだ早朝である。木乃香であるとも思えない。
どうせくだらない勧誘だろうと、無視することにした、が甘かった。今度は連打するようにフォンを鳴らしまくってきた。
「なんだよ⁉」
ベッドから跳ね起きると、ズボンをはいてシャツの袖に腕を通した。その間も呼び鈴はなり続けた。
「どこのどいつだ?」
いたずらの類だったら警察への通報も辞さない意思でダイニングのドアフォン機の前に来た。
「……はい、どちらさま?」
不快感を隠そうともしない声音だったが、返ってきたのは、
「あたし、あたし!」
聴いたことのない女の声だった。それも妙にテンションが高い。
「……? どちらさま?」
「だーかーらー! あーたーし!」
あたし、でわかるわけがない。とりあえず女性らしいことは判明したが。
え……? 誰……だ……?
口元を押さえて心当たりを探るが思い当たる人物は出てこない。そもそも女性の知り合い自体クラスメイト数人しかいない上、それほど親しい関係でもない。こんなラフな語り口の女などいるはずもない。
「あたしだって、つってんだろー! キャハハハ!」
「……」
頭のおかしい女がいたずらでもやっているのかと思索した。
「おーい、開けてくれー。おーばーときゅーん!」
「ッ!」
とりあえずこちらの名前は知っているようだ。
上等だ……!
詐欺や美人局の類なら容赦しないと、怒りを込めてフォンを切ると玄関ドアまで向かった。
謎の訪問者は。今度はドアを叩き始めていた。
武器になるものはないかとあたり見回すが箒が一本ある程度だった。
「おーい、おーい!」
訪問者の声は止まらない。覚悟を決めて鍵を外して、ドアを開いた。
「なんだ⁉」
怒声とともに開いたドアの先にいたのは、
「おーーーっす!」
「……え……?」
見覚えのある少女だった。
「っと邪魔するぜい」
凍りついている緒羽途の脇をすり抜けるように家の中に入っていく少女を目で追う。
「おおー! ここが木乃香さんちかぁ! でっけえなおい、びっくらこいたぞ」
「あ、あの……」
「はあ……こんないい家飛び出して、あんなちっぽけなマンションじゃお姉さまも大変じゃろうて、んもー。パパンがもちっとがんばって広い家買わないとねー。これから増えるかもだしねー。いやん! んもー!」
緒羽途の声にも反応しないで手帽子を作って家の内部を見回す少女は、まぎれもなく面識があるあの少女であった。
「ちょ、ちょっと……」
「にしても広いなーおい、こんなところあたし一人だった絶対いたくねえぞ。ってえ、失礼しやした、男の子はどーってことないんだろうなー」
「おい!」
ようやく少女がしゃべるのを止めた。キョトンとした目でこちらを見ている。
「き、君、確か……」
「おん?」
「おん、じゃなくて……く、栗駒地い……い……」
「おー! そうそう栗駒地入果ぞよ。イントネーションはイにおいてくれよな。カに置くと……水族館にいるあいつになっちまうからな! キャハハハ!」
開いた口がふさがなくなった。
「あ……ああ! わりーわりー! 説明がまだだったな。よいしょっと」
少女がゴソゴソとポケットを取り出すとなにかを取り出した。
「じゃじゃーん! 見たまえ緒羽途きゅん」
「え……?」
目の前に掲げられたのはなにかの用紙、そこに大きく、「合格」と記されている。
「あたし栗駒地入果は来月より、鴎凛高校のピッカピカの一年生になることが決定しましたー! いえーい! パチパチパチー!」
「え……? 鴎凛の……?」
「そそ! そんでもってー、パパンもね、ちょうど四月から札幌勤務になっちったのよこれが。ほんでー木乃香さんもついていけることになったから、今いる賃貸は引き払った方が得じゃん? マジで。でもそうなるとあたしっちの寝蔵がなくなっちまうんだわ、当たり前だけどー。はてさて、そこで思いついたのがこの妙案でーす! なんでしょー!」
「な……え……」
「そう! 木乃香さんの実家に居候させてもらおうって寸法よ! ここなら宿賃もかかんねえしなーウヒヒ、お得お得。ちゅうわけでー」
「チュウワケデ……?」
「今日からよろしく頼むぜ兄貴ー! ギャハハハハ‼」
眼前の少女は、緒羽途の思考力を超越した存在に見えた。理解不能の極致、宇宙人と会話している気にすらなった。なによりも、
「だ……だ……」
「だー?」
言いたいことは一つである。
「誰だよお前は⁉」
雲の上まで届く勢いの絶叫だった。
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