第3話 本当の前世
私はその日、男子と男の境目が分からなくなった。
学校では結構明るい私だけれど、本当はインドア派のアニメオタク。
初恋だってマンガの中で経験したし、実在する人物に恋をした事が無かった。
口から生温い息を吐く人間に恋をするのは少し怖い。
人間は何を考えているか分からないから。自分に向けられた笑顔も、こっち見んなブス、とか思いながら作った笑顔なのかもしれないと考えてしまうから。
だから恋は出来ない。
そんな私が恋をした。
相手は教師でも、クラスの男子でもなく、とあるコスプレイヤーだった。
彼のコスプレは忠実な再現、その一言に尽きる。
それは最もオタクを味方につける要素だった。
画面を通して私を見る彼女の眼差しは、まるでキャラそのものに見つめられているようだった。
それは魔女のキャラだったし、綺麗な顔立ちをしていた為私は疑問を持たずにその人を女だと思っていた。
しかしプロフィールを見て私は驚く。
その人は女装を専門としているレイヤーだったからだ。
ショックよりも先に、感心が私の脳に滑り込む。
こんなに性別を感じさせないコスプレがあっただろうか。
私は益々彼が好きになった。
叶わない恋というのは薬物のようだと思う。
彼の写真を見れば幸せな気持ちになって、彼が生きている事実以外何もいらないと心から思う。
しかし少し時が経てば彼と私は結ばれるはずがないという現実を突きつけられ、心臓を縄で縛り付けられるような感覚になるのだ。
その感覚は本当に辛いのに、また彼の顔を見ればどうでも良くなってしまう。
私は馬鹿だと自覚しつつも、恋というのは私にとって諦められるものではなかった。
好きな人の事だと敏感になる、というやつだろうか。
放課後だった。
立ちながら満員電車に揺られていると、前の人がいじるスマホの画面に目がいった。
前に立つ貴方はあの人のブログを見ていた。
私は思わず笑顔になる。
数人しかフォロワーが居ないようなあの人のファンが、こんなに近くに居たなんて。私は常識人なので話しかけたりはしないけれど、心臓にカイロを貼り付けるように、心がじわじわと温まるのを感じた。
しかしそのカイロがすっと冷えピタに変わるように。
私の心臓がひゅっと音を立てて凍る。
前の人が開いていたのは、あの人のブログの編集画面だったから。
私は反射的に下を向いた。
ずっと恋をしていたあの人が目の前に居る。
しかしその姿を見てい良いのだろうか?もし身近な人だったらどう接すれば良いのだろうか?
いや、でも彼は顔出しをしているのだ。
今更姿をファンに見られたところで問題は無いだろう。
そう思って顔を上げたのが間違いだった。
貴方は私と同じ制服を着るクラスメイトだったから。
正直に言ってショックだ。
あの猿のような笑い方をする橘が私の推しになりきって、私はそれに恋をした。
確かに綺麗な鼻筋と二重の目は似ている。
そんな事に気づいてしまったらもう終わりだ。
何に負けたかも分からないのに、訳も分からない敗北感が私の身体を蝕んだ。
翌日、橘は私にバレた事を知らないというのに、私は何故か勝手に気まずさを感じながら登校した。
誰の顔も見ないようにして教室に足を踏み入れる。
今日はいつもに比べて涼しいと朝の天気予報でやっていたはずが、この教室は熱気に包まれていた。
私は暑苦しくてブラウスのボタンを一つ外した。
席に荷物を置くと、即座に前の席の菊池が嬉しそうに私を振り返る。
「ひなの!おっはよー」
「おはよ。何かあった?」
菊池は口角を更に上げて「分かっちゃうよねぇ」とまんざらでもなさそうに言う。
「実は私、彼氏できた」
菊池は私にしか聞こえないように小さい声で囁いた。
しかし聞こえていたのだろう、菊池の隣に座る黒瀬が明らかにこちらを見たのが分かる。「へぇ!」と私はリアクションを取りつつ、ある事が気になっていた。
「......笑里、黒瀬君は?」
私は声を小さくして言ったつもりだったけれど、やはりこれも黒瀬には聞こえたのだろう。黒瀬は即座に視線を戻し、菊池は微妙に顔を引きつらせた。
この二人何かあったんだろうな、と思う。
しばらくすると、気まずそうに橘が私に寄ってきた。
彼のコスプレの写真が頭を過ぎる。
「あのさ
彼は頭に手を当ててそう言う。
知ってる?何を?
思い当たる事なんて一つしかない。
「......何を?」
私は慎重に言葉を選んでそう言った。
菊池が物珍しそうにこちらを見ているのが分かる。
「ブログ、俺の」
橘の怯える目を見た瞬間に、たくさんの思考が頭を巡った。
私がファンだとバレた?いつバレた?フォローしているのを知ってる?コスプレを絶賛してるコメントは見た?
「......うん」
私は素直にそう答える。
すると橘はため息をつき、「放課後俺の家に来てくれない?」と言った。
やむを得ない、とでも言いたげな彼の表情を見て私は不信感を覚えつつ、「良いよ」と答えた。
放課後、私はトイレの鏡で自分の姿を確認した。
ブラウスに汗がべっとりついて若干透けているのを見て、クラスの男子がいつか言っていた『夏ってエロいよな』という言葉を思い出す。
教室に戻ると橘が居た。
普段はうるさい橘はあまり女子と仲の良いタイプではない。
私も男子と関わりは無いので、少し気まずい空気をお互いに感じていた。
「じゃ、行く?」
「うん」
私はほぼ話したこともないような元好きな人の家に、今から行く。
蝉が五月蠅い。
外に出て一番初めに思ったことはそれだ。
蝉の声が私達の間に流れる沈黙を際立たせた。
「......引いた?」
少し前を歩く橘が呟くように言った。
顔は見えないけれど、きっとブログに上がっている写真とは違う、情けない表情を浮かべているのだろうと思う。
「ううん」
「そっか。......俺さ、てっきり宇月が俺を茶化してフォローとかいいねとかしてるのかと思ってたんだ」
「そもそもどこで私のアカウントを知ったの?」
頭の中で過去の投稿を必死に思い出す。
橘に見られて困るものはあっただろうか。
「数ヶ月前に電車でブログ開いてるの見えちゃって、俺のフォロワーだって分かった。俺、フォロワー数少ないから。でも昨日、何も見てくれなかったじゃん。同じ電車から宇月が降りるの見たし、バレたかもって」
「そっか」
その後彼の家に着くまで、お互いに一度も口を開く事は無かった。
彼はドアを開けて階段を上がった。
彼の部屋のドアらしきものを開けると、『男子の匂い』がした。
汗と生活感の混ざった匂い。
変な話だけれど、橘は男子なんだと思う。
橘は椅子に座ると、ベッドを見ながら「座って」と呟いた。
少し緊張しながら私は彼のベッドに座る。
橘は言った。
「俺宇月が好きなんだよな」
「え?」
「アカウントが宇月のものだって分かった時から。ずっと前から好きでしたとか、そんな格好いい台詞は持ち合わせてないんだけど。好きだったんだ」
唐突な展開に私は頭を必死に回転させる。
『もーひなのは本当に可愛いんだから。いつか変な男に騙されそうで私は怖い』
菊池の言葉が何故か頭を過ぎる。
『お前が好きだとか言って部屋に連れ込まれたら終わりなんだからね』
部屋に連れ込まれた。
一気に身体が強張るのを感じる。
「宇月、付き合って欲しい」
「......うん」
「良いのか?」
「うん」
何で自分でもこんな簡単に彼を受け入れているのか分からなかった。
でも断る理由が見当たらなかった。
彼は私の好きな人だ。
橘のコスプレは私の全てだった。
「俺さ」
橘が音を立てて椅子から立ち上がる。
「本当に好きなんだ」
ギシッ、とベッドが軋む音がした。
押し倒される。
「宇月って俺の事子供だと思ってるだろ。俺は男だ。宇月の下着が見えそうな時はムラつくし、スク水着てれば脱がしたいと思う。こんな簡単に男の部屋入っちゃ駄目じゃん、でも悪いの宇月だから」
心臓がはち切れそうだった。
これはきっとドキドキじゃない。
私は覆い被さる橘を抱きしめた。
橘の身体はゴツゴツしていて、彼の『俺は男だ』という言葉が事実だと実感させられる。
「ごめん、まだ怖い」
橘からは男子の匂いがした。
「私、橘のコスプレ大好き。いつか何でコスプレしてるかとか、どのキャラが好きとか私に全部教えて。橘は大好き。でも橘から男子じゃなくて男の人の匂いがするのは怖い」
橘の息が鮮明に聞こえる。
私は涙を堪えきれなかった。
「私、他の女の子みたいに男の人の身体ってあんまり分かんないし、怖いの。橘がその辺のおじさんと同じ身体だと思うと本当に泣きたくなるの。理由は、もっとゆっくり話したいし、全部急ぎたくない。橘、お願い」
「......ごめんな」
橘はそれだけ言って、椅子に座り直した。
『スク水着てれば脱がしたいと思う』
『下着が見えそうな時はムラつく』
橘の言葉が頭を中で反響した。
熱い。身体が熱い。
「あのさ橘、お願いがあるんだけど」
「何だ?」
「コスプレ撮影のお手伝い、したい」
一瞬橘が大きく目を見開いた。
「マジで言ってる?」
「うん、全部セルフでしょ。私見てて思うんだ、この角度から撮ったら可愛いのに、とか」
「へぇ、嬉しい」
橘はくしゃっと優しそうに笑う。
「じゃあさ、あの、今みたいなことしないから。また俺の家来てよ」
私は小さく頷く。
それを見た橘が微笑む。
彼からは男の人の匂いがしても、私はそれを男子の匂いだと思う。
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