第2話 蝉の声と汗の記憶

 「黒瀬くろせ君、もう君の家には来れない」

彼女の言葉を理解するのには時間がかかった。

脳を必死に回転させてから、俺はやっと「は?」と呟いた。


 「私好きな人が出来たんだ」

桑原瑞希は俺と目も合わせずに髪を結び始める。

「すっごく、好きな人」

彼女はベッドの下に落ちていた下着を拾って白い腕を通した。

「こんな気持ち初めてだから。もう黒瀬君の相手は出来ない」


 「は......意味分かんね」

桑原は澄ました顔で制服を着ると、「またね。もう放課後に会うことは無いと思うけど」と残して去ってしまった。

俺は引き止める事も出来なかった。


 俺が負けた、他の男に。

桑原瑞希を取られた。


 翌日の通学路で涼宮晴翔すずみやはるとが言った。

「なー、昨日桑原がさ、セーラー服事務室に返してたらしいんだけど。お前?」

意味の分からない質問に、俺は桑原の名前に苛立ちを覚えつつ「は?」と声を漏らした。

「いや、お前が放課後汚したんじゃねぇのって言ってる奴がいて」


 俺だってそうであって欲しい、と喉まで出かかった言葉を押し込む。

他の男が汚したって事か?

水が沸騰するように怒りが沸いた。

「知らねぇよ」

晴翔は物珍しそうに俺の顔を見て「へぇ」と呟く。


 「でもさ、俺今でも信じらんねぇわ。桑原って黒髮清楚って感じじゃん?結構寝た奴居るみたいだし、意外とああいう女がビッチって事?マジ怖いわ。」

俺だって密かに狙ってたのにな、と晴翔。

「あいつ本命見つけたらしいから」

「え?!嘘?!」


 数秒後、晴翔が呟く。

「え、てことはお前振られた?」

「振られたもクソもねぇよバーカ。付き合ってもねぇんだから」

付き合っていないのは事実だけれど、正直に言えば振られた事実を認めたくなかっただけだった。

「お前が断られるなんてな、桑原っておかしいぜ」


 教室に足を踏み入れた瞬間、粘っこい視線が俺に向けられる。

その視線の意図を俺はもう理解していた。

席に荷物を置こうとして、他の奴がそこに座っている事に気づく。


 「おい賢人けんと、今日席替え」

黒板に貼られた紙を見ながら晴翔が言う。

晴翔が見ていたのは新しい席順が書かれた紙だった。


 自分の名前を見つけ、隣の席に座る人物を見て俺はため息をついた。

女遊びをしたツケが回ってきたのだろうか。あまりにも運が悪い。


 俺が席に荷物を置いても、右隣の席に座る桑原は何も反応しなかった。

突然他人面かよ、と苛立ちを感じる。


 すると左隣の菊池笑里きくちえみりが言った。

「隣だね、黒瀬君」

いきなり何だよ、と言いたい気持ちを必死に抑えて、俺は「よろしく」と微笑んだ。

菊池は俺に微笑み返す。


 一時限目の支度を始める菊池にチラッと目をやる。

スタイルは抜群。顔も悪くないし、俺に気があるなら抱いてやっても良い。

カールしている茶髪を耳にかける菊池。

きっと菊池は処女じゃない。


 女というのは単純だ。

菊池は放課後、「今日掃除当番だから手伝ってくれない?」と俺を誘った。

放課後、教室から誰も居なくなった頃に菊池は現れた。

「ごめんね遅くなって」

そう言う菊池からは男に人気のある香水の香りがした。

トイレでつけてきたんだろうなと思う。


 大丈夫、と言ってから俺は彼女を手伝った。

「ごめん、届かなくて。黒板の上の方消してくれない?」

背伸びでもすれば届くだろ、と思いながら俺は「いいよ」と黒板消しを手に取る。


 彼女に覆いかぶさるようにして黒板を消す。

こういう女が求めている台詞は分かりやすい。

「この後ちょっと残ってかない?」

彼女は純粋な笑顔を顔に貼り付けて「ん?いいよ」と言った。


 その後はスムーズだった。

机の上に菊池を押し倒すと、彼女は恥ずかしげな表情を浮かべた。

ブラウスのボタンを外し、彼女のスタイルが想像以上に良かった事に気づく。


 癖で自分の耳のピアスをそっと撫でると、菊池はクスッと笑った。

「ん?どうかした?」

あのね、と菊池は笑いながら言う。

「そのピアスを撫でる癖、賢人君がちょっとエッチな気分になった時にするって瑞希ちゃんが言ってたんだ。あたしが賢人君の事好きって言ったら教えてくれたの」


 その瞬間、吐き気がした。

気持ち悪い、ただ単にそう思った。

桑原が自分の話を菊池にした事も、こいつ菊池が遠回しに自分の事が好きだと伝えてくる上に、わざわざ以前に身体の関係があった女の名前を出してくる事も突然に気持ち悪く感じた。

自分が触れている生き物がとても醜く見える。


 「ごめん、俺やっぱ菊池さんとは無理」 

俺はそう言って脱がしかけたブラウスのボタンを閉めた。

「菊池さんは可愛いよ。スタイルだって良いしモテるだろうね。でも何だろう、多分人とは付き合わないんだろうなって」

菊池の顔が分かりやすく歪んだのが分かった。


 「愛せないでしょ人の事。俺そういう人間、何考えて生きてんのか分かんなくて無理なんだよ。ごめんね菊池さん。晴翔みたいな、菊池さんより何も考えてなさそうな人を誘ってあげて」

じゃ、と呟き俺は荷物を手に取った。

菊池は何も言わなかった。

きっと、桑原が部屋を去る時の俺と同じ顔をしていたと思う。


 沈みかける夕日には似合わない暑さだった。

汗を手の甲で拭いながら歩いていると、少し離れたところに女子二人組が歩いている事に気づく。

片方は桑原、そして隣を歩くのは樋口だった。

珍しい組み合わせだな、と思う。


 少しぎこちない樋口の笑顔を見て、何故か桑原の言葉を思い出す。

『すっごく、好きな人』

『こんな気持初めてだから。』


 まさか女子だとは思わないよな。


 女って理解出来ない。

理解できたとしても、菊池のような女とはもう関わりたくない。

もっと素直なら話しやすいのに、何故そんなにも自分を取り繕いたがるのだろう。


 もっと素直なら。

ふと桑原の顔が浮かぶ。

失ったものは大きかったのかもしれない。


 蝉は俺の後悔を掻き消すように、不快な程大きな声で鳴いていた。

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