第3話:ギルバートおじちゃん

「220リュースのお返しです。ありがとうございます!」

セリンがお釣りと商品のメモ帳を渡すと、お客もまたうれしそうに笑った。

「いやあ、本当に助かったよ!日頃のインスピレーションを書き留めるには、紙が欠かせないからね」

「たくさん使ってくださいね!」

「ありがとう!また来るよ!!」

お客は礼を言って、バザールを後にした。

王城区市場は今日も賑わっている。大通り沿いに綺麗に並ぶカラフルな建物の前に、布の屋根を張り、カウンターを並べて、商品を売る。各地からやってきたキャラバンが軒を連ねて商品のやりとりをする様は、町の、ひいては国の賑わいを象徴するものだった。異国の食材、衣服、書籍、文具雑貨に小型の機械。キャラバンはあらゆるものを取り扱うが、交易できる範囲によってラインナップは様々だった。

店の奥から、ユバが商品の入った木箱を運んでくる。そこから各種紙製品を取り出して、カウンターに並べていく。レターセット、ノート、メモ帳、原稿用紙、方眼紙、レポート用紙。年末も近いので、来年のカレンダーもラインナップに並んだ。

リフ・カーフィラは清蘭や光煌から仕入れた紙製品を中心に販売していたが、印刷技術が進んで慢性的な紙不足に陥っているグロワールの需要にぴったりと当てはまり、売れ行きは好調だった。グロワールでは印刷に紙が割かれ、一般人に紙がなかなか出回らなくなっていた。紙は貴重で高価なものとなり、学業に勤しむ子供や作家を営む者に深刻な打撃を与えていた。清蘭で買えば安価な清蘭紙も、グロワールでは2倍から3倍以上の値がつく。キャラバンにとって紙は狙いどころだが、両国を隔てる広大な砂漠には強力な魔物が出現するため、紙を安定して持ち帰れるキャラバンは限られていた。中でもリフ・カーフィラは、いたずらに値段を吊り上げることなく、原価に諸費用と利益を上乗せしただけの一般的な価格で販売しているので、顧客から非常に重宝された。リーダーのユバからすれば「適切な価格で提供しているだけ」なのだが、それができるキャラバンが、今ではリフ・カーフィラしかいなくなってしまったのだった。

商品の陳列をしながら、ライテルがうれしそうに笑う。

「今日もよく売れてんな!」

「そうね、やっぱり紙がよく売れるわね」

「紙不足が本当に顕著だねえ。国の人も本当にお困りなんだろうね」

「紙類は前回、売り切れを出してしまったからな。多めに仕入れておいてよかった」

「このペースなら、出発までにちょうど売り切れそうだね」

「ああ、いいペースだ」

用紙類は風でめくれないように重しをのせて、綺麗に並べる。と、商品を並べるライテルの視界に影が差し込んだ。

「失礼、お邪魔します」

ライテルが上を見ると、ひとりのお客が商品を覗き込んでいた。お客はそっと会釈をする。ライテルはすぐに、ぱっと笑顔を浮かべた。

「いらっしゃいませ!!」

ライテルの笑顔に、年老いたお客はにこりと笑った。郵便配達員の制服を着て、口ひげをおしゃれに生やした、60代ほどのなかなかハンサムな男性である。配達員のお客が笑みを浮かべると、目元や口元にかわいらしい皺が寄る。それがなんとも愛嬌を醸し出し、ライテルもつられて笑顔になった。

配達員のお客は、ふむふむ、と商品を眺める。たくさんの紙製品を前に、感心した様子を見せた。

「いろいろありますな。さすがはリフ・カーフィラさんですな」

「ありがとうございます!書きやすい清蘭紙、上質な光煌和紙、いろいろ揃えてますよ」

お客はそれを聞くと、うむうむ、と目を細めて微笑んだ。そしてレターセットを目にとめると、それをそっと手に取った。光煌の和紙でできた、美しいレターセットだ。4種類の便箋・封筒それぞれに季節の柄が入っており、秋のものであれば光煌の秋の花である金木犀が描かれている。上品で美しいデザインに、お客はふむふむ、と満足そうに笑顔を浮かべた。

「この便箋は美しいですな。こちらは光煌のものですかな」

「そうですよ!光煌の和紙で作られたレターセットです。書き味もいいし、手触りもいいんで、気持ちのこもった手紙が書けますよ」

「ふむ、ふむ、いいですな。このグロワールでは、光煌のものは珍しいですからな。これなら、喜ばれるでしょう。こちらは、いくらですかな」

「この便箋1冊が400リュース、封筒が別売りで、10枚200リュースです」

「ふむ、この質なら安い方でしょう。封筒が別売りなのもいい。では、この便箋と封筒をいただけますかな」

「ありがとうございまーす!!」

「領収証をお願いしたい」

「わかりました!衛士さん、領収証!600リュース!」

「ああ、はいよ」

ライテルが商品を包みがてら、別のお客と話していた衛士に声をかける。衛士は手元にあった領収証を取り、さらさらと書き始めた。衛士は配達員のお客に話しかけた。

「お手紙を書かれるのですか?」

「ええ、私ではなく、坊ちゃまが書かれまして。ご両親へ向けて毎週お手紙を書かれるのですが、便箋を切らされましてな。あちこち探していたところだったのです」

「そうでしたか。紙が不足していると、そういう細かいものが手に入らなくて困りますね」

「ええ、全くですな。リフ・カーフィラさんがいらしていて、助かりましたよ」

「お役に立てて何よりですよ。領収証のお名前はどうされますか?」

「坊ちゃまのお名前でお願いします。“シャルル”です」

「シャルル様ですね」

必要事項を書き込み、衛士が領収証を切って渡す。と、ふと思い立ち、衛士はお客に尋ねた。

「お時間、まだ余裕ありますか?もしよければ、光煌の文具におもしろいものがありますよ」

「ほう?」

お客は衛士の言葉に興味を示した。衛士はカウンターに並べた商品から、手のひらサイズのちりめんの袋のようなものを手に取った。

「こちらは、光煌の“文香”というものです。

 この袋の中に香りが入っております。これを、便箋や封筒をしまう箱の中に入れるんです。

 するとレターセットに香りがうつって、相手に差し出した時に香りがふんわりと香るんですよ。よければ、嗅いでみてください」

「ほう!」

お客は衛士から文香を受け取ると、手であおいで香りを嗅いだ。ふんわりとした、嗅ぎなれないが美しい花の香りが上品に漂った。

「素晴らしい、奥深いステキな香りですな!これは何かの花の香りですかな」

「これは“桜”、光煌を代表する花の香りです。桜は春の花ですが、桜の香りは年中好まれるので、光煌ではよく使われるんですよ」

「光煌の桜!美しいと名高いですな。ふむ、ふむ…………これはいい!手紙を開けた時に香りがすると、うれしくなりますな」

「そうなんですよ。光煌では季節の文香を使い分けて、季節に応じた香りを相手に届けるんです。

 光煌は四季がハッキリしているので、町を歩いていると、季節の花の香りがするんですね。

 それを手紙に纏わせて相手に届けるのも、光煌なりの心の伝え方のひとつなんですよ」

「なるほど。それはなんとも、奥ゆかしくて心を揺さぶられますなあ。光煌の“粋”というものでしょうかな。良いですなあ」

お客はふむふむ、と満足そうに頷いた。

「これなら、坊ちゃまも喜ばれるでしょう。このひかえめな香りがじつに上品でよろしい。

 私から、坊ちゃまへのお土産にいたしましょう。こちらも、ひとついただけますかな」

「ありがとうございます。こちらは300リュースでご提供いたします。領収証の金額とは別でよろしいですね」

「ええ、お願いします。せっかくなので、いただいたセットに香りがつくようにしていただけますかな」

「わかりました、お包みします。ライテル君、包んでくれるかい」

「はーい!」

文香をレターセットと一緒に包んで、香りがうつるように整える。

その間に衛士がお客と代金のやりとりを終え、お釣りと領収証を渡すと同時に、ライテルが商品の包みを差し出した。

「こちら、お品物です!」

「ありがとうございます。坊ちゃまの喜ぶ顔が楽しみですな。

 またぜひ伺います。ありがとう」

「ありがとうございました」

「ありがとうございましたー!!」

お互いに笑顔を浮かべ、お客は満足した顔で去っていく。その背を見送って、ライテルがうれしそうに笑った。

「かわいいおじいちゃんだったな!」

「そうだねえ。好々爺という感じの、すてきな人だったね」

ライテルと衛士が和やかに話す。その背後、店の奥で、ユバが何かを考え込んでいた。そして立ち上がると、3人に声をかけた。

「みんな、すまない。少し出かけてくる。

 セリン、衛士さん、店を頼む。ライテル、ついてきてくれるか」

「お?はーい」

「ええ、いいわよ」

「わかった、いってらっしゃい」

ユバは軽く貴重品だけを入れた鞄を持ち、店を出ていく。ライテルも貴重品だけを持ち、ユバについていった。その背を見送って、セリンがぽつりと呟いた。

「何かあったのかしら」

「何か気付いたのかもねえ。ユバ君は細かいところによく気が付くからね」

「そうね、何か気になることでもあったのかもね」

セリンと衛士は軽く首をかしげたが、お客が近づいてくる気配を察知し、すぐに営業に戻っていった。


通りを歩くユバに、ライテルが声をかける。

「なんかあった?」

隣に歩み寄るライテルに、ユバは軽く目線を送って答えた。

「先ほどの、配達員のお客様だ」

「え?あのおじいちゃん?」

「ああ。あのお客様の制服…………キレイにしているが、よく見ればボロボロだった。

 あちこちに、切り傷を直した跡があった。服の裾だけではない、背中など、ご本人の肉体にもダメージがあると考えられる傷もあった。

 それが、妙に気になってな。郵便局に話を聞きに行きたい。“しろくまさん”のように魔物が関わっているなら、ギルドにも顔を出そう」

「なーるほど…………?でも、そううまく話が聞けるかね?」

「郵便配達員は体力の要る仕事だ、お年を召しても働く人は少ない。局員に尋ねれば、すぐに誰のことかわかるだろう。

 坊ちゃまのお名前も頂戴している…………本来ならこのようなことに使ってはならないのだが」

「そっか、そしたらなんかわかるかもな。

 何事もないといいけどな」

「ああ、私の勘違いであってほしいものだ…………」

軽く話をして、王城区の郵便局へ歩を進めた。


+++


王城区の中央郵便局は、グロワール国内で最も大きな郵便局であり、黄色い壁に緑色の窓が特徴的な建物だった。国内への配達のみならず、国外への郵便配達も請け負っており、キャラバンと連携して国外への配達を行っている施設でもある。リフ・カーフィラも、過去に何度も配達を請け負い、大切な手紙や荷物を届けていた。

局内は広く、多くの窓口が並んでいる。今日も配達を依頼する顧客と、運営する職員で賑わっていた。右手に郵便窓口があり、定形外の郵便物や切手の金額がわからない郵便物などを対象に配達手続きを請け負っている。その隣には、郵便局で扱う保険の窓口がある。左手は、郵便局で請け負う小包や個人向けの小さな荷物の配達窓口がある。引っ越しなど、大口の荷物運搬は専用の運送業者があるが、個人向けのギフトや手に持てる程度の小さな荷物の配達は郵便局で対応していた。その隣には、郵便局で運営する個人向けの預貯金窓口が設けられていた。正面奥に総合案内のカウンターがあり、ユバとライテルはまっすぐに総合案内へ向かって歩いていった。


総合案内へ顔を出すと、受付の女性が会釈をした。

「リフ・カーフィラ様、いつもお世話になっております」

「お世話になっております。こちらの郵便物を扱う配達員の方について、お話を伺いたいのですが、ご担当の方はいらっしゃいますか」

「配達員ですね。詳細を伺ってもよろしいでしょうか」

「ええ。本日、私どものバザールで配達員の制服をお召しの60代ほどの男性がお買い物をされまして、

 制服がひどく傷ついていらっしゃったので、お怪我などをされていないか心配になりまして」

話をすると、受付は頷きながらメモをとった。

「承知しました。では担当の者に確認いたします。

 応接室へご案内いたします。そちらで、少々お待ちくださいませ」

「お手数をおかけいたします。ありがとうございます」

受付から別の女性が会釈をし、2人を奥まで案内した。


応接室で紅茶を出され、少し待っていると、2人の男女が部屋に入ってきた。女性の方は、リフ・カーフィラも日頃世話になっている、郵便局長のクレア。そばにひかえる男性は、配達員を取りまとめるリーダー・レットと名乗った。

挨拶をして席に座ると、局長のクレアが話を切り出した。

「当局の配達員が怪我をしているかもしれない、ということで、よろしければ詳しくお聞かせいただけますか」

ライテルが念のため記録をとる。ユバは頷いて、局長に話した。

「60代ほどの男性で、口ひげを生やした方でした。シャルル様というお名前の坊ちゃまがお手紙を書かれるということで、その方のレターセットを買いにいらっしゃいました。

 その方の制服が、一見綺麗にされていたのですが、よく見るとあちこち修復した跡があり、ボロボロになっていたのが気にかかりまして。

 普通に配達をするだけではつかないような切り傷の跡が、背中や膝などあちこちに見受けられました。

 とくに背中の切り傷が大きめのもので、そのまま当たればご本人の体も傷つけるもののように見えたもので、心配になってお話に伺った次第です。

 修復の跡も新しいものでした。ご本人はお元気そうにされていましたが、何かお怪我などをされていたら大変だと思いまして」

「なるほど…………」

レットがメモを取りつつ、持ち寄った資料をテーブルに置いてめくっている。クレアも真剣な顔で頷き、まずは礼を言った。

「お話、ありがとうございます。おっしゃるとおり、当局では配達員がそのような切り傷を負う環境はまずありませんので、その配達員の傷にも何か理由があるものと思われます。レット、今までこの話はあがっておりましたか?」

「いえ、お恥ずかしながら、私もいま初めて把握いたしました」

「いえ、傷跡も目立たないように、とても綺麗に修復されておりましたので、気付かれなくても無理はないと思われます。

 ただ、そのように気付かれないように処理をするということは、その方は傷を負うような危険を隠していらっしゃるということ…………」

「ええ、おっしゃるとおりです。該当の配達員からは、よく話を聞こうと思います」

「あの配達員さんは、そもそもどういう人なんですか?」

ライテルが質問すると、レットが資料を見せた。左上に小さな顔写真が貼られており、そこに写っているのは今よりも多少若い、あの男性だった。

「該当の配達員は、名をギルバートと申します。

 王城区北のネージュ地区の配達を担当している者ですが、この者は少々特殊な配達員でして」

「特殊?…………というと?」

ユバが聞き直すと、レットはええ、と頷いた。

「ギルバートは現在、67歳。本来ならこの年齢で郵便配達を行うことはできないのです。

 これは郵便配達が力仕事であることに由来した安全上の理由で、当局の就業規則に規定しており、本来配達員になれるのは40歳未満の若い方なのです。

 ですが、ギルバートにつきましては、先ほどおっしゃったシャルル様のご依頼で、配達員を続けている者なのです」

「シャルル坊ちゃま…………」

「ええ。ギルバートはネージュ地区での小規模な配達を担当しておりますが、メインの仕事は、毎週土曜日に出されるシャルル様のお手紙の配達なのです。

 配達先は北西のルイン地区。その配達を行うために、ギルバートは配達員を続けているのです」

「ルイン地区?」

少し驚いた様子のライテルに、ユバは首をかしげた。

「知っているのか?」

「ああ、グロワール人なら誰でも知ってるよ。ルイン地区ってのは、今は誰も人が住んでいないんだ」

「人が住んでいない?」

「ええ、そうなのです。ルイン地区は今から30年ほど前に疫病が流行りまして、住んでいた者が全員引っ越し、今は無人の地区なのです。

 そこにシャルル様が毎週、手紙を届けてほしいということで、ギルバートが手紙を届けているのです」

「無人の地区に、手紙を…………」

ユバは口元に手をあて、ふむ、と考え込んだ。クレアも考えを巡らせる顔をしながら言った。

「そのような傷が見受けられるのはギルバートだけと存じます。可能性があるとすれば、そのルイン地区の配達に、何か危険なものがある…………

 わかりました。ユバ様、おそれいりますが、調査の依頼をさせていただいてもよろしいでしょうか。

 万一魔物などが関わっていた場合でも、リフ・カーフィラ様なら対応できるかと存じます」

「承知しました。こちらとしても、お客様の身に迫る危険は放ってはおけません。喜んで、お受けいたします」

「ありがとうございます。ギルバートの身の危険について、調査・報告をお願いいたします」

クレアはその場で契約書を用意し、ギルバートの身辺調査の依頼を承った。契約書にサインをして、ライテルに持たせる。

「本日は金曜日、次のルイン地区への配達は明日です。なんとか明日、無事に配達が済ませられればと思います」

「ええ、今後の配達も無事に済むように、原因の究明に努めましょう」

ユバとクレアは握手を交わした。


+++


2人はまずシャルルの邸宅を訪ねたが、シャルルは仕事で留守にしていた。明日また訪ねると使用人に伝言を残し、まずはルイン地区までの道のりや町の様子を把握しようと、ユバとライテルはネージュ地区を進んでいた。ライテルもグロワール人だが、ネージュ地区のあたりはあまり詳しくないので、ユバとともに地図を見ながら道を覚えていった。

大通りを左へ曲がり、少し路地を歩く。石造りのカラフルな建物が目を楽しませる。そろそろ夕方になろうとしており、通りは夕食の買い出しを行う買い物客で賑わっていた。地図を頼りに静かな住宅街へ入り、そのまま路地の端まで行くと、古びた柵と、鬱蒼と生い茂る木々が出迎えた。人の手が入っていない雑木林と、苔むした石畳。この先が、ルイン地区だった。

「ここかー…………まあ、ご想像のとおり、って感じだな」

「ああ。30年間、そのままになっていたのだろう。

 もうすぐ夕方になる、今からの調査は危険だ。今日のところは下見として、ここまでの道を覚えておこう」

「りょーかい」

地図を開き、ルイン地区までの道のりを確認していると、後ろから声がかかった。

「失礼、ルイン地区に何かご用ですか?」

2人が振り返る。そこには買い物バッグを持った、70代ほどの女性がいた。白くなった髪を綺麗にまとめ、皺の寄った顔には美しくメイクを施し、上品な衣装を纏ったエレガントな女性だ。腰も曲がっておらずすらりとしており、磨き抜かれたヒールはきりりとした雰囲気を醸し出し、表情は柔和だが抜け目のなさを感じる佇まいだった。

ユバとライテルは会釈をして、女性に向き直った。

「ええ、ルイン地区に向かっていく郵便配達の方を探しておりまして。このあたりのお住まいですか?」

「ええ、そうですよ。あの方をお探しなのね」

「ご存知なのですか?」

「このあたりに住んでいる者は、みな知っていると思いますよ。配達員のギルバートさんね。

 日頃から私どもの郵便物を配達してくださっているけれど、毎週土曜日になると、ここからルイン地区へ入っていくのです」

「ここが、ルイン地区の入り口ですか?」

「ええ、ルイン地区への入り口はここだけです。ギルバートさん以外は近寄らないので、とくに立ち入り禁止にもなっていないのですが…………」

女性は、少し考えるような仕草をした。その様子が気になり、ユバが声をかける。

「何か、気になることでもございますか?」

「ええ…………最近、このあたりで狂った人が出る、という話があってね」

「狂った人?」

「ええ。話しても言葉が通じなくて、とにかく人を見かけたら武器を持って襲いかかるらしいのです。

 昼の間に探しても、その人を見かけないらしくて。夜になると姿を現して、人を襲うようなのです。

 おかげさまで、夜に出歩くのが怖くてね…………その狂人たちと、ギルバートさんが何か関わってるんじゃないかって、言っている人がいるのよ」

「ギルバートさんが?」

「ええ、そんなことはないと思うのだけど…………ギルバートさんが毎週、人がいないはずのルイン地区へ入っていくものだから、怪しんでいる人も当然いてね。

 ギルバートさんが、何か怪しげなことをしているんじゃないかって、疑っている人もいるのよ。

 子供たちなんか、ギルバートさんをオカルトのように言って楽しんでいる子もいるみたい。

 なかには自分の子供に大人のウワサ話を吹き込んで、子供たちをギルバートさんにけしかける人もいるみたいなのね」

「…………そうなのですか」

「そんな下品なマネはするものじゃないと思っているのだけど、人は時に残酷だから…………

 その狂人もギルバートさんなんじゃないか、なんてウワサも立っているわね。

 いずれにせよ、ギルバートさんにとってはよくないウワサが立っているものだから、私は少し心配なのよね…………」

「ギルバートさんって、昔からルイン地区に行ってるんですか?」

「そうね、15年ほど前から、ずっとルイン地区へ配達に行っているわ。

 それより前のことは、ちょっとわからないわね…………」

「…………そうでしたか、ありがとうございます」

女性に礼を言うと、女性は「気を付けてね」と言って去っていく。その背を見送って、ユバは再び地図を広げた。

「この地区のギルドへ寄ってから帰ろう。今のウワサ話について、詳しい話があれば知りたい」

「そうだな、行ってみるか」

地図を辿り、ギルドへ向かっていく。空が少し赤くなっていた。


+++


夕食後、ユバは借家のリビングで、ギルバートの話をメンバー全員に共有した。セリンが淹れたハーブティーを飲みながら、衛士はふむ、と考えた。

「あのお客様が狂人ねえ…………」

「ウワサの域を出ないがな。ギルドでも、それ以上詳しい話は出てこなかった」

「パッと見た感じは、人好きしそうなおじいちゃんって感じだったんだけどな」

「そうなのね。私は別のお客様と話していたから、あまりよく見ていなかったわ。

 衛士さんが文香を勧めていたのは見たから、あの方かなーってぼんやりわかるくらい」

「うん、狂人の目ではなかったと思うけどね。実際はどうだろうねえ」

「女性の話によれば、狂人は昼間は見かけないとされている。ギルバートさんのことではないだろう。

 となると…………あの切り傷は、ギルバートさんが狂人に襲われた時のもの、という可能性は…………?」

「あるだろうね。なかなかに、危険な話だ」

ハーブティーを一口飲んで、衛士はひとつ頷いた。

「いちどルイン地区を詳しく調べた方がいいだろうね。昼間はいないということは、ルイン地区に逃げ込んでいる可能性もある」

「ああ、たしかに。そしてルイン地区に逃げ込んでいるとしたら、ギルバートさんの身も危ないかもしれない」

「そうね。明日はどうしましょうか。ちょうどバザールもお休みの日だし、ご依頼も受けたことだし。みんなで調べてみる?」

「ああ、そうしよう。ライテル、衛士さんはネージュ地区で狂人とギルバートさんの情報を集める。

 私とセリンはシャルル様に話を聞きに行こう」

「了解!」

「はーい、わかったわ」

「了解」


ちょうどハーブティーがきれたので、セリンは洗い物に立ち上がった。ユバも「手伝う」と言い、片付けに加わる。ライテルは時計を見て、衛士の方を見ると、衛士も頷いて立ち上がった。衛士は小さいが分厚い書籍を、ライテルはノートとペンを取り出して、テーブルに用意した。

「そういえば、もうお勉強の時間ね」

台所で、セリンが小声でユバに話しかける。

「ああ、主にライテルのための授業だが、私たちもおこぼれにあずかっている」

「ずっと気になっていたんだけど、ライテルってどうして衛士さんから勉強を教えてもらっているの?」

毎日この時間になると、ライテルが衛士から勉強を教わっている。内容も基本的なもので、ザラスト教の聖典の教えや各国の歴史など、学校に行っていれば誰でも知っているようなものばかりだった。セリンはそれが気になったが、ユバはああ、と言った。

「ライテルはきちんとした学校を出ていなくてな、本人も自分に学がないことを気にしているのだ。

 …………きちんとした、というと語弊があるな。いちおう、義務教育は終えている」

「最低限しかやってない、ってこと?」

「そうなる。グロワールの学校制度は、こうだ。

 義務教育は6歳から始まり、まずは小学校へ通う。小学校は10歳までだ。その後は、大学まで行って学ぶことができる中高一貫校『ギムナジウム』へ行くか、職業訓練を主に行う『実科学校』へ行くかに進路がわかれる。

 進路の分かれ目は各家庭が自由に選べることになっているが、実態は金銭的に余裕がある家庭がギムナジウムへ、貧困家庭が実科学校へ行くようになっているのだ。

 ライテルはもともとギムナジウムへの進学を希望していたのだが、家が貧しかったためにギムナジウムへ行けなかった。そのため、実科学校へ進学したのだ。

 グロワールの実科学校は、学問の授業は最小限で、ほぼ職業訓練に時間が割かれる。ライテルはそこで工芸や彫金の技術を身につけたが、肝心の本人が希望していた学問知識はほとんど身につけられなかった。

 本人はそれを嫌がっていて、何より知識をほしがっている。だから、ああして衛士さんに教えてもらっているのだ。

 衛士さんはもともと、光煌の教師だ。人に教えるのは得意だし、学問の国といわれる光煌で教師ができる人間は自身の知識も深いからな」

「そうだったのね…………どうしてそこまで、知識をほしがるの?」

「ライテルは富や力を重んじる。自分に金や力、能力、実力、知恵があれば、ある程度の不幸は回避できる。そういう考え方なのだ。

 学校で教える様々な知識は、その実力や知恵の基礎になる。ライテルはそう考えているから、知識をほしがっているのだ」

「ふうん…………そうなのね」

カップを片付けて、セリンはよくわからないという顔をした。セリンはライテルとは正反対の考え方だ、あまりよく理解はできていないのだろう。ユバは心の隅でそう感じつつ、セリンとともにリビングへ戻った。席に座ると、衛士が分厚い書籍―――ザラスト教の聖典のページをめくっていた。

「今日は聖典を読み解く日だね。今日はこの一文を考えてみよう」

衛士は聖典の一文を指し示した。ライテルはその一文を読み上げる。


疲れた者、重荷を背負う者は、誰でも神のもとへ向かいなさい。神や守護霊はあなたを休ませてくださる。

神の軛を負い、神に学ぶといい。そうすれば、あなたは安らぎを得られる。

神の軛は負いやすく、神の荷は軽いからである。


読み上げると、衛士が口を開いた。

「ライテル君は、今までどうしようもなくつらいな、現実が重いな、と思ったことはあるかい?」

ライテルは聖典に視線を落としたまま答えた。

「…………ある。逃げ道がないっていうか…………どうしたらいいんだよこんなもん、って思ったことは、ある」

「そうだねえ。そういう時には、心の中で神様に話しかけるといい、というのがこの教えだ。

 ザラスト教の神や守護霊は、いつでも君の隣にいて、君とともに一生を歩んでくれる。

 その隣にいる神様に、語りかけるんだ。神様、私は今これこれこういうことがつらいです。抱えきれません。

 そう言うと、それを神様が持ってくれる。代わりに神様は、自分が持っている軽い荷物を渡してくれる。だいたいそういうことを言っているんだ」

「そうなんだ…………神様は、それを持って重くないのか?」

ライテルが素朴な疑問を言うと、衛士はにこりと笑った。

「ライテル君は優しいねえ。神様の心配をしてくれるんだね。

 大丈夫だよ、ザラストの神様はとても力が強くて頑丈なんだ。ライテル君がどうしようもなく重いと感じるものも、神様にとっては軽く片手で担げるようなもの。

 それも、事件が解決すればもっと軽くなるから、神様はそういうことは気にしないんだよ」

「そうなのか…………」

「そうやって心配してくれるライテル君のためなら、神様も協力してくれる。ザラストの主神ラグナ・ガルマ、およびその守護霊たちは、いつでもライテル君の味方だ。

 つらい気持ちは肩代わりしてくれるし、いつでも君の話を聞こう。神様たちは、そう言ってくれているんだね」

「…………そっか」

聖典の文字を見ながら、ライテルはでもなあ、と呟いた。

「その重い現実を解決するには、結局自分がなんとかするしかないじゃん。

 本当にどうしようもないから困ってるのに、話を聞くだけで何もしてくれないって、どうなの?そばにいるなら、その強い力で解決してほしいよ」

それを聞くと、衛士はなるほど、と頷いた。

「そうだねえ。よく聞くよね、神は何もしてくれないって。

 たしかに、ライテル君の思うとおりではあるよ。つらいことは結局、自分が解決するしかない。自分で動くしかない。それはたしかだ」

「うん…………」

「でも、神様も何もしないわけではないよ」

「そうなの?」

衛士は頷いた。

「そうとも。ここを見てごらん」

「?」

衛士は聖典の一節を指した。

「“神に学ぶといい”そう書いてある。

 神に学ぶ、それは神様の言葉や振る舞いを見て学ぶ――――つまり“聖典を開けなさい”ということだ。

 聖典には神様の言葉が書かれている。聖典を読めば、必ずその答えや、どうしたらいいかが書かれているから、神様の言葉に耳を傾けなさい。そう言っているんだ。

 聖典の内容はたしかに難しい。でも聖典の言葉をよく考えて、わからなければ拝火神殿の司祭様に聞いてみて、その言葉をちゃんと理解すれば、きっと道が開ける。“神に学ぶ”とは、そういうことだ。

 “どうしようもない”と思って絶望して何もしなければ、何も解決しない。それはライテル君も感じているとおりだね。

 そういう困った時の道しるべになるのが、聖典なんだ。

 困った時は、聖典を開くといい。そこにある言葉が、きっとライテル君の身を助ける。

 ライテル君の隣にいる神様は、そうして物事がうまくいくよう導いてくれる。積み荷を軽くしてくれて、ライテル君が前を向いて動けるように協力してくれる。

 あとは、自分がやるか、やらないかだ。

 神様がぜんぶ解決してしまっては、ライテル君のためにならない。だから神様は、そうしてライテル君のそばにいるだけで、何もしないように見えるんだね」

「…………そっかあ」

ライテルはしんみりとその言葉を受け取って、やがてペンをとってノートに書き込んだ。聖典に記された神の言葉と、衛士の言葉を忘れないように、心に刻みつけるように、1字1字をゆっくりと書き留める。その様をゆっくりと見ながら、衛士はユバに顔を向けた。

「しろくまさんの時も、ユバ君が言っていたね。“世界はあなたのために開かれている”。全くその通りだと思うよ。

 ザラスト教はこうして、わかりやすい聖典があるから、困った時にいつでも開ける。それは、すごいことだと思う」

「ああ。私もスールエで学んでいた時は、なるほどと思ったよ。

 どんなに自分が孤独に思えても、実は神がそばにいる。そう思うだけでも、気持ちが変わるな」

「そうね。自分が独りだと思うと、何もできなくなってしまうものね」

「人は、独りじゃ何もできないからねえ」

ノートに書き留めたライテルは、手元に置いた自分の聖典を手に取って、適当にページを開いた。目に入った言葉は、このように述べていた。


擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。

そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。

あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。


+++


翌日。ユバとセリンはシャルルの邸宅を訪れた。

シャルルの邸宅は小ぢんまりしているが、グロワールの貴族らしい上品な造りの建物で、白い壁に青い屋根が美しく、晴れた空になんとも映えていた。屋敷の手前には小さな薔薇の庭園があり、庭師が丁寧に庭園の手入れをしている。ふんわりとした秋薔薇の香りが漂ってきた。

「綺麗なお宅ね」

「ああ、グロワールらしい、美しい家だ」

使用人に案内されながら、セリンはきょろきょろと辺りを見渡す。薔薇の他にも秋の花が美しく咲き誇っており、華やかな色合いが目を楽しませた。小さいながらも広いロビーを通り、応接間へ案内される。紅茶を出されて一息ついていると、応接間にひとりの男性が入室した。

上品な貴族の衣装に身を包んだ、40代前半ほどのダンディな男性だ。銀色の髪を上品にセットした、隙のない雰囲気を漂わせる紳士だった。紳士は応接間に一歩入り、丁寧に礼をした。ユバとセリンも立ち上がり、一礼する。

「お待たせいたしました、シャルルと申します」

「キャラバン、リフ・カーフィラのユバと申します。突然の来訪失礼いたしました」

「セルリタと申します」

「いえいえ、お構いなく。昨日は留守にしていて申し訳ありませんでした。どうぞ、おかけください」

シャルルは席をすすめ、互いにゆったりとしたソファに腰かける。使用人がシャルルに紅茶を差し出し、下がったところで話を切り出した。

「それで、本日は配達員のギルバートについてお話があるとのことでしたが」

「ええ、我々は郵便局から依頼を受けて、ギルバート様の配達状況について調べております」


ユバが事情を説明すると、シャルルは真剣な顔をして頷いていた。

「そうでしたか、ギルバートにそのようなことが…………」

「ルイン地区に出没するという狂人がギルバート様ではないかと、疑う人もいるとのことです。

 我々はこのあとルイン地区へ向かい、調査を行う予定です」

「ええ、ぜひお願いします。ギルバートの身に何か危険があるなら、それを取り除く。それは私の責務でもありますから」

「…………踏み込んだことを伺うようですが、そもそもシャルル様とギルバート様はどのようなご関係なのですか?ご家族でいらっしゃるのでしょうか」

セリンの問いかけに、シャルルは首を振った。

「いえ、厳密には血縁ではありませんが、私は家族同然のように思っております。

 …………そうですね。よければ、少し私の話を聞いていただいてもよろしいでしょうか。

 私も、少し人に話して、自分の気持ちを整理したい」

「ええ、喜んで」

ユバはそっと微笑んだ。シャルルは礼を言って、紅茶を一口飲み、ゆっくりと話し始めた。


今から30年前、シャルルはルイン地区に住むごく普通の少年だった。普通の少年だったが家は裕福で、父は裁判官、母は医師だった。友達もそれなりにいて、毎日楽しく過ごしていたが、何より楽しみだったのは、毎日夕方になってギルバートが夕方の配達を終えて遊びに来てくれることだった。

ギルバートは当時から郵便配達員で、ルイン地区を担当していた。ギルバートはとてもハンサムで格好良く、爽やかで人当たりがよかったので、シャルルは大いになついて、配達が終わったら一緒に遊ぶ約束をしていた。シャルルは彼を「ギルバートおじちゃん」と呼んだ。ギルバートはそれを喜んで、毎日配達を終えると家へ遊びにやってきた。ギルバートはシャルルを「坊ちゃま」と呼んで、とてもかわいがってくれた。ギルバートは独り身で家も貧しかったので、よく家族でギルバートに夕食をご馳走した。お土産と称して、何かにつけてプレゼントをして、両親もギルバートをかわいがっていた。


ある日、シャルルは朝、目が覚めると知らない場所にいた。

知らない人が顔を覗き込んで「おはよう」と言った。その人は軍の兵士だった。兵士は事情を説明した。朝、近所の人が起きた時、シャルルの家から異臭がすることに気付いた。玄関の扉も開いていたので中を見ると、ロビーが血の海になっており、2人分の遺体が転がっていたという。シャルルはその時、まだ眠っていた。軍はシャルルを起こさないようにそっと現場から運び出し、一時的に軍で預かっているのだ。そう説明された。

両親が死んだ。何者かに殺されたらしい。話を聞いても、それが理解できなかった。シャルルは両親とギルバートおじちゃんを探した。しかし、どこを探しても、両親もおじちゃんもいなかった。後にギルバートおじちゃんは、両親を殺害した罪で捕まったと聞き、シャルルはそこでやっと両親の死を理解した。

同時に、ギルバートがそんなことをするはずがないと思い至った。軍にギルバートの所在を確認し、特別に面会の許可をもらって会いに行った。ガラス窓の向こうのギルバートは憔悴しきっていた。ギルバートは心から、両親の死を悲しんでいた。そして、両親を殺したのは自分ではないとも言った。

その時、ギルバートは言った。

「坊ちゃま、大丈夫です。主神や守護霊が私のそばについています、きっと正しい方に道は開けるでしょう。

 今は少し、一緒に遊べなくなりますが、坊ちゃまも辛抱の時ですよ」

しかし、一緒に遊べる時は、それきり二度と来なかった。


ギルバートは有罪判決を受けた。深夜にシャルルの邸宅へ入る郵便配達員が目撃されており、それがギルバートだとされたためだった。それを知ったシャルルは必死に抗議をしたが、何も目撃していない少年の言葉など誰も取り合わず、ギルバートは刑務所へ送られた。

ギルバートは絶対に無実だ。そうとしか思えなかったシャルルは、自分の手で真実を明らかにすることを決意した。軍に入るという選択肢もあったが、軍は裁判が終わった事件についてはもう調べない。すでに終わった裁判をやり直させるには、法曹関係者になるのが一番だと踏んだ。

そうしてシャルルは、弁護士になるために猛勉強を始めた。ギムナジウムでも大学でも、ろくに友達も作らず勉強に打ち込んだ。無事に弁護士の資格を取ると、シャルルは事件を徹底的に調べ直した。両親がどのように殺害されたか。凶器は。本当にギルバートにそれが可能だったか。現場となったかつての自宅にも何度も足を運んだ。


ある日、ルイン地区の現場を調べていると、背後から物音がした。振り返ると、郵便配達員の制服を着た男が、その手に刃物を持って自分の背後にゆらりと立っていた。彼の目は正気ではなかった。男は刃物を振り上げた。シャルルは咄嗟に、持っていたランプを盾にした。

すると、男はぴたりと手を止めた。そして男の頭から、液体がにじみ出るようにずるりと何かが這い出てきた。それは人間の頭ほどの大きさの、巨大な蜂だった。頭と胴体の間から毛細血管のような触手が生えた、見るも気色悪い蜂であった。蜂は頭から這い出ると、腹の針をシャルルに向けて襲いかかろうとした。その瞬間、配達員の男が蜂の頭を掴んで、頭と胴を持っていた刃物で斬り裂いた。蜂は絶命し、頭と胴が床に転がった。男は続けて蜂をめった刺しにしようとしたが、シャルルはそれを止めた。男は正気に戻っていた。シャルルが事情を話すと男は落ち着いて、蜂の死骸を証拠品として押収するために協力してくれた。男は10年ほど前から今までの記憶を持っていなかった。

シャルルは研究所に蜂の死骸を提出し、その生態を調査してもらった。その結果、この蜂は太古から存在する寄生バチ「オサ・カリカ」という魔物だとわかった。

オサ・カリカは人や動物の頭に寄生し、宿主を狂わせて他人を襲い、その肉を食らって生きる。オサ・カリカが成熟すると宿主に卵を産み付ける。卵は宿主の体内で孵化すると宿主の体を食って成長し、やがて宿主を食いつくすと、自分の宿主を探して飛び立っていくという。

さらに正気に戻った男の刃物や持ち物を見ると、10年ほど前の血液が付着していた。シャルルはグロワールに住むフラワシの一人と接触し、この刃物や血液について占ってもらうと、たしかにこの刃物が両親の命を奪ったことがわかった。


シャルルはそれらを証明し、ギルバートの無罪を勝ち取った。真犯人はオサ・カリカであり、寄生された男も無罪だった。ギルバートは釈放された。自分の使命を全うし、シャルルはようやく息をつくことができた。

そして同時に、シャルルはギルバートに仕事を言い渡した。それは両親が死んでから毎週書き続けていた「手紙」の配達だった。その手紙を、ルイン地区のかつての自宅に届ける。それが、ギルバートに言い渡された新しい仕事だった。そのために郵便局にかけ合い、ギルバートを配達員として置いてもらった。その間にルイン地区からは、すっかり人がいなくなっていた。ギルバートは隣のネージュ地区の配達を請け負いながら、毎週土曜日になるとルイン地区の元シャルル宅へ手紙を届けに行っていたのだった。


「…………それじゃあ、30年前に流行ったという疫病の正体は…………」

「ええ。30年前に流行った疫病はまさに『人が突然狂ってしまう』というものでした。

 そして、その犯人はオサ・カリカだった。ギルバートが無罪になった時、その可能性が指摘され、軍はルイン地区の土地利用を可能にするためにオサ・カリカの調査に乗り出したのです。

 その時に、オサ・カリカは全て退治された。そう聞きましたが…………」

「…………まだ、生き残りがいるかもしれない」

ユバがそう言うと、シャルルも頷いた。

「ええ。もしかしたら、その生き残りが誰かに寄生し、ギルバートを襲っているかもしれない…………

 ギルバートはもう、配達に向かいました。恥ずかしながら、狂人の話を知らなかったものですから」

セリンはユバの顔を見た。

「…………急いだ方がいいかも」

「ああ。シャルル様、我々はすぐにルイン地区へ向かいます」

「ええ、お願いします。私も一緒に行きましょう。ギルバートが襲われる前に、ルイン地区の安全を確保してください。

 オサ・カリカは炎が苦手です。炎を見れば、姿を現します。素早いですが、防御力はそれほどありません。リフ・カーフィラさんなら、すぐ倒せるでしょう」

「承知しました。では急いで向かいましょう」

シャルルは護身用のナイフを懐におさめ、ユバとともに応接室を出て行った。


+++


ルイン地区の入り口から元シャルル宅までは、それなりに距離があった。今は人の寄り付かない地区、そこは耳鳴りがするほどに静まり返っており、乾いた風が吹くばかりだった。人の手が入らなくなった家々には蔦が這い、崩れている家も多い。廃墟と化したルイン地区の大通りを、ひとりの老人が歩いていた。

郵便配達員の制服を着て、配達用の鞄を肩から下げて、慣れた歩調で進んでいく。配達先までの道のりも、忘れられるはずがなかった。石畳を歩く足音が一人分。ギルバートは自分の足音をぼんやりと感じながら進んでいると、左手の建物の影から何かの足音を聞き取った。ギルバートの体に緊張が走る。危険を感じ、足を速める。がさ、がさがさと、建物の影から草を踏みしめる音がする。何人かいるようだった。足音が駆けてきて、どんどん、どんどん近づいてくる。ギルバートが走りだそうとした時、ふっと頬に冷気が触れた。

冷気は背後へ流れていった。思わず振り返ると、ガラスの割れるような音とともに、ギルバートの背後に氷の壁が一瞬で姿を現した。氷の向こう、すぐ目の前に、知らない男の姿があった。男の手には鋭い長剣。以前からたびたびこの道に現れ、ギルバートに襲いかかっていた“狂人”だった。狂った男はたたらを踏んだ。そのさらに向こうから、別の人間の声がした。

「ギルバート様!ご無事ですか!!」

ギルバートは氷から距離を取り、その向こうを見た。そこには昨日、レターセットを買ったキャラバンのメンバー4人と、自分の主人が駆け寄ってくる姿があった。

「おじちゃん!すぐ離れて!!」

「坊ちゃま!!」

ギルバートは人の気配のない建物の壁に背をつけて、狂人から離れた。男はゆっくりと振り返ると、駆け寄るリフ・カーフィラに標的を変えた。ライテルたちが武器を取る。衛士は刀に手をかけた。ユバはいちど立ち止まり、左手に魔力を込めて叫んだ。

「貴様の相手は我々だ!出てこい、オサ・カリカ!!」

そうして左手を振りかざすと、地面から炎が吹き出し、狂人へ向かって飛んでいった。狂人が炎を避ける。と同時に、狂人の頭からずるりと黒い影が這い出てきた。人の頭ほどの大きさの、巨大な蜂。耳障りな羽音を立てて、その複眼でリフ・カーフィラを睨みつけた。寄生されていた男はぼんやりと座り込んでいた。

オサ・カリカは天を仰ぎ、巨大な顎をカンカンと鳴らした。同時に、その口から壊れた笛のような音が響く。シャルルとギルバートは何も感じなかったが、リフ・カーフィラは魔物の気配が増えてくるのを感じた。羽音があちこちから聞こえてくる。木々や建物の影から、オサ・カリカの成虫が次々と姿を現し、リフ・カーフィラの視点の向こう、元シャルル宅の屋根から、ひときわ大きなオサ・カリカがずるりと姿を現した。大きなオサ・カリカは腹がパンパンに膨れ上がり、通常のオサ・カリカの数倍以上の体躯をしていた。その巨大な蜂を見て、シャルルが叫んだ。

「あいつが女王だ!!」

槍を構えて、セリンがユバに声をかける。

「どうする、女王だけを仕留める?それとも殲滅する?」

ユバは迷わず言った。

「女王を倒した後、生き残った者は殲滅する。

 ライテル、セリンはシャルル様とギルバート様、寄生された方を守りつつ、オサ・カリカたちを殲滅!

 衛士さんは女王を仕留めろ!私が道を開く!!」

「了解」

「了解!!」

「わかったわ!!」

女王が雄叫びをあげる。オサ・カリカの兵士たちが一斉に襲いかかった。

ライテルとセリンはギルバートたちを庇いながら、短剣と槍でオサ・カリカを次々と斬り落とした。ライテルの素早い動きはオサ・カリカのそれよりも速く、かまいたちのように頭と胴を一閃して、次から次へと命を奪う。セリンは自分の手足のように槍をさばき、オサ・カリカたちを真っ二つにする。2人の周囲でオサ・カリカがぼとぼとと死骸となって落ちていく。巨大な蜂にも恐れることなく立ち向かい、次から次へと倒していく姿に、シャルルとギルバートは目を見張った。

衛士が女王へ向けて駆けていく。女王は兵士をけしかけるが、衛士に近づく兵士たちはひとりでに発火して次々と焼け落ちていく。後衛では、ユバが左手を構えて魔力を高めていた。

兵士たちでは勝ち目がないと悟った女王は、ゆっくりと羽ばたいて屋根から飛び立つと、腹の針を衛士に向けた。女王の針から、衛士に向かって毒液が噴出される。衛士がそれを飛ぶように避けると、毒液は石畳に着地して石畳を溶かしていった。

女王までの距離が3mにまで迫る。女王は怒り狂い、6本の足を広げる。猫が爪を出すように足が一瞬で伸び、そのまま衛士へ向かって振り下ろされた。その足は鎌のように鋭く研ぎ澄まされていた。衛士はその場で高く飛び上がる。女王の足が空を裂き、衛士が空を裂いた足を自らの足場にしてとびかかる。

そのまま刀を抜き、一閃。美しい刀の軌道は女王の翅を一直線に斬り裂いた。女王の体が地に落ちていく。衛士は女王の頭を踏み台に飛びあがった。女王が地に伏せる。足を収縮させ立ち上がろうした時、真上からギロチンのように研ぎ澄まされた刃が振り下ろされる。

衛士の刀が、触手に包まれた頭と胴体の付け根を目にも止まらぬ速さで斬り落とした。大きな頭がごろりと転がる。複眼が色を失い、鋏のような大顎がだらりと垂れ下がる。切り口から毒液がどろりとあふれ出し、石畳を溶かした。


女王の死に、オサ・カリカたちは動きを止めた。オサ・カリカの数はもはや数え切れる程度だった。その隙に、ライテルとセリンが風のように彼らを斬り裂いた。オサ・カリカの体が灰のようにぼとぼとと落ちていき、あとには大量のオサ・カリカの死骸だけが残った。

「――――よっし!」

「討伐完了!!」

ライテルとセリンは一息ついて、お互いにハイタッチをした。遠くで衛士が刀を納め、ゆっくりとこちらへ戻ってくる。

「いやあ、見事な毒だねコレ。当たってたらひとたまりもなかったな」

「蜂の毒は毒のカクテルとも言うしな。皆、無事でよかった」

「これくらい、らくしょーらくしょー!!おつかれー!!」

「おつかれさま!これで安心ね」

4人でひとしきり労いの言葉をかけると、呆然としていたシャルルとギルバートに近寄って声をかけた。

「お二人とも、ご無事ですか」

「は、はい…………!」

「ありがとうございます!!いやあ、驚きました!!

 あれほどのオサ・カリカの大軍を、無傷で殲滅させるなんて!!さすがは天下のリフ・カーフィラです!!なんという強さだ!!」

感激したシャルルは、ユバの手を取って両手で握手をした。ユバはありがとうございます、と、ふんわりと微笑んだ。ギルバートも礼を述べた。

「本当に、危険なところをありがとうございます。助かりましたぞ。

 …………ところで坊ちゃま、なぜこちらに?リフ・カーフィラさんも、なぜルイン地区に…………」

ギルバートがそう尋ねると、シャルルは少し怒ったような顔をした。

「…………おじちゃん。どうして黙ってたの。このこと」

「!…………」

「この制服、ボロボロなのに、それも隠してて。

 どうして僕を頼ってくれなかった?こんなに危険な魔物が出るなんて、言ってくれれば対策したのに。

 僕は、そんなに頼りないか?」

「坊ちゃま…………」

ギルバートはシャルルを怒らせたと悟り、おろおろと心を揺らした。やがて言い逃れができないとわかると、しょんぼりと肩を落とした。

「…………申し訳ございません、坊ちゃま。坊ちゃまはお忙しい、お手を煩わせたくないと思いまして…………」

「…………そうか。でも、おじちゃんの命に関わるようなことは、放ってはおけないよ。

 次からは、ちゃんと言ってほしい。次が来ないことを祈るけど、もし今後こういうことがあったら、ちゃんと僕に言ってほしいんだ。

 おじちゃんは、僕のたったひとりの家族だから」

シャルルは心からの本音をギルバートに告げた。両親を亡くしたシャルルにとって、ギルバートはもはやたったひとりの家族だった。ギルバートはその言葉を聞き、目に涙をためて、恭しく頭を下げた。

「…………ありがとうございます、坊ちゃま」


元シャルル宅へ向かうと、そこは荒れ果てた邸宅だった。両親の血痕も片付けられておらず、壁にはシミが付着したままになっている。その家のロビーの中央に、大きく立派な箱が置かれていた。宝箱のようにも見えるその箱をギルバートが開けると、中には封のされた手紙がぎっしりと入っていた。新しいものから、古いものまで。色とりどりの封筒に美しい筆跡で書かれた「親愛なる両親へ」の文字が、箱の中を縦横無尽に行き交っていた。

ギルバートは、箱の中に真新しい手紙をそっと納めた。封筒からは、ふんわりと桜の香りが漂った。そうして静かに箱を閉じると、両手を組み、亡くなったかつての主人へ祈りを捧げた。

シャルルとリフ・カーフィラも、同様に死者への祈りを捧げた。耳鳴りがするような静けさに包まれた邸宅。屋根すらも崩れ落ち、もはや建物の面影が辛うじて残る程度となった瓦礫の山の中、6人の人影がそうしてしばらく祈りを捧げていたのだった。


+++


「仲のいい2人だったわね」

仕事を終えて、借家のリビングでくつろいでいる時、セリンがお茶をかき混ぜながらぽつりと言った。

「そうだな。家族同然だったとはいえ、冤罪から救うために弁護士にまでなるなど、なかなかできないことだ」

「シャルルさん、おじちゃんが何より大事だったんだろうなあ」

「そうだね。家族を想う気持ちに、血のつながりは関係ないんだね」

玄関のポストを見に行った衛士が戻ってくる。衛士の手には、1通の手紙。それを郵便だよ、とユバに差し出すと、ユバは封筒から桜の香りを感じ取った。『親愛なるリフ・カーフィラへ』美しい字でそう書かれた封筒を見て、ユバは穏やかな笑みを浮かべた。

「…………届いた手紙から香りがすると、存外うれしいものだな」

ユバがそっとそう言うと、衛士はうれしそうに笑った。


+++


静まり返った廃墟を、ひとりの老人が歩いていく。

からっ風が吹くばかりの、時の停まった地区。もはや人も寄り付かない場所。老人は迷いなく進んでいく。

郵便配達員の制服を着て、配達用のカバンを肩からさげて、いつも通り、配達へ向かっていく。

制服はもう、ボロボロではなかった。真新しい制服に身を包み、怪我も病気もなく、しっかりとした足取りで。


老人は今日も、手紙を届ける。

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