第5話:ライテル

聖グロワール王国、王城区。王城前の広場に生花が一面に敷き詰められ、祭壇には金の台座に聖火が爛々と燃え盛っている。その聖火を取り囲むように、人々が陽気に歌って踊っていた。

シェンジャ祭り。ザラスト教における聖なる炎に感謝を捧げる、年に一度の一大行事である。国王が聖なる炎に感謝を捧げ、国民たちの古くなった品物などを燃やして天に送り届ける儀式を終え、今は聖なる炎への感謝をたたえる歌と踊りを捧げる祭りを執り行っていた。国民たちは蓄えていたワインなどを開け、思い思いに自由な食事を楽しむ。食事の席では王城の者も市井の者とテーブルを囲み、会話を楽しんでいた。

楽器を奏で、歌い、踊る。この日は全ての店が休業となり、全員で祭りに参加する日だった。リフ・カーフィラもそれにならい、店を閉め、シェンジャ祭りに参加していた。現役の踊り子であるライテルは、人々を牽引するように国の踊り子たちと一緒に、聖火のそばで踊っている。セリンは近くの国民から踊り方を教えてもらっている。ユバと衛士は食卓につき、踊る2人を眺めながら国民たちとの対話を楽しんでいた。

「いやあ、リフ・カーフィラさんはさすがですな!!砂漠を越えてこのグロワールに紙を届けてくれる、貴重なキャラバンですよ!!」

ワインを開けて上機嫌になった国民が、ユバと衛士との対話を楽しんで機嫌よく笑う。

「通常、キャラバンは何十人も冒険者を雇って砂漠を越えますからね!それをたった4人で越えてしまうんですから、すごいことですよこれは!」

「ははは、ありがとうございます。おほめにあずかり光栄ですよ」

ワインを味わいながら衛士が笑う。ユバはそんな衛士の顔をちらりと眺める。衛士は先ほどからいくらかワインを飲んでいるが、全く酔う気配を見せない。ユバもたしなむ程度には酒を飲むが、これ以上飲むと眠くなってしまう。しかし衛士は平気な顔をして、国民たちとの酒の席に付き合っている。光煌人は全体的に酒に弱い国民性だと聞いていたが、衛士に関してはそれは当てはまらないようだった。ユバは少しうらやましいと感じた。

衛士はユバの視線を感じて、隣に座るユバに顔を向けた。

「ユバ君、眠いんじゃないかい?大丈夫かい?」

「い、いや、まだ眠くはない……」

ユバは自分でも薄々思っていたことを指摘されて、少し驚いて顔を赤くした。そしてつい「まだ」眠くはないと言ったことに関して、国民たちがニヤニヤした。

「おやおやあ?ユバさんはお酒が苦手かい?」

「酔うと眠くなる方だったり?」

「い、いえ、たしなむ程度には飲めるのですが……」

「ははは、勘弁してやってくださいよ。ユバ君もお酒は飲めますが、あまり飲むと眠くなるみたいで」

「へえー!!ユバさんいつもキリッとしてるから、眠そうな顔は貴重だね」

「スキだらけなユバさんは貴重だなあ」

「う、うう……恥ずかしい……」

自分が注目されて恥ずかしくなったのか、ユバは手で顔を扇ぎ始めた。衛士も国民たちもニコニコしている。衛士がそっと、恥ずかしさに丸くなるユバの背中を撫でた。

「ユバさん、けっこうかわいいところあるねえ!いつも本当にキリッとしててスキがない印象だから意外だよ」

「お酒飲んで眠くなっちゃうのか~かわいいなあ~」

「リフ・カーフィラのリーダーの意外な一面が見えたなあ」

「ユバさんはこれくらいにしとこうか。あとは紅茶でも飲んどこうな」

ユバが国民たちにもみくちゃに構われる。いろいろな人からかわいいかわいいと言われて、ユバはぐるぐると目を回した。あわあわと焦っている様子を見て、衛士はくすくすと笑っていた。

「まあまあ、その辺にしとけって。俺らがユバさんを酔いつぶしたら王子殿下に怒られそうだからな!ははは!!」

「?」

国民のひとりの言葉に、ユバと衛士は首をかしげた。

「王子殿下、ですか?」

「ん?ああそうだよ、リフ・カーフィラさんは知らなかったかい?

 この国の王子殿下は、リフ・カーフィラがお気に入りなんだよ。この間のスノーベアの事件も、王子殿下の耳に入ってな。リフ・カーフィラの活躍をたいそう気に入られたそうだ」

「石化事件の解決にも、リフ・カーフィラが一枚噛んでたってウワサだしな」

「いつか王子殿下からお声がかかるかもな!全く、すごいキャラバンだよアンタらは」

国民たちが笑いながらそう話す。ユバは眠気が吹き飛んだ顔で、その情報を頭に書き込んだ。その様子に、衛士がユバにそっと話した。

「王子殿下、か。いつかお話できたらいいね」

「……ああ、そうだな。王子殿下の耳に入るのは、光栄なことだ」

そう言って、ユバはひかえめに微笑んだ。


「あー楽しかった!!」

ひとしきり踊り終わったライテルとセリンが、ユバのそばに寄ってきた。ふたりともひとしきり体を動かして、スッキリと晴れやかな顔をしていた。

「おつかれさま。楽しかったようだな」

「ええ、みんなで踊るのは楽しいわね!!あーお料理美味しそう!私も何か食べたいわ」

「ああ、どうぞ。食べな食べな」

「おっ、リフ・カーフィラが勢ぞろいだな!席空けろ空けろー」

国民たちが席を空ける。ライテルとセリンは礼を言い、セリンが先に席に座った。その隣にライテルが座ろうとすると、後ろから声をかけられた。

「よォ、ライテルじゃねえか」

ライテルが振り返ると、そこには柄の悪そうな男たちが数名、ライテルを見て下品な笑みを浮かべていた。

「リフ・カーフィラでずいぶんご活躍のようだなあ」

「お前のような奴がリフ・カーフィラでご活躍たあ、いいご身分だなオイ。え?」

「なあ、俺らともアソぼうぜ。久しぶりに構い倒してやるよ」

「…………」

ライテルは身構えている。少し嫌そうな表情をしていた。セリンが止めようとすると、男のひとりがライテルの腕を掴んだ。

「オイ、なに渋ってんだよ。アソんでやる、っつってんだろ。来いよ」

そして、そのままライテルの腕を引っ張った。ライテルが抵抗すると、男たちはイライラしたようにその手を伸ばした。

すると、男たちはふと、手に違和感を覚えた。

「……ん?」

何やら、手が急に冷えた気がする。手元を見ると、自分の手が分厚い氷に包まれて、手が氷の塊になっていた。

「う、うわ?!」

「なんだこりゃ?!」

ライテルの腕を掴んだ手も氷の塊になっていた。ライテルがするりと、凍った手から腕を外して一歩下がる。男たちはやがて、足元から熱を感じた。男たちが足元を見ると、自分たちの足が燃えていた。肉の焼ける匂いが鼻を通りすぎる。男たちはぎょっとして慌てだした。

「うわ、うわわわわわ?!」

「あち、あちちちちちちちち?!」

男たちは突然発火した足の炎を、地面に擦り付けて消そうとする。しかし、消せども消せども、炎は消えない。それどころか炎は強くなる一方で、衣服に燃え移ってさらに広がっていく。男たちは慌てふためき、一目散に駆け出した。

「ひ、ひいいいいいいい!!」

男たちは水場を求めて、慌ててその場を去っていった。


「……なんだったの、あれ」

セリンが呆れたようにため息をつく。それを見ていた国民たちも、やれやれといった様子で息を吐いた。

「全く、今時あんなのがいるんだな」

「リフ・カーフィラを怒らせるからああなるんだよ」

「それにしても、今のはなんだったんだ?」

「バカヤロウ、フラワシの魔法だよ。リフ・カーフィラにはフラワシがいるって知らなかったか?」

「ふ、フラワシ?!そ、そうなのか……!!」

フラワシの魔法をこの目で見た。人々が興奮でざわめく。フラワシの魔法は滅多に見られない奇跡だ。すごいものを見てしまった、と人々はだんだん喜びはじめた。

「ライテル、怪我はないか」

何食わぬ顔をして、ユバがライテルに声をかける。ライテルはにかっと笑った。

「おう、大丈夫!ありがとな、ユバ」

「知り合いだったの?」

セリンが聞くと、ライテルは肩をすくめた。

「ちょっとな。昔のガラの悪いお客みたいなもん」

「ふうん……?」

セリンは不思議そうな顔をする。衛士はそんなライテルの様子をじっと見ていた。



シェンジャ祭りは大きな犯罪もなく、無事に終了を迎えた。

数日後の朝。今日はバザールも休みの日。ユバがリビングにやってくると、3人に小切手を差し出した。

「おつかれさま。今週の給金だ」

「おっ!サンキュ!」

「ありがとう!」

「ああ、ありがとう」

3人それぞれ小切手を受け取り、財布に仕舞う。ライテルはさっそく、身支度をはじめた。

「じゃあ、銀行行ってくるな!」

「ああ、いってらっしゃい」

「いってらっしゃーい」

軽く貴重品だけを持ち、ライテルが借家を出ていく。その背中を見送って、衛士はふむ、と声を漏らした。

「ユバ君。これは聞いていいのかどうかわからないんだけれど」

「どうした?」

ユバが衛士を見上げる。衛士は聞いていいのか少しためらいながら言った。

「ライテル君はどうして、リフ・カーフィラに入ったんだい?そういえば彼のこと、あまり聞かないなと思ってね」

「あっ!それ!私も知りたい!!」

セリンが身を乗り出した。

「私が入った頃には、もうライテルがいたもの。今までなんとなく一緒にいたけれど、そもそもライテルってどういう人なの?」

「俺に勉強を教えてくれと頼んだ時には、自分には学がないからと言っていたけれど……そういう事情って、聞いてもいいものかな」

ふたりのリクエストを聞き、ユバは頷いた。

「……そうだな。ライテルもとくに隠してはいないと言っていた。ふたりになら、話してもいいだろう。

 話せば少し長くなるが、ライテルは銀行で手続きをするから、戻るまで少しかかる。セリン、お茶を頼めるか」

「ええ、わかったわ」

セリンが台所でハーブティーを淹れる。衛士も軽く茶菓子を用意し、3人でリビングの席に座った。


「……このリフ・カーフィラは、はじめは私ひとりで活動していた。

 最初は、スールエとグロワールを行き来していた。ある程度の資金ができると、グロワールから清蘭へ、砂漠を越えるようになった。

 ライテルとは、その時に出会った―――」



大清蘭王国からの紙を積み、ラクダを率いて砂漠を越える。もう少しで、グロワールの城壁が見えてくる。砂漠ももう、終わりに差しかかっていた。

そんな時、戦闘の気配を感じた。視界の先、地平線のそばに、魔物がたかっているように見えた。そこまで向かっていくと、それは巨大なサソリの魔物の群れだった。砂の色をしたサソリたちが1箇所にたかっていた。そのサソリたちの足の間に、人の手が見えた。まだ生きている、または死んで間もない、干からびていない人間の手だった。

ユバは咄嗟に、左手を振りかざした。サソリたちが一瞬で凍り付き、氷の塊の中に封じ込められる。そのままパチンと指を鳴らすと、バキリと音を立てて氷が砕け、その氷ごとサソリたちの体も砕けていった。その時雇っていた冒険者たちに指示を出し、倒れている人間の様子を見に行かせた。冒険者たちがその人物に駆け寄る。ユバはラクダを落ち着かせるため、ゆっくり歩いてその人物のもとまで近寄った。

近寄ると、それは踊り子のような衣装を纏った、美しい顔立ちの青年だった。踊り子のようだが、衣装はボロボロで質の悪いものだった。両手に短剣を装備していたようで、冒険者たちがそれを腰の鞘に納める。冒険者たちが報告した。

「大怪我をしていますが、まだ生きています。サソリ毒が回っていたので、解毒剤を使用しました」

「出血が多いですが、命に関わる怪我もありません。安静にしていれば、回復するでしょう」

「ありがとうございます。彼を連れて帰りましょう。国に着いたら、この方を病院へ搬送してください」

「わかりました」

ユバは青年に歩み寄った。たしかに、かなり出血している。ここは砂漠だ、このままではすぐに干からびてしまうだろう。

ユバは青年に左手をかざした。手から淡い光が発し、そのまま光が青年の身を包み込む。見る間に傷が塞がっていき、出血も収まった。冒険者たちが唸った。

「やはり、ユバさんは強いフラワシ様ですね。攻撃魔法も治癒の魔法も使える、占いもできる。こんなフラワシは滅多にいませんよ」

「ふふ、ありがとうございます。彼を荷車の中へ。寝かせてやってください」

「わかりました」

冒険者たちが青年を運び、荷車の空いているスペースにそっと寝かせた。ユバはラクダを率いて、グロワールへ向かっていった。


国に着くと、門番に怪我人がいることを伝え、病院への搬送を手配する。青年は病院へ運ばれていき、ユバは商品の納品を終えて冒険者たちに報酬を支払った。そのまま病院へ向かい、青年の治療費をリフ・カーフィラから支払った。青年は少し入院していれば回復すると伺い、あとは病院に任せることにした。


数日後。夕方、バザールを閉める準備をしていると、ひとりの人影がバザールを訪れた。ユバが顔をあげると、それは砂漠で助けた、あの踊り子の青年だった。相変わらずぼろきれのような衣装を着ていた。

「やっと見つけた。あんたが、ユバだな」

「……いかにも、私がユバだ。体はもう大丈夫なのか」

「おかげさまで、今まででいちばん調子いいぜ」

青年は人の良い笑顔を浮かべた。しかしその目は、油断なくユバを見ていた。彼の白い腕には、先の戦闘のものではない傷の跡がいくつもあった。衣装で肌を見せる踊り子の体にしては、ずいぶん痛々しい。ユバはさり気なく、彼を観察した。

「治療費についても、礼は言うよ。でも、なんでわざわざ治療費を負担した?そのまま放っときゃよかったのに」

ユバは商品の整理を終え、木箱の蓋を閉めた。

「私の気まぐれだ。商人は縁を大事にする、これも何かの縁だろうと思ってな」

「ふうん。まあそれはいいけど、オレとしては、このまま借りを作るわけにはいかねーのよ」

「……というと?」

ユバは彼の言葉、その声色から感情を読み取った。彼は少し、こちらを警戒しているようだった。様子を伺っているように思えた。青年は言った。

「治療費分の借りを返すぜ。何がほしい?踊りか、それとも体か?」

青年はまっすぐ、ユバを見ていた。ユバは少し考えて、言った。

「……なるほど。では、2つもらおうか」

「2つ?なに?」

ユバもまた、まっすぐ青年を見上げた。

「ひとつ、君の話を聞かせてほしい。君の今までの人生、困っていること、いわゆる身の上話だ。それを、ゆっくり聞かせてほしい。

 もうひとつ、人手がほしい。君さえよければ、このキャラバンで働いてほしい」

青年は、虚をつかれたような顔をした。

「……そんなんでいいのか?たしかに、アンタのキャラバンは砂漠を越えるけど……」

「ああ、その通りだ。砂漠を越えるには人手が要る、キャラバンに入隊してもらえれば、こちらとしてはとても助かる。

 君はそれを対価と言うが、私からはきちんと給金を支払おう。給金は、これでいかがだろうか」

ユバは報酬の金額をさっとメモに書いて渡した。青年はその額に目を見張った。

「……治療費とは別に、この額の給金を出すってのか?頭イカれてんじゃねえ?」

「ふふ、それでも構わない。治療費の対価は、君から聞く君自身の話で手を打とう。

 いかがだろうか、なかなかない話だと思うが」

青年はしばらく、ユバの目を見ていた。ユバは自信たっぷりに、かけらの二言もない様子でまっすぐ青年を見ていた。

青年はしばらく考えた。そして、ふっと不敵に笑った。

「……後悔するなよ?寝首かかれても知らねーぞ?」

「そのような心配はしていないさ」

「へっ、わかったよ。その話、乗ってやる。

 オレはライテル、グロワールの踊り子だ」

「ああ、ありがとう。改めて、私はユバ。よろしく頼む」

青年、ライテルとユバは、互いに握手を交わした。


翌日、バザールは休日だった。その日、ライテルとユバは正式に契約を結んだ。

借家に入って、ライテルは驚いた。小さな借家には、2人分の席と部屋が用意され、自分にあてがわれた綺麗な部屋にはふかふかのベッドが設置されていた。ベッドの上には、綺麗に畳まれた衣服があった。グロワールでは一般的な衣服だが、ライテルの着ているものよりはずっといいものだった。その服は支給しよう、とユバが言うと、ライテルは驚きを隠さなかった。

「君はこれから商人としてお客様の前に立つのだ、身だしなみは整えるべきだろう。

 それに、これからうちで働いてもらうのだ。環境を整えるのは経営者として当然だろう」

ユバは平然とそう言ったが、ライテルは少し戸惑っているようだった。ふかふかのベッドと手触りのいい衣服を手で触って、現実味がない顔をしていた。

「まあ、とりあえず着替えてくれ。身支度を整えたら、君の話を聞かせてほしい」

ユバはそう言うと、ライテルの部屋を出た。リビングで紅茶を淹れて待っていると、ほどなくして着替えたライテルが戸惑った顔をしながら戻ってきた。

「ああ、おかえり。やはりよく似合っている。サイズはきちんと合っているか?」

「あ、ああ……大丈夫」

「そうか、ならばよかった。さあ、座ってくれ」

ライテルはおずおずと席に座る。ライテルに紅茶を差し出すと、彼は調子が狂ったような表情で紅茶を口にした。

「……美味しい……」

「ふふ、私は紅茶を淹れる腕はあまりないが、そう言ってくれるのならよかった」

ユバはどこかうれしそうに微笑んだ。ライテルの視線が、なんなんだこいつ、と言っていた。

「……それで?オレのことを話せばいい、って言ってたけど、何から話せばいい?」

そう聞くと、ユバは考えた。

「そうだな……まず、ライテルはグロワールの民か?」

「ああ、そうだよ。生まれも育ちもグロワール。……リリ地区だよ」

「ふむ……」

ライテルは少しためらって、出身地区を答えた。ユバはなるほど、と頷いた。リリ地区は、いわゆる貧民街だ。グロワールは教育格差による貧富の差が激しい国だ。今までのライテルの服装から見ても、あまり裕福な様子ではないようだとユバは感じた。

その気配を察したのか、ライテルは話を続けた。

「……オレには親と、姉がいる。けど、姉さんは昔から病気がちで、まともに働くことができない。

 産みの父親は病死した。母さんは食べていくために、経済力のある男と結婚したけど、そいつがハズレだった。

 再婚する前はいい男を演じていたけど、結婚してから豹変して、酒と暴力に溺れるようになった。

 家族みんな、そいつにボコボコにされた。姉さんは生きているのがやっとになって、父親が働かないから母さんが働いた」

ライテルは戸惑いながら話した。ユバの目には、彼は自分も意図していないほどスラスラと言葉が出てきているように思えた。

「けど、母さんはちゃんとした教育を受けていないから、稼げる仕事に就けなかった。だから、残ったオレが働くしかなかった。

 とはいえ、オレも実科学校の出だから、そのままじゃ家族が食べていけるほどは稼げない。

 幸いオレは踊りができるけど、それだけじゃ足りなかった。あの男が酒代に全部つぎ込んじまうから。

 だから、ギルドの依頼をこなすことにした。ギルドの依頼は危険もあったけど、その分報酬が高かったから」

ユバは真剣に話を聞き、相槌を打っていた。ボロボロの衣装をずっと着ていたのも、衣装にお金を回す余裕がなかったからなのだろう。

「最初はうまくいってたんだけどさ。……あの時は、油断した。

 サソリを仕留めてサソリ毒を持ち帰るって依頼だったけど……さすがに難しかったみたいだ。オレ、そんなに強くないから」

それでお前に拾われたってわけ。ライテルは投げ捨てるようにそう言った。

「……そうだったか……ずいぶんと苦労をしたな」

「リリ地区の人間は、みんなそんなもんだよ。生まれた時から、ある程度の身分は決まってるんだ」

「そうか……話してくれて感謝する。……君は、優しい人だな」

「ん?」

ユバはそう言って微笑んだ。ライテルは怪訝そうにユバを見た。

「お母様とお姉様のために、一生懸命働いている。君はとても家族思いで、優しい人だ」

「…………」

ライテルは虚をつかれたような顔をした。そしてすぐに、取り繕うように言った。

「別に、そういうのじゃないし。オレのためだ。自分で生きていかないと、やっていけないから」

「ふふ、そうか」

ユバは微笑んで、それ以上は突っ込まなかった。本当に自分のために生きようと思うなら、さっさと家を出るはずなのだ。それでも家を出ることなく、稼いだお金を家に入れている。それが家族思いでなくて何なのだろうとユバは思ったが、口には出さないでおいた。

ユバはふと、ライテルの体の傷跡を思い出した。戦闘ではつかないようなつき方をした傷だった。

「……君は美しいのに、体が少し傷ついているようだ。戦闘以外にも、何か危険なことをしていたのか?」

「へ?」

ライテルはきょとんとした顔をした。ユバが腕などを手で指すと、ライテルはああ、と声を漏らした。

「これは、ちょっと前のお客さんにな。あんまり稼げない時は、体を売ったから」

「……そうか」

ライテルは何事もないような調子で言った。その様子に、ユバの心がちくりと痛んだ。彼はまだ若いのに、それだけの苦労をして生きてきたのだ。ユバは一口、紅茶を飲んだ。

「ありがとう。事情はわかった。

 今日から君は、このキャラバン『リフ・カーフィラ』の仲間だ。困ったことがあれば、いつでも話してくれ」

「……りょーかい」

「話してくれて感謝する。今日は休日だが、明日の営業に備えてひととおりの仕事を教えよう。

 わからないことがあれば、いつでも確認してくれ」

「わかった」

ユバはそのまま、ライテルに仕事を教えた。主な取引先、扱っている商品についてなどを頭に入れてもらうように言った。ライテルは学こそないが、地頭はいいようだった。商品の使い方やセールスポイントなどをすぐに覚えて、言えるようになった。ユバは安心して、ライテルに仕事を教えた。


+++


そこまで話して、ユバは一息ついてハーブティーを口にした。

「……そうだったの……」

「彼はずいぶん、苦労をしたみたいだね」

「ああ。出会った時に着ていた衣装も、まだ大事に保管しているようだ」

「そうか……彼にとっては、大事なものなのかもね」

衛士の言葉にユバが頷くと、玄関の扉が開いた。

「たーだいまー」

ライテルが帰ってきた。おかえりなさい、とセリンが手を振る。ライテルは首をかしげた。

「なになに、なんか喋ってたの?」

「やあ、おかえり。すまないね、俺から頼んで、君のことを聞かせてもらっていたんだ」

「オレ?」

ライテルは首をかしげた。

「私と君が出会った頃のことをな。君はとくに隠すこともないと言っていたから、話してしまった」

「ああー、なるほど。いいよ、大丈夫。ホントに隠してないから」

「じゃあせっかくだし、ご本人の口から聞きたいわ」

「セリンちゃん遠慮なくいくね……」

衛士が苦笑する。ライテルはいいよいいよと笑った。

「なつかしいなあ、オレ最初はユバのこと変人だと思ってたからな」

「そうなのか?」

「あれは変人だろ?人手がほしいはわかるけど、話が聞きたいは意味わかんなかったよ。

 おまけに労働にはちゃんと報酬払うまで言ってさ、あの時も言ったけど、頭イカれてんじゃないのって思った」

「ふふ、たしかに言われたな」

セリンがライテルの分のハーブティーを用意する。ライテルが席に座ると、うれしそうにへへっと笑った。

「でもさ、後から聞いたら納得だったよ。

 ユバは占いができるだろ?占いができるフラワシって、普通の人間が気付かないちょっとしたことにも、『運命』を感じる時があるんだってさ」

「運命?」

「ああ、たしかに」

ユバは微笑んだ。

「ライテルを初めて見た時に感じたのだ。『この人との縁はつなぎ止めなければならない』と。

 ごくまれに、そう感じることがあるのだ。セリンと衛士さんにも、同じように感じた。だから、リフ・カーフィラに入らないかと誘ったのだ」

「あら、そうだったのね」

「なるほど。たしかに、この4人で揃ったのは偶然とは思えないというか、何かのお導きを感じるね」

「そういうことらしいぜ。あの時ユバが出した報酬も、そこらのギルドの依頼より高額でびっくりしたけど、今思えばそういうことだったんだよな」

「ふふ、そうだな」

ライテルが茶菓子をつまむ。セリンが興味深そうに聞いた。

「ねえねえ、じゃあリフ・カーフィラに入ったばかりの頃のライテルって、今の仕事のこと、どう思ってたの?

 せっかくだし、ご本人の口から聞きたいわ」

「無理にとは言わないけれど、よければ聞かせてくれるかな」

「ああ、いいよ。そうだなあ……」

ライテルは快く頷いた。そして、ハーブティーを飲みながら話し出した。


+++


こんなに給金が高いのに、どうしてこんなに仕事が簡単なのだろう。ライテルは疑問を隠せなかった。

たしかに、数多くの商品の特長やポイントを押さえるのは少し労力が要るし、写真機などの精密機器や高価な品物を扱う時は慎重さも要する。しかし、体を売った時のような痛みもなければ、踊り子として踊っていた時の観客の舐め回すような視線もない。商品の入った木箱を運ぶのも力仕事だが、一般的な男性なら持てる範囲内だ。むしろ小柄で筋力もあまりなさそうなユバが持てる範囲内でまとめられているので、ライテルにはとても軽い荷物だった。これといった苦痛もなく、衣食住も保障されている。どうしてこんなにいい環境で働けているのか、甚だ疑問だった。

ライテルはしばらく、警戒心を手放せなかった。もしかしたら、こいつもまた豹変するのかもしれない。あの父親のように、最初はいい顔しておいて、後から「借りを返せ」と言わんばかりに恐喝や暴力を振るわれるかもしれない。こちらは金をもらっている身である以上、おそらく逆らえないだろう。そう思うと、「金をもらう立場」である自分の無力さが歯がゆかった。

しかし、警戒すれどもすれども、ライテルの心配は杞憂に終わるばかりだった。ユバは全くこちらに攻撃する様子を見せないし、仕事を間違えても「私の説明が足りなかった」として、言葉を尽くして仕事を指導した。暴力や暴言を振るうことも決してなかったし、誰かの陰口を言うようなこともなかった。グロワールにいる間は、実家のあるライテルは仕事が終われば借家で過ごすか実家で過ごすか選ぶことができた。ライテルは実家に帰れば父親の暴力が待っている、その分母と姉が犠牲になってしまうと思うと心が痛かったが、どうしても実家に帰るのが怖くて、ずっと借家で過ごした。借家ではユバとライテルが交代で食事を作り、ふたりで食べて生活した。食卓でのユバは「あのお客様はすてきな人だった」「今日のあの方はとても明るい方だった」といつも機嫌がよく、ライテルが食事を作れば美味しそうに食べた。いくら様子を見てもユバはこちらに襲いかかることもなく、ライテルは次第に警戒心を手放すようになった。


キャラバンに入隊してしばらく経ったある日。もうすぐグロワールを発って、清蘭に向かう準備をしていたところだった。

借家に、1通の郵便が届いた。ライテル宛の親展郵便。差出人は、グロワールの大きな病院からだった。

「……?」

ポストから手紙を受け取ったライテルは、覚えのない封筒を訝しげに見て、封を開けた。自分が入院した時の治療費だろうか。それはリフ・カーフィラから支払われたと、たしかに病院から言われたはずだが。開封して中身を見ると、ライテルはさっと顔を青くした。

『入院費の御請求について』

書類には、ライテルの母と姉の名前。母は過労と暴力による肉体的疲労により職場で倒れて緊急搬送、姉は父親から「働け、金を持ってこい」と家から追い出され、そのまま病状が悪化し道端で倒れていたところを運ばれたという。母も姉もひどく殴り蹴られた跡があり、息も絶え絶えの状態で、早急に治療が必要とのことだった。

そして、そのために、250万リュースもの大金が必要であることも記されていた。グロワールの病院は、治療費を払えない者の治療は行わない。すべての国民を平等に治療するわけではないのだ。期限は今週末、あと6日。それまでに治療費を払わなければ、今度こそふたりの命はないだろう。その時のライテルは医療保険という存在を知らず、保険に入っていなかった。存在を知っていても、その時はリフ・カーフィラでの給金も父親に全て奪われており、貯金もない状態だった。保険に割ける金もなかっただろうと今なら思う。今すぐに大金が必要だ。しかし、それを手に入れるアテが、どこにもなかった。一瞬、リフ・カーフィラの金を横領することも考えたが、リフ・カーフィラの通帳や預金の管理はユバが厳重に行っており、どうしているのかわからない。リフ・カーフィラの口座から金を取ることもできない。ライテルは目の前が真っ暗になる心地を覚えた。

「どうした?」

様子が気になったらしいユバがライテルの顔を覗き込んだ。ライテルは慌てて書類を隠して、笑った。

「い、いや、なんでもない!!」

「……?そうか。何かあれば、いつでも言うといい」

ユバはそれ以上、深くは聞かなかった。ライテルはそのまま逃げるように部屋に入ると、手にした書類に頭を抱えた。どうする。大金のアテはどこにもない。あと6日で、この金額を用意できなければ……

ライテルはふと、カレンダーを見た。そうだ。明日はバザールも休みだ。今からギルドに行って依頼を見てきて、報酬を計算すれば、あるいは……

その日のリフ・カーフィラの営業はもう終わっていた。ライテルはユバに外出を告げる余裕もなく、借家を飛び出した。

夕暮れの中、まっすぐギルドへ駆け込む。壁に貼られた依頼を見に行くと、高額な依頼がいくつか目についた。山のふもとに住む蜘蛛の怪物フォロートラムの退治およびその目の採取、報酬100万リュース。ネージュ雪原のスノーゴーレムの退治およびその先の領域の見聞、報酬70万リュース。船を襲う触手の怪物エトゥーの退治、報酬80万リュース。それぞれ報酬金の他に、冒険者に必要なアイテムなどが報酬として書かれていた。この3つの依頼をこなしてアイテムを売れば、なんとか帳尻を合わせられるだろう。残り6日だが、リフ・カーフィラが休みの時にしか動けないとしたら、実質あと2日ほどしかない。休んでいる暇はなかった。ライテルは依頼状を剥がし、すぐに山へ向かっていった。もう夜になってしまうが、構ってはいられなかった。家族が死ぬか、自分も死んで共倒れになるかの二択だった。

森を抜けて、山に入っていく。依頼状に書かれた蜘蛛の怪物の出現場所まで歩を進めると、木の上から目の前にいきなり、巨大な影が音もなく降り立った。

それは無数の赤い目を丸い頭に張り巡らせ、16本の脚で巨体を支える黒い蜘蛛だった。甲虫のような大きな顎は月明かりを受けて鈍く輝き、牙を広げてライテルに威嚇する。その周りからざわざわと、何かが大量にうごめく気配を感じる。周りの木々をよく見ると、脚を含めた直径30㎝ほどの「子蜘蛛」たちが無数に現れ、こちらに狙いを定めているようだった。

自分に敵うだろうか。ライテルは冷や汗をかきながら、両手に短剣を手に取る。自分がそれほど強くないという自覚はある。踊り子故に素早く動くことはできるが、攻撃力はあまりないのだ。でも、やらなければ仕方ない。できなければ死ぬしかないのだ。それがリリ地区に生まれた「持たざる者」の宿命、常に生きるか死ぬかの世界なのだ。怪物フォロートラムがものすごい速さで迫ってくる。ライテルは駆け出した。

フォロートラムは大きく開いた口から糸玉を発射する。ライテルは横っ飛びに避けた。糸玉は地面にべちゃりとまとわりつき、ねばねばとした光沢を放つ。あれに触れれば、動けなくなるだろう。

ライテルは足元にいた子蜘蛛を一匹、避けた拍子に踏みつぶす。ぶちゅり、足の裏から虫のつぶれる感触がした。それと同時に、周囲にいた子蜘蛛たちがライテルの足にまとわりついてくる。やや重さのあるその1体1体が動きを封じるように塊になってまとわりつき、ライテルの動きを封じてきた。

「うわ、くっそ、この、」

足が動かなくなり、ライテルは短剣で足にまとわりついた子蜘蛛を払っていく。子蜘蛛を斬るたび斬るたび、短剣に子蜘蛛の体液がへばりついて、だんだん切れなくなっていく。ライテルははっとした。これは、子蜘蛛がまとわりつくから足が動かないのではない。踏みつぶした子蜘蛛に粘着成分があるから、足がくっついてしまっているのだ!

ライテルは顔を青くした。子蜘蛛たちはもう両足と腰まで覆い尽くしている。短剣はもう使い物にならない。フォロートラムは大顎を開いてこちらに迫ってくる。

(……ここまでか)

死期を悟った。運は自分に向かなかった。主神は自分を助けなかった。やはり、金のない者、「持たざる者」は死すべき運命なのだ。この世は裕福な者が勝つ。金のある者が生き残る。金のない者は、ただ食い物にされて、最期は空しく死ぬばかりなのだ。フォロートラムの大顎が、自分の首を狩ろうとする。この気色の悪い蜘蛛が、オレの死か。味気ない人生だったが、せめて死後は、幸せになりたい―――

諦めて目を閉じようとした時、ちりり、と熱が頬を掠めた。そして次の瞬間、轟音とともに巨大な火柱がフォロートラムの体を貫いた。巨大な蜘蛛がのたうち回り、悲鳴をあげる。子蜘蛛たちは炎を恐れて一目散に去っていく。ライテルの体に無数にまとわりついていた子蜘蛛たちも、一瞬で姿を消した。貼り付いてしまった靴を脱ぎ、距離をとる。フォロートラムは灼熱の炎に焼かれ断末魔の悲鳴をあげ、やがて炎がおさまるとぶすぶすと煙をあげて絶命した。

唖然としていたライテルは、不意に後ろから腕を掴まれた。

「ライテル、すぐ逃げるぞ!」

「ユバ?!」

それはユバだった。ユバはライテルの腕を掴み、すぐにここから離れようとする。

「で、でも、こいつの目をとらないと」

「フォロートラムの目は専門の冒険者にしか取ることができない!我々がやっても大怪我をするだけだ!

 子蜘蛛が援軍を呼んだ、このあたりはしばらく子蜘蛛だらけになる。捕まる前に逃げるぞ!」

そうしてユバは、ライテルの腕を引いてその場から逃げるように駆け出した。ライテルも片方裸足のまま、引かれるままに駆けて行った。


借家に戻ると、ユバはため息をついた。

「……まずは、君が無事でよかった。怪我はないか」

「あ、ああ、なんとか……

 ……ユバ、なんでわかったんだ?」

ライテルは恐る恐る、疑問をぶつけた。ユバは困ったような顔をした。

「先ほどの魔法を見てわかっただろうが、私はフラワシだ。占いも少しばかりできるのでな、妙な気配を察知して、占ってみた結果と、あと君の部屋にあった書類を勝手に拝見してしまってな」

「…………」

ライテルは俯いた。ユバはその顔を見て、ふっと笑った。

「何かあればいつでも言うといい、と言っただろう。お母様とお姉様に命の危険が迫っていると思って、焦ってしまったのだな。

 だが、心配はいらない。このケースなら、こちらで大金を用意せずともおふたりが助かる方法はある」

「……えっ?」

ライテルは顔をあげた。ユバはライテルに届いた書類を取り出した。

「この書類、診断書がついている。これによれば、お母様は過労、お姉様はご病気もあるが、おふたりとも父親による暴力が生命に危険を及ぼしていることがはっきりと記されている。

 この記述があれば、弁護士を立てて裁判をおこせばまず勝てる。治療費を父親に負担させ、ついでに離婚手続きをして、お母様とお姉様を父親から遠ざける手配をすることも可能だ。

 裁判という手を使わずとも、この診断書を使って所定の手続きを踏めば、お母様とお姉様は国が保護してくれる。幸い、グロワールは他国よりも国民の生活保障に関する法整備が進んでいる国だ。無理に危険を冒さずとも、おふたりを助ける手段はちゃんとある」

「……そうなのか?」

「ああ、何も心配はいらない。1枚目にいきなり請求書が入っていたから驚いてしまったのだと思うが、よく読めば、どうすればいいかきちんと書かれている。

 こういう時は、迷ったら各地の役所にまず相談するといい。国には国民を守る制度がたくさんある、相談すればそれらの制度をきちんと紹介してくれる。

 支払期限が迫っているが、明日役所で相談のうえ手続きをすれば、まずこちらが払うことはないだろう。安心するといい」

ライテルは呆気にとられた。無理に危険を冒さずとも、ふたりが助かる手段はある。自分が焦ったのは、何だったのだろう。余計な苦労だったのだろうか。死ぬ覚悟をしてフォロートラムに挑んだのが、とんだ無駄足のように思えた。思わず脱力して、床にへたり込んだ。

「……はあ……」

「……いきなりこのような書類がきて、驚いてしまったな。大丈夫、ライテルもご家族のおふたりも、何も悪いことはしていないのだ。そういう人には、国がきちんとサポートをしてくれる。

 ……今後は、相談してほしい」

「……わかった……」

ユバがライテルの背中をさする。ライテルは、自分の学のなさが悔しくてたまらなかった。知識があれば、生きるための知識さえあれば、こんな危険を冒さずに済んだのだ。自分には学がない、だからこうして金や学のある者に支配されるのだ。本当の意味で自由になるには、やはり金や力が必要なのだ。ライテルはがっくりと気持ちを落ち込ませた。

「ともかく、今日はもう遅い。ゆっくり休んで、明日役所に行こう。体も汚れている、風呂に入るといい」

ユバは立ち上がって、部屋に戻っていく。ライテルものろのろと立ち上がり、身支度をした。


その後、ライテルはユバに教わりながら役所で手続きを踏み、母と姉の保護を申請した。裁判手続きを案内され、すぐに弁護士が用意された。裁判費用も一旦はリフ・カーフィラが支払ったが、裁判の結果が出ると費用は父親負担となった。もっとも、酒に溺れた父親に支払い能力はなかったため、父親は傷害罪で刑務所に入り、治療費等は国が立て替えてくれた。父親は刑務所で罪を償うという形で、国に借金を返済することとなった。母と姉は退院後、国が用意した住居に住むこととなり、そこにライテルの仕送りが入れば安定した暮らしができる見込みとなった。もう父親の暴力に怯えなくていいし、酒代に稼ぎを奪われることもない。母と姉の見舞いに行くと、ユバは彼女たちに手厚く感謝された。母も姉も体中に痛々しい傷跡があったが、ようやく訪れた平穏を喜び、心から笑顔を浮かべていた。


+++


「……まあ、そんな感じ。今はふたりとも、国が用意した家でのんびり暮らしてるよ」

「……そうだったの……」

ライテルはハーブティーを一口飲んだ。レモンの香りがすっと広がる爽やかな味わいで、ライテルは「美味しい」と笑った。

「学がほしいと言っていたのは、そういうことだったんだね。たしかに、生きるための知恵や知識は、知らない人はとことん知ることができない場所にあるからね」

「うん。オレ頭が悪いから、そういう上手い立ち回りっていうの?ができなくてさ。そのまま行ってたら、死んでたと思うな」

「そうなのね……でも、お母様とお姉様が今もご無事でよかったわ。今は顔を出さなくていいの?」

「これでも、休みの時にちょくちょく行ってるよ。王城区からはちょっと遠いから、1日がかりだけど」

「大切な家族水入らずの時間だ、休みの時は遠慮せず行っておいで。ご家族も、その方が喜ぶだろう」

「そうそう、なんだったらお土産でも持って行ったら?私作るわよ?ゴマ団子とか」

「あっいいなあゴマ団子。じゃあ今度の休みに家に行くから、余裕あったら作ってよ」

「まっかせて!というか、私もお会いしたいわ。お姉様のご病気も、何かお役に立てることがあるかもしれないし」

「そうだね、セリンちゃんは薬師の免許を持っているから、何かわかることがあるかもね」

「では、今度4人でお見舞いに伺おうか。あまり大人数で行ってご迷惑になるようなら、ライテルとセリンだけでも行ってくるといい」

「あはは!ふたりとも賑やかなの好きだから、歓迎すると思うよ。いっぱい喋ってやって」

ライテルはそう言ってケラケラと笑った。悩みから解放されたようなその笑顔に、衛士はふっと微笑んだ。

「さて、そろそろ食材を買ってこなければ。ライテル、さっき出かけてきたなら、ついでに付き合ってくれ」

「ほーい。ふたりとも、なんかほしいのある?」

「はーい!私トースト用のチーズがほしいでーす!!」

「俺はそうだなあ、いい魚があれば食べたいねえ」

「わかった。ふたりはどうする?人手は2人で足りると思うが」

「私は今日お休みだし、ゆっくりショッピングでもしたいわ。衛士さん、よかったら一緒に行かない?」

「おや、いいのかい?じゃあ、お供しようかな」

「わかった、いってらっしゃい。では、私とライテルは先に行く」

「はーい!」

「いってらっしゃい」

ユバとライテルは軽く身支度を整え、借家を出ていった。その背中を、衛士はじっと見送っていた。

「……ライテルも、けっこう苦労してたのね」

その様子を見て、セリンがそっと声をかける。衛士も、そっと頷いた。

「そうだね。今は穏やかに暮らせているようだけれど……」

衛士は一口、お茶を飲んだ。

「……教え子が苦労しているのを見るのは、少し心が痛いね」

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