僕らは日焼け止めが塗れない
有くつろ
第1話 塩素の匂い
アナウンサーが言っていた、今年は異常な猛暑だと。
母が言っていた、異常が毎年続けばそれはもう通常だと。
その日、私の皮膚は叫んでいた。
異常か通常かは分からないけれど、暑い、火傷してしまいそうな程暑い、と。
中学校最後のプールの授業が始まろうとしていた。
私は一度もこのプールに入った事が無い。
それでも後悔や心残りというものは一切無かった。
その日のプールサイドはまるで鉄板のようだった。
私はつま先で歩きながら、屋根の下のベンチに座った。
いつもと変わらない表情で私の隣に座る貴方は、少しだけ汗をかいている。
彼女の名前は
三年間ずっとクラスが一緒で、一度もプールの授業を受けた事が無い私達は近いようで遠い。
見学中に話したこともなければ、桑原は私のことをさん付けで呼ぶ。
「樋口さん」と冷たい声で呼ばれた時、桑原を勝手に近く感じていた私はどんな気持ちになったか。
勝手な話だと分かっていても、思い出すだけで寂しくなる。
蒸し暑い。
蝉の鳴き声が五月蝿くて、日差しが痛い。
ただ単に泳ぐだけだと思っていた生徒達は、担任の「今日は最後だから色々持ってきました」という言葉に歓喜の声を上げた。
浮き輪や水鉄砲が、次々と生徒が手を伸ばすプールに放り込まれていく。
いいな、と純粋に思う。
担任は何処からか持ってきたホースの水をプールに撒いた。
キャーキャーと騒ぎながらも楽しそうな生徒達。
見学、と言われてもこんな馬鹿馬鹿しい図から学べることなど一つも無かった。
一瞬、ベンチまでホースの水が飛んだ。
私達は部外者か。出席番号を割り振られて同じ教室で勉強しているというのに、盛り上がった途端これだ。
私はつま先くらいしか濡れなかったけれど、彼女のセーラー服のスカートからは水が滴っていた。
見学中に話したこともない私は気づかないフリをする。
授業後も特に感慨深くなったりだとか、そんな事は無かった。
早く扇風機の回る教室に帰りたい、と私は早足になる。
「樋口さん」
そんな私を桑原は引き止めた。
「プール嫌い?」
「......嫌い」
反射的に答える。
「水は好き?」
「うん」
桑原は後ろに回した手を前に持ってきて、手につけた水を飛ばした。
唐突な展開に戸惑っていると、彼女は小さく笑ってスタスタとプールサイドを歩いて行った。
白い手でホースを掴み、水を出したホースをベンチの下まで伸ばす桑原。
ベンチの下には小さな水溜りが出来た。
彼女は満足そうにベンチに座る。
そして立ち尽くす私を見て、「おいで」と小さく手招きをする。
私は何も言わずにベンチに座った。
この時間は何だろう、と少し戸惑う。
彼女はニコニコと微笑みながら、ホースの水を私にかけた。
「気持ちいい?」
「うん」と呟いて私も水を桑原にかける。
すると桑原は手で水鉄砲をつくって私に水を噴射した。
ケラケラと笑う桑原。
私も同じように水をかけると、桑原は避けてから再び私に水をかけた。
冷たい。でも暑い、まだ足りない。
私達は水をお互いにかけ合った。
私が笑いながら「やめてよ」と言うと、桑原は微笑んで立ち上がった。
そして私の方を見ながら後ろ向きに歩き、プールに落ちるギリギリで立ち止まる。
「落として」
彼女は言った。
桑原は目を閉じて、手を肩の横に伸ばす。
「私幼稚園の頃男子にプールに突き落とされて、プールが嫌いになっちゃったんだ。でも卒業したら友達とプールに行く約束をしたの。私今なら怖くない、って思ったんだけど、流石に自分から入りたくないから......自分で入った方が怖くないはずなんだけどね」
彼女は目を開けてから、「樋口さん、私の事落として」と言った。
再び目を瞑り、何処か吹っ切れたような笑顔を浮かべる桑原。
水着じゃないじゃん、と言おうとしたけれど、何かが違う気がして、開きかけた口を閉じる。
私は気温で生ぬるくなった水溜りに足をつけ、駆け出した。
桑原に抱きついて、二人でプールに落ちる。
彼女の身体は想像以上に細くて弱々しかった。
そしてプールの水も、記憶の中のものよりずっと冷たくて、気持ちが良かった。
初めてプールの底がこんなに青かったんだと気づく。
彼女も私を強く抱きしめた。
私と桑原は水から顔を出した。
桑原は息を荒くしながら「落としてって言ったのに」と笑った。
「落としたじゃん」と私も自然と笑う。
「うん」と桑原は短く答えて、笑いながら私に抱きついた。
彼女に飲み込まれるようにして再び二人で落ちる。
私は顔を出すと、「私塩素の匂い大っ嫌い!」と叫んだ。
「私も!」と桑原。
馬鹿馬鹿しいと思っていた生徒達の笑顔が浮かぶ。
今ならあの笑顔は否定できない、だってプールはこんなにも楽しいのだから。
彼女は「溺れそう」と言いプールから上がった。
私も続いて上がる。
桑原はベンチに座って、スカートの水を絞っていた。
私が隣に座ると、桑原は私の顔から少し視線を下に向けて「これじゃ教室戻れない」と呟いた。
「昼休みだもん。皆教室か体育館でお弁当食べてるよ。私達の事なんて気づかない」
桑原は徐ろに立ち上がって言った。
「でもさ、午後の授業までには戻るし。事務室で二人分のセーラー服借りてくるよ。ちょっと待ってて」
うん、と呟く。
もうこのまま授業なんて放棄しよう、と言って欲しかった自分が心の何処かに居た。
下がることを知らない気温に頭を痛めていると、桑原が走りながら戻って来た。
「事務室の先生がこれも、って」と彼女は大きなタオルを二枚差し出す。
私はありがと、と言い身体を拭く。
私が着替え終わると、ベンチに座った桑原は立つ私に背を向けて「はい」と言った。
私が戸惑っていると、
「ベタベタして脱ぎにくいから、脱がして」
と桑原が言った。
私は鼓動を無視しながら桑原の服を捲るようにして脱がす。
「なんか悪いことしてるみたい」と私が呟くと、桑原は振り向いて「変態」と笑いながら呟いた。
彼女の身体は本当に、白くて細かった。
「どうしよ、私教室戻りたくなーい」
着替え終わった桑原は、プールのフェンスを掴みながら言う。
「私もだよ、でも戻らないと」
「頑張ってって言ってくれないと戻れなーい」
私は苦笑しながら「頑張って」と言った。
しかし彼女は不服そうな顔をしながら「言葉だけじゃ足りない」と呟く。
「足りない」
桑原は再びそう呟いて、私にキスをした。
「水に流そうってやつ?今のは忘れて」
蝉の声が鬱陶しかったあの日、その声だけが私の脳内に響く。
私はどうかしてたのかもしれない、本当に、本当にどうしてあんな事をしたのか分からないけれど、私は桑原にもう一度キスをした。
彼女からは大嫌いだったプールの匂いがした。
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