第2話:しろくまさん
日暮れの路地は幾ばくか空気が冷たくなり、出歩く者はみな長袖を着ている。上着を羽織る者も多く、冬の訪れを感じる者もいただろう。
煌々と明かりが灯る、路地の一角のレストラン。ウェイターが席を行き交うフロアの中で、客たちは少しばかりざわめいていた。
「リフ・カーフィラだ。グロワールに着いたのか」
「今回も、無事に工場へ紙を納品したらしい」
「今のご時世、もはや安定して紙を運べるのはリフ・カーフィラだけとなったな」
「紙だけじゃない、清蘭や光煌への鉄や金銀の輸出も、リフ・カーフィラなしでは成り立たなくなってきた」
「恐ろしいな…………砂漠を超えられるキャラバンだけでも一握りなのに、光煌にまで行けるんだからな」
「たった4人しかいないのに…………相当な“精鋭”なんだろうな」
「あの光煌人、強そうだな…………ヘラヘラしてるように見えて、抜け目のない目をしてやがる」
丸テーブルを囲み、料理を味わうリフ・カーフィラの面々を見て、客たちは声をひそめてウワサを囁く。
リフ・カーフィラ。砂漠や海を越えて商品を運ぶ「最強のキャラバン」と名高い一団。しかしその名声とは裏腹に、一般の者は彼らがどんな人物かもよくわかっていなかった。彼らは油断なく辺りを伺っているようで、その実リラックスして料理を味わっていたのだった。
「んー、美味い!とろっとろの牛肉!たまんないなー!!」
「ホント、このお店大正解ね!!お肉の美味しさが全面に出てるわ!」
「久々のワインだな、衛士さん」
「そうだねえ、光煌の米酒がいちばん口に合うとはいえ、グロワールのワインもなかなか美味しいんだよね」
グロワールでは珍しい和服を纏い、衛士は赤ワインを一口楽しむ。芳醇なぶどうの香りに深みのある味わいが、濃厚なビーフシチューによくマッチした。焼きたてのパンをちぎってシチューにつけ、ライテルが心底美味しそうに頬張る。長旅の疲れを吹き飛ばすように、幸せそうな顔をして美味しい料理を堪能していた。
「お野菜も美味しいわ、シャキシャキ!いいお店ね、本当に」
「ライテルは店選びが上手いな。いつも助かっている」
「まかせろって!グロワールの中ならけっこう知ってるからさ」
ユバにほめられて、ライテルは無邪気に笑顔を浮かべる。つられてユバもわずかに口角をあげて微笑み返し、サラダをひかえめに口に運んだ。
「そういえば、以前光煌の羽織をお買い上げになったあのお客様、元気にしているかしら」
「お、そういえばそうだな!あの羽織、けっこういい奴だったしなー、飾ってるかもな」
セリンとライテルが食事を頬張りながら仲良く会話を交わす。その様子を見て衛士が和んでいると、ふとユバが食事の手を止めているのに気づいた。ユバは隣の席の会話に耳を澄ませている。つられて、衛士も隣の席に意識を集中させた。そこでは2人の若い女性が、ステーキを食べながらウワサ話に花を咲かせていた。
「…………でさ、そのスノーベアのことなんだけど。その子の両親が、スノーベアに殺されたって」
「ええ?本当に?」
「物音がして目が覚めたら、家中血の海だったそうよ。その子の目の前には、真っ赤に染まったスノーベアが…………」
「イヤー!!やめてよ怖い話っぽく言うの!!」
「でも真面目な話、怖くない?スノーベアが町に入ってきて人を襲うなんて」
「そうよ!軍は何をしているの?」
「そこまではわかんないけど…………さすがに動いてくれないと困るよねえ」
「本当、早く倒してほしいわ…………」
「…………スノーベア、か」
会話を楽しんでいるライテルたちに気付かれないように、ひかえめな声でユバに話しかける。ユバは頷く代わりに、ひとつ瞬きをした。
「ああ。この国の北の雪原から来ているのだろう。
明日のバザールは2人に任せて、少しギルドに行って調べてみよう」
「了解」
ユバは元通り、食事に戻った。ライテルたちに視線を向け、他愛のない話に耳を傾ける。
町中に入ってくる雪原の魔物。キャラバンは冒険者ではないが、町の人々の安全が脅かされる事態になれば、話は別だ。安全を守るためにできることはしよう、というのがリーダーのユバの方針である。衛士は心の隅で、何事もなく平穏に解決できることを願った。
+++
翌日。ユバと衛士はグロワール王国・王城区のギルドを訪れた。
ユバはまっすぐに、カウンターへ向かって歩いていく。ギルドのカウンターには、ギルドに集まる情報を整理して冒険者へ提供する司書がいる。ユバは整理作業をしている司書に声をかけた。
「作業中すまない。伺いたいことがある」
「あら、リフ・カーフィラさん。どうかなさいました?」
小柄な司書は顔をあげ、大きなメガネをかけ直した。カウンター越しに、ユバの中性的な顔立ちを見上げる。
「このあたりで、スノーベアの目撃情報はないだろうか」
ユバが尋ねると、司書はああ、と顔を曇らせた。
「さすがリフ・カーフィラさん、耳が速いですね」
「一般人が犠牲になったらしいね。何があったのかな」
衛士が穏やかに切り出す。司書はファイルを取り出して、2人に資料を掲示した。
「つい1週間ほど前のことです。夜中、王城区の北・ネージュ地区にスノーベアが忍び込み、扉を壊して民家に入りました。
そして、そこに住んでいた人を襲ったのです。
戦闘のできない一般人の家でした。そこのご夫婦がスノーベアによって無残に殺害され、2人の息子さんが取り残される事態に…………」
「…………ふむ。それはひどいね」
「今まで、こんなことはありませんでした。スノーベアはどこからか町に入り込んで、このようなむごい事件を引き起こして…………
その夫婦を殺害したあと、起きてきた息子さんも視界に入れたそうですが、息子さんには目もくれず、そのまま踵を返して、家を出て行ったそうです」
「ご夫婦を手にかけて、そのまま帰っていったのか?」
「ええ、そのようです。食糧なども荒らされておらず、ご夫婦を食らった形跡もありませんでした。食糧目的でないのは明らかです」
「…………なるほど。まるで、そのご夫婦だけを狙ってきたかのようだ…………」
想像に難くない惨劇に衛士が真剣な顔をする隣で、ユバは考え込んでいた。
「…………スノーベアは、決して知能は低くない。特別バーサーカーでもない普通の魔物だ、特定の人間を選んで攻撃することは可能だろうが…………
スノーベアに関する情報は、どの程度集まっている?」
「国境付近の雪原をうろついているようです。討伐に挑んだ冒険者もいますが、いずれも逃げ帰ってきていますね」
司書は続けてファイルを取り出した。スノーベアに関する生態や倒し方などがまとめられていた。
「スノーベアは体内に魔法でできた氷の鎧を纏っており、非常に防御力が高い魔物です。
炎の魔法が使えるフラワシがいれば楽に倒せますが、難しいので、通常は打撃を中心とした攻撃で鎧を砕くことができますね」
衛士は頷きつつ資料に目を通す。フラワシ。ザラスト教圏の言葉で「魔法使い」を指す言葉だ。元は聖典に記された守護霊を指す言葉であったが、時代の流れで意味が転じて「魔法使い」を指すようになったとされる。衛士は異国の文化を思い出しながら、司書の話に耳を傾けた。
「ただ、打撃といっても相当な力でなければ難しいです。魔法の氷なので、簡単には砕けないんですよね。
安全に倒すにはフラワシの力が必要なのですが…………」
ユバは口元に手をあてて考え込んだ。
「…………フラワシ。貴重な魔法の力を持つ者は高い地位が約束され、裕福に暮らすことができる。
だが、その平和故に、戦えない者も多い。フラワシは通常、軍に所属したがらないからな。戦えるフラワシとなると限られるだろう」
「そうなんですよね…………攻撃魔法をきちんと使えるフラワシは非常に少ない。
その数少ないフラワシも、軍に所属していなかったり魔法の攻撃力が充分でなかったりして、実戦で使用できる人は一握りもいません。
かといって、機械で生み出した炎では魔法の力で弾かれてしまい…………普通の冒険者では太刀打ちできない相手なのですよね…………」
「…………なるほど。強敵だねえ」
司書はひとつ、ため息をついた。
「リフ・カーフィラさんならもしかしたら、とは思うのですが…………スノーベアも強い魔物なので、決して無理はなさらないでくださいね」
「ああ、気遣い感謝する」
少しだけ口角をあげて、ユバは礼を言った。そしてすぐ、真剣な表情に戻った。
「…………スノーベアの背後に、何者かがいる可能性もある。
被害者のご家族のことも知りたいが、軍が調べているであろう中、ご子息に過度に質問するのは酷だな」
「そうだねえ。被害にあった息子さん2人は、今どうしているんだい?」
「2人の息子さんは、兄がジマくん、王城区のギムナジウムに通う12歳です。ギムナジウムは、光煌でいう中高一貫校ですね。
弟はシターくん、近所の小学校に通っていた8歳の子です。
2人は王城区の孤児院に預けられて、ジマくんは授業料があらかじめ払われていたので継続して登校できていますが、
シターくんは小学校が遠くなってしまったために、転校を余儀なくされました」
「…………大変だろうねえ、まだ親の助けが必要な時に」
「ああ、苦労されているだろう…………」
掲示された資料に目を通し、2人は頷いた。
「わかった。我々としても、人々の安全が脅かされるなら、できることは協力したい。
今後も定期的に伺おう、情報をまとめておいてほしい」
「ありがとうございます。無理はしないでくださいね」
司書に礼を言い、2人はギルドを後にした。
+++
バザールに戻ると、ライテルとセリンが困った顔をしていた。
「どうした?」
「ああユバ、おかえりなさい。あのね、こちらのお客様なんだけど…………」
「どうかしたのかい?」
ライテルが一歩横にさがり、お客のいる方を手で指し示した。
そこには、ひとりの少年が緊張した表情で4人を見上げていた。秋物のキルトを着た、グロワール白人らしいブロンドの髪を短く切った少年だった。セリンが案内した。
「お客様。こちらが、私たちリフ・カーフィラのリーダー、ユバです」
「ご来店ありがとうございます、ユバと申します。お客様、何をお探しですか」
ユバは少年に目線を合わせて膝をつき、少しだけ口角を上げ、柔らかい表情で話しかけた。少年は少し安心した顔をすると、あの、と切り出した。
「オレ、ジマといいます。あの…………魔物を、退治してほしいんです!」
「!」
衛士とユバは、名を聞いてわずかに表情を変えた。ジマ。スノーベアに両親を殺害された少年の名前。先ほど聞いたばかりだった。
「オレの父さんと母さん、町に入ってきたスノーベアに殺されて…………カタキを討ってほしいけど、普通の冒険者には倒せないって聞いて…………
でも、リフ・カーフィラって、強いんでしょ?!お願い、お金はないけど、できることはするから!スノーベアを、退治してほしいんです!!」
少年・ジマは必死の表情でユバたちに訴えかける。その表情は、親を殺害されて、悲しくて、悔しくてたまらない、といった様子だった。
ユバはその真剣な表情を見て、ひとつ頷いた。
「…………承知いたしました。ひとまず、中で詳しくお話を聞かせていただけますか」
「はいっ!」
ジマは力強く頷いた。
「ありがとうございます。セリン、ライテル、中へ。衛士さん、店を頼んでいいか」
「ええ」
「了解!」
「ああ、わかったよ」
ユバは立ち上がり、ジマを店の奥へと案内した。
+++
セリンがお茶を淹れ、席についたジマに差し出す。リラックスできる効能のあるハーブティーだ。金の水色が広がるカップから、花の香りがふんわりと立ちのぼった。ユバとライテルにもお茶を差し出し、ユバがありがとう、と短く礼を言った。
「…………さて、ジマ様。
実は先ほど、私もお客様のことを伺いました」
「えっ…………」
「昨夜、町に入って人を襲ったというスノーベアの話を耳にし、先ほどギルドで情報を仕入れたばかりでした。
私どもはあくまでもキャラバン、商隊です。本来なら魔物の退治は冒険者の仕事ですが、町や人々の安全が脅かされるなら、我々としても力の限り協力する方針です。
我々の力が役に立つなら、スノーベアの退治にも協力したい。リフ・カーフィラとしては、そう考えております」
そう説明すると、ジマは顔を輝かせた。
「ただし。そのためには、正確な情報が必要です。
ご両親を亡くされて、心中如何ばかりかと存じますが、いま一度詳しいお話を、ジマ様の口から伺いたい。よろしいでしょうか」
ユバの話に、ジマは強く頷いた。
「はいっ、大丈夫です!!」
覚悟を決めたその表情を見て、ユバもひとつ頷いた。
「ライテル、記録をとってくれ」
「はいよー」
ライテルがノートを取り出して、記録の体勢に入る。ユバはお茶を一口飲んで、では、と切り出した。
「…………つらいことかと存じますが、ジマ様がその時見たことを、話していただけますか」
ジマはこくりと頷いた。
「はい。
…………10月8日、今から1週間くらい前の、夜中でした。
オレは自分の部屋で寝てました。弟のシターも、ぐっすり寝ていました。
下の階から大きな音がしたような気がして、騒がしいな、と思って目が覚めました。時計を見たら、1時くらいでした。
そんな夜中に目が覚めたことはなかったので、まだ寝たい、と思いました。
でも、下の階から魔物のような雄叫びと、父さんと母さんの叫び声がして…………びっくりしました。
飛び上がって、下に降りて…………そしたら、途中から階段が、真っ赤になっていました。
階段の先のリビングを見たら…………父さんと母さんの、頭が、転がってて…………体が、つぶれていました…………
床が、ぐちゃぐちゃになってて…………その先に、大きな大きなクマがいました…………
暗かったけど、外の街灯でクマだとわかって…………体中、血で真っ赤になっていました…………
クマは、たしかにオレの方を見ました。でも、オレには何もしないで、そのまま入り口から出ていきました。
入り口はクマが壊したみたいで、大きな穴が開いていました」
その時のことを思い出し、ジマは顔を青くした。セリンがその背をさすり、お茶を勧める。ジマはお茶を啜って、なんとか落ち着こうとした。
「それっきり、スノーベアが町に入ったって話は、聞きません。
あの時、オレはどうしたらいいかわからなくて、その場で固まってて…………
そのうち軍の人がきて、どうしたんだって話しかけてくれて…………
そして気が付いたら、シターと一緒に孤児院にいました。ときどき軍の人が訪ねてきて、その時のことを話してくれって、何度か話しました。
…………でも、あとから、どうしてスノーベアは父さんと母さんを殺したのか、許せない気持ちがいっぱいになってきて…………
誰かに、退治してほしくて。でも軍は何かを調べていて、冒険者も太刀打ちできないって言ってて…………
昨日、リフ・カーフィラがグロワールに着いたって聞いて、リフ・カーフィラならって思って、ここに来たんです。
リフ・カーフィラはとっても強いキャラバンだって、聞いたから…………」
ひととおり話して、ジマはお茶を一口含んだ。ユバはまっすぐジマの顔を見て、言った。
「…………つらいことをお話しいただき、ありがとうございます。
軍が調べているのは、おそらくスノーベアの背後にいる可能性がある何者かについてです」
「はいご…………」
「ひらたく言えば、誰かがスノーベアに、ジマ様のご両親を殺せ、と命令したかもしれない、ということです」
「…………!」
「スノーベアは、それなりに頭のいい魔物です。人や、自分よりも強い魔物の命令を聞いて、それを実行するだけの知能はあります。
しかし、それには当然、何か理由がございます。ジマ様のご両親が、誰かから恨みを買っていたか、あるいは別の可能性があるのか。
軍から、ご両親について聞かれませんでしたか?」
「き、聞かれました。父さんと母さんはどんな仕事をしてるかとか、誰かから恨まれてなかったかって…………
オレ、何も知らなくて…………父さんは印刷工場で、母さんは郵便局で働いてるってことしか、わかんなくて…………
軍に家の中とか見てもらって、住んでた家も今は軍が管理してるって、孤児院の人が言ってたんですけど、軍からは何も言われてなくて…………」
ユバは考えながら、ジマの話に耳を傾けた。セリンがユバの方を向いて口を開く。
「この様子だと、ご両親を洗うのはイマイチなのかしら」
「ああ、そうかもしれない。軍が手間取っているのを見ると、ご両親はおそらくシロなのだろう。
一度、軍に話を聞いた方がいいだろうな」
考え込んでいたユバは、そのままセリンに言った。
「セリン、契約書の用意を」
「はい」
ジマはハッと目を見開いた。
「では、ジマ様。スノーベアの件につきまして、正式に調査を承ります。
調査の結果、必要とあらば、スノーベアを討伐しましょう」
「…………すぐには、討伐しないんですか?」
「ええ。今回の場合、スノーベアは誰かの命令を受けている可能性があります。
うかつに討伐してしまえば、その命令主の正体がわからなくなります。
万が一、ジマ様のご家族に対して何か恨みを持っている人がいた場合、今度はジマ様自身や、弟のシター様の命が狙われる可能性もあります。
ご自身やシター様の命を守るためにも、今は焦らず調査をすることが重要と考えます」
「…………そうかも…………」
つい気が焦りそうになったジマは、シターの名を聞いて思いとどまった。自分のことはいいが、シターの命も関わるなら、ここは慎重になるべきなのだろう。
「調査の経過は、都度報告いたします。
こちらは、ジマ様と我々リフ・カーフィラとの約束事をまとめる契約書です」
「けいやくしょ…………そういえば、お金…………」
「…………そうですね。報酬ですが、金銭はいただきません」
「えっ…………!」
ジマは目を見開いた。タダ?本当にいいの?そう思ったが、ユバはただし、と付け加えた。
「調査の結果、我々が疑問に感じたことについて、ジマ様はもし知っていることがあれば、それを包み隠さず話すこと。弟のシター様がご存知のことも含めてです。
それが報酬であり、依頼をお受けする条件です」
「…………それで、いいんですか?」
「ええ。我々としても、町に入って人を襲うスノーベアの存在は見過ごせません。
公共の利益のため、力を尽くす方針です」
「そうだな。ユバがそう決めたんなら、オレたちも全力で解決するよ」
「安心して。私たち、これでもけっこう強いのよ」
ライテルとセリンがそう言って笑う。ジマは顔を輝かせて、精いっぱい頭を下げた。
「――――ありがとうございますっ!!」
ジマは「知っていることを包み隠さず話す」と約束し、契約書にサインした。ユバが控えを手渡し、この契約書はお互い大切に保管するようジマと約束する。ジマは孤児院の住所も契約書に記載し、もともとの生家の住所、通っているギムナジウムおよび小学校の名前と場所も渡した。生まれて初めてサインを書いた契約書の控えを見て、ジマは肩の荷がおりたような心地を覚えた。
「何かわかりましたら、孤児院へ伺います」
「ありがとうございます!!」
ジマは元気よく礼を言い、軽い足取りで店を出て行った。その小さな背中を見送って、ユバはひとつお辞儀をした。ライテルが伸びをする。
「さーて、忙しくなるな!!」
「そうね、まずは軍に話を聞くところから、かしら」
「ああ。この契約書があれば、軍からも話を聞けるだろう。軍との連携も必要だな。
スノーベアはおそらく、誰かの命令を受けている。そしてご両親がもし本当にシロなら、順当に考えればジマ様やシター様に原因がある可能性も捨てきれない」
「なーるほど。それで『包み隠さず話せ』か」
「そういうことだ。ギムナジウムや小学校にも、必要とあれば顔を出そう。学校内のトラブルが発展している可能性も…………考えたくはないが、あるからな」
「そうね、可能性としてはあるけれど、実際そうだったら残酷だもの」
「まずは、親御さんを洗うべきだな。うっし、衛士さんに言ってこようぜ」
「ああ、必ず原因を突き止めよう」
ジマの背中は、雑踏に隠れて見えなくなった。店を任せていた衛士と合流し、そのまま営業に戻っていった。
+++
翌日、ユバとライテルは王城区の軍事務局を訪ねた。安全保障課に通され、担当者・責任者が応接室に同席する。
「そうですか、ジマくんがリフ・カーフィラさんに依頼を…………
ジマくんのお気持ちは察するに余りありますし、我々としてもリフ・カーフィラさんが協力していただけるなら心強いです。
ジマくんに報酬の支払い能力はありません。代わりといってはなんですが、我々からの業務委託という形で、報酬を支払いましょう」
「お気遣いありがとうございます」
「いえいえ、ご協力感謝します」
業務委託の契約書を手早く整え、軍担当者はファイルを取り出した。
「では、手続きも終わりましたので、我々の持っている情報を共有します。ジマくんのご両親についてですね。
まず、お父様の名はケイン氏。王城区の印刷工場で働く作業員で、中でも試し刷りや印刷前の最終確認を任されていた、それなりの地位にあった方ですね。
お母様はイベラさん。王立郵便局で事務員をしていました。共働きの、なかなかに裕福な家庭です。
軍で調べた限りでは、両親とも職場での人間関係は良好で、これといったトラブルも見受けられません。
2人の仕事ぶりは職場内でも評判で、上司からも信頼されていたようでした」
「そうですか…………とはいえ、人間関係のトラブルがあった場合は、問題がかなり根深いことも考えられます。
表面化していないだけで、何かがある可能性も捨てきれないですね」
「ええ、その可能性はあるでしょう。人は訃報を聞いた時、だいたいは『いい人だった』と言うものですから。
職場関係は、継続して洗っている最中です。
軍の担当は職場洗いに人手の大半が割かれてしまうので、リフ・カーフィラさんにはいちど、北の雪原を調べてほしいと思います。
万一スノーベアが襲ってきても、リフ・カーフィラさんなら対応できると思いますので」
「承知しました。承ります」
「こちらからも、何人か担当の者をつけます。何かわかれば、都度ご報告いただければ」
軍の責任者は、手を差し出した。ユバはその手をとり、互いに約束の握手を交わした。
+++
「さーみいな…………体が固くなりそうだよ」
雪原を進みながら、ライテルは身を縮こませた。分厚いコートを着込んでいるが、それでも雪風は完全にはシャットアウトできない。鼻を赤くして、寒さをこらえていた。
「この雪原は年中こうですからね。真冬でないだけマシなくらいです」
同行する軍の担当者が頷きながら後に続く。雪の道をブーツで踏みしめながら進んでいく。雪はくるぶしが埋まる程度には深かったが、真冬の吹雪でないだけずっとマシだった。晴れた空に浮かぶひかえめな太陽が、雪を少しだけ溶かして固める。人跡未踏の新雪を踏みしめると、半分固まった雪がシャリシャリと砕ける感触がした。
「衛士さん、その格好で寒くないの?」
手袋をはめた手を温めながら、セリンが振り返る。ついてくる衛士は一見、いつもと変わらない和服姿に襟巻を巻いたくらいであった。
「中にけっこう着込んでるからね。これでも割と温かいよ」
「そうなのね。光煌の服装って独特よねえ」
ざくざく。雪を踏みしめて進んでいると、ふと軍の担当者が一歩進み出た。
「ここが、スノーベアの巣と思われる洞窟です」
担当者が手で指し示す。そこは山のふもとに大きな穴が開いた、天然の洞窟のようだった。真っ暗だが雪もまばらで、しんと静まり返っていた。
「ここね。けっこう深そうな洞窟ね」
「ユバ、どう?」
ライテルがユバに話しかける。ユバは洞窟の中をじっと見て、何か意識を集中させているように見えた。
「…………中には何もいないようだ。今のうちに調べてしまおう」
「りょーかい」
ユバが進み出て、灯りを点けて洞窟内へ入っていく。ライテルたち3人もそれに続き、なんの迷いもなく入っていく4人に呆気にとられていた数名の軍担当者は、はっと我に返ると慌ててそれに続いていった。
洞窟はそれなりに深いが一本道であり、迷うこともなかった。中は外に比べれば意外と温かく、ヒカリゴケがひかえめな光を放っていた。最奥には水場と寝床らしい地面を掘った跡がある程度で、洞窟の中には何もなかった。
一行は洞窟を出て、再び雪を踏み始めた。
「なんもなかったな」
「そうねえ。魔物の住処だからそんなものなのかもしれないけど」
「何か手がかりがあれば、と思ったのですが…………なかなか難しいですね」
これからどうしようか。そんなことを各々考えていると、ふと衛士が横を向いた。続いて、残りの3人も同じ方向を向く。軍の担当者たちは「?」と首をかしげた。衛士が腰の刀に手をかける。その視線を目で追うと、雪の向こうに大きな影が見えた。
白くて丸い影だ。丸の中央に、険しくにらみつける小さな目と、黒い鼻、そして大きな口から鋭いキバをむき出しにしていた。
大きなシロクマだった。明らかにこちらを見て、敵意を示していた。
「…………!!」
「出たぞ!!」
「スノーベアだ!!」
軍も剣や槍を構える。しかし、自分たちには到底かなう気がしなかった。相手はスノーベア、防御力が非常に高く、フラワシでもいない限りは倒すことが難しい魔物である。いくらリフ・カーフィラでも、スノーベアが相手なら太刀打ちできないのでは?そんな不安が脳をよぎった。
しかし、リフ・カーフィラはお構いなしに、武器を構える。ライテルは短剣を抜いて両手に構え、セリンは背中に槍を背負ったまま身構える。どうやら肉弾戦で応じるようだ。衛士はユバのそばでいつでも抜刀できるように構える。そしてユバは余裕のある立ち姿で、丸腰のまま佇んでいた。
スノーベアの左腕には、よく見ると黒いシミのようなものがこびりついていた。それを見た全員が察した。あれは血痕だ。落としきれなかった血痕だ。このスノーベアが、問題の夫婦を殺したのだ。
「ホシが出たぜ!」
「ユバ、ちょっと足場が悪いわ。整えてもらっていい?」
「ああ、まずは私がいこう。みんなは下がっていてくれ」
3人は身構えたまま待機する。スノーベアがひとつ咆哮をあげ、自分たちに向けて突進してきた。軍に緊張が走る。その時、風が吹いた。
風の方を向くと、ユバが顔の前に左手を掲げ、何か力をこめているように見えた。左手の中指にはめた指輪の青い宝石が妖しく輝く。ユバの周囲で風が渦を巻き、ただならぬ気配を醸し出す。長いターバンが風に揺れてゆらゆらとたなびく。軍はその気配に驚いて視線を奪われた。
スノーベアが5mほどまで接近した時、ユバは左手をさっと振りかざした。すると、滝が流れるような音とともに水蒸気が巻き起こり、全員の足場が少し沈んだ。
「なっ?!」
軍は驚いて声をあげた。足元を見ると、周囲の雪が一瞬で溶けて蒸発し、茶色い地面が顔を出していた。辺りを見渡すと、半径10mほどの周囲の雪が一瞬で姿を消していた。スノーベアが驚いて、一瞬足を止める。そのスキにユバは左手を上に掲げ、そのまま勢いよく地面を指さすように振り下ろした。地響きがする。何かが近づいてくるような地面の揺れ。その直後、前方に僅かな熱気を感じたかと思うと、次の瞬間には轟音とともに巨大な火柱が勢いよく立ちのぼった。
火柱はスノーベアの足元から吹き出し、そのままスノーベアを包み込んでまっすぐに貫いた。スノーベアの悲鳴が轟く。火柱は天高くのぼり、凄まじい熱気が辺りに渦巻く。ライテルの眼前を火の粉が舞った。軍の担当者たちは、その光景に目を疑った。間違いない。これは『魔法』だ。自分たちも、実際の魔法をこの目にするのは初めてだった。この世界における魔法は、滅多に見られない貴重な『奇跡』だ。増して、これほどの火柱を発生させる魔法を使える者など、世界にどれほどいるのだろう。
目の前にいる、このターバンを巻いた男性とも女性ともわからない中性的な顔立ちの、このリーダーは紛れもない、
(――――フラワシ!!)
火柱がおさまり、轟音と熱気が身を潜めていく。焼け焦げた地面の中央で、スノーベアはふらふらとたたらを踏んだ。白い毛は焦げて黒くなり、その皮膚の隙間から、体内の魔法の氷が溶け出した水分が汗のようにどろどろと流れ出る。スノーベアはぜえぜえと息をして、その場から動けないようだった。
「よっしゃ、チャーンス!仕留めるぜ!!」
「いっくわよー!!」
ライテルとセリンが駆け出す。スノーベアは動けない。真っ先に飛びついたのはライテルだった。風のような速さで距離を詰め、手にした短剣で踊るようにスノーベアを斬りつけた。スノーベアの厚い皮膚が裂け、体内の水が鮮血のように溢れ出す。続いてセリンが思いっきりハイキックをぶつけた。バキリ、と氷が割れる音がする。スノーベアが苦しそうなうめき声をあげた。ユバのそばに控えていた衛士が駆け出し、刀に手をかける。狙いを定め、スノーベアを一撃で仕留めるべく急所を見抜く。軍は色めき立った。さすがはリフ・カーフィラ、これで倒せる!
しかし衛士が刀を抜き、斬りつける直前、ユバははっとして声をあげた。
「衛士さん、待て!!」
「!!」
衛士の刃が、スノーベアの皮膚のギリギリ前でぴたりと止まる。ピンと張り詰めた空気が流れた。スノーベアは動かない。衛士は抜いた刀をおろし、ユバを振り返った。
「ユバ君?!」
ユバはスノーベアのもとまで駆けてくる。と、背後からとことこと足音がした。
「待って!待ってください!!」
子供の声がした。全員が声の方を向く。
そこにはスノーベアに駆け寄る、ひとりの少年がいた。黒い髪の冴えない雰囲気をした、12歳程度の子供だった。子供はスノーベアに駆け寄ると、その体を揺さぶった。
「しろくまさん!しろくまさん!!だいじょうぶ?!」
「…………グルル…………」
スノーベアは唸っているが、腕などを動かす力はないようだった。少年はユバを見上げて言った。
「あの!フラワシ様なんですよね?!お願い、しろくまさんを治して!!もう襲ったりしないから!!」
「…………?!」
ユバは驚いた顔をしたが、すぐに頷いて、スノーベアに手をかざした。
スノーベアの体が淡く輝く。傷口が目に見えて塞がっていき、溢れ出る水が止まり、体内で氷が再形成されていく。スノーベアはグルルと一声唸ると、後ろ足で立ち上がり、少年を守るように後ろについた。もう、敵意はないようだった。
「…………どういうこと?!」
セリンは驚いて、顔に手をあてた。ライテルもぽかんとしている。衛士はそっと刀を納めた。少年は慌てたように言った。
「あの、ごめんなさい!しろくまさんも、本気で襲う気はなかったんです」
「…………。詳しく、お話を聞かせていただけますか」
ユバが少年に膝をついてそう言うと、少年はこくこくと頷いた。
「あの、ぼく、カルルといいます。こっちは、しろくまさん。ぼくの、大事なともだちです」
カルルと名乗った少年は、しろくまさんと呼んだスノーベアの腹によりかかって座っていた。腰をおろした一同は、驚きを隠せなかった。しろくまさんはカルルの背もたれにでもなるかのように、ゆったりと腰をおろしていた。
「…………ともだち?魔物と?」
セリンがびっくりして言うと、カルルはうん、と頷いた。
「しろくまさんは、ここで出会ってからずっと、一緒に遊んでくれてるんです。
ぼくの、だいじなともだち。強くて、カッコよくて、優しいしろくまさんなんです」
しろくまさんの大きな手が、カルルの肩をぽんぽんと撫でる。どうやら本当に、仲が良いようだった。
「ぼく、ギムナジウムに通ってるんですけど、ともだちがいなくて。一緒にいてくれるのは、しろくまさんだけなんです。
しろくまさんは、この雪原にくると、いつも一緒に遊んでくれるんです。
背中に乗せてくれたり、お魚をとってきてくれて、一緒に焼いて食べたり。とっても優しいしろくまさんなんですよ」
「…………そうでしたか。友人とはつゆ知らず、手をあげてしまい、申し訳ございませんでした」
ユバが謝罪すると、カルルは慌てて首を振った。
「いいんです、いいんです。ぼくも、しろくまさんを倒せる人がいるとは思ってなくて。おどかしたぼくたちも悪いんです。
しろくまさんがおどかせば、また帰っていくかなと思って…………まさかリフ・カーフィラさんのリーダーがあんなに強いフラワシ様だなんて、思ってなくて」
「……………………」
ユバは少し考えた。しろくまさんの左腕には、やはり黒いシミがこびりついている。ユバは口を開いた。
「…………こちらのしろくまさん、左腕にシミがございますね」
そう言うと、カルルはああ、と言った。
「…………えっと、しろくまさんが人を襲ったことについて、ですよね」
「ええ。…………ご存知なのですね」
「はい。でも、しろくまさんは悪くありません。
しろくまさんは、ぼくの願いを叶えてくれたんです」
「…………願いを?」
衛士が聞き返すと、カルルはうれしそうに笑った。
「はい!しろくまさんはぼくの代わりに、悪いやつを成敗してくれたんです」
カルルは事情を話した。
カルルは通っている王城区のギムナジウムで、ひどいいじめに遭っていた。主犯は、同じクラスのジマ。グロワール白人のくせに髪が黒いという理由で、無視や陰口をしたり、ものを隠したり、裸に脱がして仲間と笑ったり、ゴミをぶちまけたり。そのようないじめを、毎日のように行っていたという。親や教師に訴えても知らん顔で、むしろゴミをぶちまけられて汚い、臭いと言って近寄らなかった。カルルは毎日泣いていた。親や教師もあてにならず、助けてくれる友達もおらず、死にたい、逃げたいと毎日のように願っていた。
ある日、町を出て雪原に入り、そこで雪に埋もれて死のうと考えた。町を出れば、外には魔物がいる。魔物が自分を食べてくれるだろうと思い、カルルは雪原に足を踏み入れて、雪のど真ん中で仰向けに身を投げた。雪の冷たさを心地よく感じていた頃、自分の目の前に1匹のスノーベアが顔を出した。しろくまさんだった。ああ、このスノーベアが自分を食べてくれる「死」なんだ。救われたような気持ちになった。しかし、しろくまさんはいつまで経ってもカルルを牙にかけなかった。
しろくまさんはカルルの顔をしばらくじっと見ていると、雪を掘り起こし、カルルの体の下に顔をかけ、自分の首の上にカルルを乗せた。カルルは驚いて、そのまましろくまさんの背中に乗った。そうしてそのまま、しばらくしろくまさんの背中に乗って、雪原を歩き回った。ゆったり、ゆったり、のしのしと歩くしろくまさん。その背中に揺られて、カルルはだんだんと泣き出した。しろくまさんが自分を気遣って、なぐさめてくれているように感じた。溢れる涙を拭っていると、しろくまさんは自分の背中からカルルをおろして、カルルの背中を撫でてくれた。カルルはしろくまさんにすがりついて、泣きじゃくった。冷たいはずのしろくまさんは、何故かとても温かく感じた。
それから、カルルは学校から帰ると必ず雪原に寄っていった。グロワールには、今は人の寄り付かない地区があり、その地区の塀に大きな穴が開いていた。そこは兵士も見回りに来ない場所。カルルはそこから雪原に出て、毎日しろくまさんと遊んだ。カルルはつらいことがあると、しろくまさんに全部ぶちまけた。今日も服を脱がされた、裸で廊下を走らされた、頭からゴミをかぶせられた、大事なノートを燃やされた。しろくまさんに泣きついて、そのたびにしろくまさんは、大きな手で背中を撫でてくれた。しろくまさんに抱きつくと、ふかふかの毛が気持ちよかった。しろくまさんだけが友達だった。そして、カルルはしろくまさんに言った。「ジマに復讐したい」
「しろくまさんは、それを叶えてくれたんです。ぼくのために、ジマの家を探し出して、ジマに復讐してくれたんです。
ジマに死ねとは思わなかった。ジマもぼくと同じように、生きたまま苦しみを味わってほしかった。
それを、しろくまさんは叶えてくれた。ジマの両親を殺して、ジマに復讐してくれたんです。
だから、しろくまさんは悪くありません。悪いのは、全部ジマなんです」
ね、しろくまさん。カルルは無邪気にそう笑った。しろくまさんはカルルの顔を、何も言わずに見下ろしていた。
ユバは、カルルの顔をじっと見ていた。その視線を感じて、カルルも向き直った。
「…………ぼくが、悪いと思いますか」
その問いに、ユバは頷いた。
「ええ。どのような理由であれ、人の命を奪うのは、許されないことです」
「じゃあ、ぼくはどうしたらよかったんですか」
間髪入れず、カルルは言った。
「親も先生も助けてくれない、友達だってあてにならない。軍はこんなことで動いてくれない、冒険者に頼むにはお金がないとダメ、じゃあどうしたらよかったんですか。
ぼくが死ねばよかったんですか。人の命を奪うのはダメなんでしょ?ぼくの命は、どうだっていいんですか?!
ぼくは人じゃないっていうんですか?!ぼくは人権も何もない、ジマの言うとおり、ただのゴミクズなんですか?!
どうしてぼくだけ、ゴミなんですか?!ぼくが何をしたんですか?!そこの光煌の人だって髪は黒っぽいのに、なんでグロワール人なのに黒いからって、こんな目に遭わなきゃいけないんですか?!
どうしてぼくばっかり、ガマンしなきゃいけないんですか?!どうしてジマは守られて、ぼくは守られないんですか?!
大人って、いつもそうですよね!!ぼくたち被害者が死んでから動く!!ぼくたちだって、生きて幸せになりたいのに!!
どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんですか?!ぼくは、どうしたらよかったんですか?!」
カルルはユバたちに、秘めた憎しみをたたきつけた。行き場のない怒りや復讐心をむき出しにして、見る者すべてを傷つけるかのように、心の刃を振りかざした。
セリンたちは言葉を失っていたが、ユバはその言葉を最後まで聞くと、すっと立ち上がり、カルルの前へ歩み寄って膝をついた。そして、その手をとって、魔力をこめた。カルルの体が淡く光る。カルルの体が温かい何かに包まれて、落ち着きを取り戻していく。そのまま、ユバは言った。
「カルル様。あなたに必要なのは、復讐ではありません。
あなたの傷が、癒されることです」
ユバは柔らかく、しかしまっすぐにカルルの目を見て言った。
「しろくまさんに話をする、しろくまさんと遊ぶ、学校から逃げる、拝火神殿へ行く、外の大人に少しでも助けを求める。
そうして外部に助けを求めて、傷を癒してもらう権利が、あなたにはあります。カルル様はゴミクズではない、れっきとした人間なのですから。
あなたに必要なのは、傷を癒してもらうこと。心のケアと、傷が癒えるまでの時間です。
復讐では、傷は癒えません。むしろ溝は深くなるばかりで、後から復讐が復讐を呼び、惨劇につながります」
「…………じゃあ、ジマのことも、許せっていうんですか」
「許さなくていい」
「えっ…………」
カルルは目を見開いた。ユバはそのまま言った。
「自分に危害を加えた者のことを、許す必要はありません。
あなたの傷が癒されて、許したいと思った時に許せばいい。許せないと思うなら、許さなくていいのです。
たしかに、ザラスト教の聖典にも、『数えられる罪は許せ』とあります。
しかし、『数えられない罪』については、言及されていない。
数えたくもないような大きな罪については、許さなくていいのだと、ザラストの司祭たちは教えているのです。
許す、許さないは個人の自由。他人に『許せ』と指図できる権利など誰にもありません。
カルル様。あなたはご自身が思っている以上に自由で、世界はあなたのために開かれています。
あなたは世界に助けを求めて、傷を他人に癒してもらう。その権利があるのです。権利を持っているのです。
あなたは、人間なのです。人権を持った、ひとりの人間なのです。それを、どうか覚えていてください」
ユバは一言一言、諭すように言った。カルルの心に、その言葉がすとん、すとんと落ちていく。許されたような気がした。自分の傷を、苦しみを、受け入れてくれたような気がした。
「…………カルル様。あなたはこれから、ご自身の罪を償います。
どのような事情があれ、ジマ様のご両親の命を奪ったことには変わりありません。しろくまさんを介して彼らの命を奪ったのは、あなたなのです。
その罪は、償わなければならない。あなたは人間なのです。傷を癒される権利もあれば、罪を償う義務もある」
「……………………」
「しかし、同時にあなたは、耐えきれないほどの傷を負っています。
それは、今後時間をかけて、周囲の人に癒してもらうのです。
それが、今のあなたの、やるべきことと存じます」
カルルは、しばらくぼうっとユバの顔を見上げていた。やがて、ほろり、ほろりと涙を流し、ユバの細い体にしがみついた。ユバは余裕をもってそれを受け止め、その背中を優しく撫でた。
「…………もう少し早く、ユバさんに会いたかったです」
カルルはそう言って、泣きじゃくった。
+++
カルルは軍に引き取られ、留置所に連行された。しろくまさんはカルルを見送り、雪原へ戻っていった。
ユバたち4人は孤児院へ赴き、ジマに事の仔細を報告した。ジマは最初、カルルへの憎しみを露わにしたが、ユバが諭すと、だんだんと覇気をなくしていった。
「………オレの、せいなんですか」
「あなたがカルル様をいじめなければ、このようなことにはならなかった。そう言うこともできるでしょう。
ジマ様。なぜ、カルル様にそのようなことを?」
孤児院の庭のベンチに腰かけて、ユバはゆっくりとジマに問いかける。ユバの隣で、ライテルが記録をとっていた。
ジマは、ぽつり、ぽつりと言った。
「…………軽い、気持ちでした。カルルのリアクションがおもしろくて、オレたちも、遊んでるつもりでした。
だって、そうでしょ。いじられたら、笑ってノらなきゃいけないんです。芸人だって、みんなそうしてるじゃないですか。ボケてずっこけて、笑いをとって。
真面目に泣いて、被害者ぶってるのが悪いんです。だってオレたちは、いじめてるつもりなんてないんだから。
オレたちは、ただ遊んでただけです。遊ぶのは、いけないことなんですか」
ジマはいじけたようにそう言った。ユバはふるふると首を振った。
「…………少なくとも、人を泣かせるようなことは、してはならないと存じます」
「う…………」
ジマは真正面からそう突かれて、言葉を失った。
「で、でも、オレは遊んでるつもりでした。悪気なんてなかったのに」
「…………たしかに、あなたには自由に遊ぶ権利はあります。
しかし、人を傷つけていい権利は持っておりません。
あなたの行為で相手が泣いたり、嫌な顔をしたら、それはやめなければならないのです。
あなたの行為は明らかにやりすぎです。カルル様の心を傷つけ、死にたいとまで思わせた。
そして結果的に、ご両親を失ってしまった。それはあなた自身の行いが、返ってきた結果です」
「……………………」
ジマはしょんぼりと肩をすぼませた。
「…………カルル様は、ご自身の罪を償う決心をされました。
今度はあなたが、ご自身の罪を背負う番です」
そこまで言ったところで、孤児院から大きな音がした。
「うわっ?!」
「なんだ?!」
全員が驚いて孤児院の方を向く。孤児院の裏口から、子供たちが続々と逃げ出してくる。叫び声があちこちから聞こえる。大人たちの慌てた声がした。
「出たぞー!!」
「スノーベアだ!!」
「孤児院に突撃してる!!」
「みんな逃げろ!!」
その声に、5人ははっとした。
「スノーベア?!」
「しろくまさんか?!」
「まさかしろくまさん、カルルくんの願いを叶えようとして…………!!」
「…………ということは!」
ユバは目の前のジマをばっと見た。しろくまさんの目的――――『カルルを守る』『ジマへの復讐』すなわち『ジマを確実に仕留めること』!!
孤児院の裏口が派手な音を立てて破壊される。その穴から巨大なスノーベアが咆哮をあげて飛び出した。左腕に黒いシミ。間違いなく、しろくまさんだった。
すかさず衛士がジマを庇うように立ちはだかった。ライテルとセリンも身構える。裏口から逃げていく子供たち、そのひとりを見て、ジマははっと声をあげた。
「シター!!」
ジマは声の限り名前を呼んだ。呼ばれた金髪の子供は、ぱっとジマの方を向いて、そちらに向かって走り出した。
「にいちゃん!!」
「シター!!こっちだ!!」
しろくまさんはその声を聞き、ジマとシターに狙いを定めた。ユバが魔力を高め、左手を振りかざす。四足歩行で突進しようとしたしろくまさんの両手足が凍り付き、しろくまさんが動きを止めた。
「ど、どうする?!しろくまさんって説得できんのか?!」
「人語は理解している、説得は可能だろう!とにかく、落ち着かせるぞ!」
しろくまさんは力をこめて、足元の氷を破壊した。咆哮をあげて、逃げるシターめがけて突進してくる。速い。全力の突進は人間の子供のそれよりずっと速く、シターはあっという間に距離を詰められた。懸命に逃げようとして、シターは足をもつれさせた。そのまま転んでしまい、勢いよく地面に顔をぶつけた。しろくまさんがシターへツメを振り上げる。ジマの叫び声がした。ユバが魔法を使おうとした。
「しろくまさん!!」
その時響いたその声に、ぴたり、としろくまさんが手を止めた。シターは死を覚悟して、ぼろぼろと泣きながら縮こまっていた。
しろくまさんは手をおろし、きょろきょろと辺りを見渡した。そして背後を振り返ると、しろくまさんめがけてカルルが駆け寄ってきていた。軍の担当者たちが控えている。騒ぎを聞きつけて、カルルを召喚したらしい。
「しろくまさん、もういいんだ!もう、ぼくの願いごとは叶えなくていいんだよ!!」
カルルはそう言って、しろくまさんに抱きついた。しろくまさんはグルル、と唸って、カルルの背中をそっと撫でた。
「…………カルル」
ジマが、そっと歩み寄った。カルルは憎しみをこめた目で、ジマをにらみつけた。
「…………ジマ。ぼくはたしかに、しろくまさんにお前の親を殺してほしいと願った。
でも、ぼくばかりが罪を背負うのは嫌だ。
お前がぼくをいじめたことを認めないなら、ぼくは死刑になってでも、お前と弟を殺すことをしろくまさんに願うよ」
しろくまさんは、ジマを見定めるようにじっと見ていた。シターは立ち上がり、一目散に衛士のもとに駆け寄ってしがみついた。
ジマはそれを聞いて、しばらく視線を落としていたが、やがてカルルに頭を下げた。
「…………ごめん」
カルルは、その頭をじっと見ていた。
「…………本気で言ってる?命乞いじゃなくて」
「そのつもり。ユバさんから、ぜんぶ聞いた。
オレはたしかに、そんなつもりはなかった。遊んでるつもりだったけど…………
カルル、お前にとっては、オレの父さんと母さんにしたのと同じくらい、それ以上に、つらいことだったんだって」
「……………………」
「…………オレは、両親を殺したお前を、許せない。
でもオレも、オレのした罪を償う。
お前がどうしても許せないなら、しろくまさんに願って、オレを殺しても構わない。
でも、シターにだけは、手をあげないでくれ。シターは、何も悪くないから」
カルルはじっと、ジマを見ていた。やがてしろくまさんのもとから離れ、ジマに歩み寄ると、そっと手を差し出した。
「…………約束、してくれる?お互い、罪を償うって」
ジマは顔をあげて、ゆっくりと頷き、その手をとって握手を交わした。
「ああ、約束」
+++
カルルの願いで、しろくまさんは討伐されることはなく、雪原に帰された。
カルルはジマの両親を殺害したとして裁判にかけられた。少年が大人を惨殺した例は過去になく、一連の事件は新聞で大きく取り上げられ、子を持つ親たちを震撼させた。カルルは大人たちと同じ刑務所に入り、罪を償うことになった。
一方で、ジマもいじめの主犯として、それなりの罰を受けることになった。ギムナジウムがいじめについて綿密な調査を行い、いじめに同調した者とともに、いくらかの仕事を言い渡した。本来なら退学ものだったが、カルル自身の願いで退学は免れた。ジマもきちんと反省して、以降は態度を改めてギムナジウムの仕事にとりかかっているという。
リフ・カーフィラは借りた建物の居間でお茶を飲みながら、一日の仕事を終えてくつろいでいた。
「いじめっていうのは、どこにでもあるものなのね」
「そうだなあ。どこにでもあるけど、根深いっていうか、なんてーか難しいよな」
「人の数だけパターンがあるからね。今回は人の命が犠牲になって大事件になったが、当の本人たちは互いに罪を償って、前に進もうとしている。ただただ、ご両親の死だけが悔やまれるな」
「そうだな」
コンコン。玄関の扉がノックされた。セリンが立ち上がって玄関の扉を開けると、そこにはジマとシターがいた。
「あら!」
「あの、ユバさんいますか。契約のことなんですけど」
「ええ、どうぞ!お入りください」
セリンが2人を中へ入れる。2人とも、晴れやかな顔をしていた。
「あの、ユバさんに、お礼を言いにきました。
キャラバンはしばらくしたら、またよその国に行くって聞いたから、今のうちにって」
「ありがとうございました!!」
そう言って、2人で頭を下げた。ユバはそっと口角を上げて、柔らかく微笑んだ。
「契約は、無事満了ですね」
「はいっ!リフ・カーフィラに頼んで、本当によかったです!!
しろくまさんの退治は、なしにしてください。カルルの、だいじなともだちですから」
「承知しました。では、最後の手続きをいたしましょう」
2人を席に座らせて、契約の完了手続きを行う。内容を確認してサインを交わし、控えを受け取って、ジマは笑った。
「これからは、オレも自分の行いを改めます。
みんなに教えてもらって、ちょっとずつ、成長していきたいです」
「うん、その意気だよ。その顔なら、もう同じ失敗は繰り返さないね」
「はいっ!!」
衛士の言葉に、ジマは元気よく返事をした。その表情に、もう迷いはなかった。
「オレもいつか、リフ・カーフィラみたいに、誰かの力になれる人間になりたいです!!」
「にいちゃんみたいに、カッコよくなるんだ!!」
「あはは!にいちゃん好かれてんじゃん!!」
「そのまま突き進むのよ!曲がっちゃダメだからね!」
「はいっ!!」
4人と2人で、笑い合う。ジマとシターはもう一度礼を言うと、笑顔で店を出て行った。
「彼らなら、もう大丈夫だろうね」
「ああ、今後の成長が楽しみだ」
衛士の言葉に、ユバは穏やかに微笑んだ。
+++
グロワール王国、北の国境。
雪原から国境をじっと眺める、1匹のスノーベアが目撃された。スノーベアは何をするでもなく、ただじっと国境の門を見つめて、何かを待っているように、そこに座っているのだった。
門番の兵士が近づいて、スノーベアに話しかける。スノーベアは、襲ってこなかった。
「…………しろくまさん、かい?」
スノーベアは兵士を見つめる。
「カルル君なら、もう戻ってこないよ。
カルル君は自分の罪に向き合っている。これからは自分の足で、前に進んでいくんだ。
カルル君から伝言だよ」
兵士はスノーベアを見上げて言った。
「『ありがとう、しろくまさん。もう大丈夫だよ』」
スノーベアは、しばらく兵士を見下ろしていた。
しかし、のそりと腰を上げ、のしのしと踵を返すと、雪原の向こうへゆっくりと姿を消していった。
それっきり、スノーベアは、二度と姿をあらわさなかった。
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