ポータブルサイコNICU

猫煮

霊能のある世界にて

 朝の光が差し込む真新しい台所に、沸いた鍋の音が響く。


 ガスの吹き出す音と、水蒸気の泡が弾ける音、そしてその隣では研がれた包丁とまな板が規則的にリズムを取る。


 リズムを奏でるのは四十手前の女だった。肩口で切りそろえられた髪はかつては手入れされ、美しく装っていたのだろう。髪を結ったような癖がわずかに見て取れる。しかし、今はその装いも名残を残すのみで、化粧もない顔には疲れが滲んでいた。


 とはいえ、女の様子に悲しげなものはない。瞳は楽しそうに輝き、よくよく耳を澄ませれば彼女の鼻歌すら聞こえてくるだろう。


 かつてはよく手入れされていたであろう白魚のような指先、そこにはあかぎれとささくれが見て取れたが、薬などを塗った様子はない。


 そのわずかに痛々しい手でまな板の上のカブを細かく刻んだ彼女は鍋にカブを手早く入れ、茹で始めた。


 と、その時である。彼女の背にある居間から、脳に刺さるような音が引き渡る。


 その音に彼女は鍋の火を止め、手を素早く清めると、小走りに音源へと向かった。


「はい、はい。お母さんですよ」


 そう言って、彼女は今に設置されたベビーベットから、寝巻きに包まれたその音源を愛おしそうに抱き上げる。


 なおも響き渡る鋭い音は大天使のラッパもかくやといったほどで、並ならば思わず顔をしかめるだろう。しかし、そこは母の愛が勝るということか、彼女は顔色を変えずに寝間着の小さな天使をあやしていた。


「よしよし、ご飯はいま温めてあげますからね。寂しくないように一緒にいましょう」


 そう言って、彼女が腕の中のソレを抱き直そうとしたときである。


 パキリ。


 音がしたかと思うと、彼女の腕の中から何かがこぼれ落ちた。


 彼女の表情が慈しみのそれのまま凍る。


 カラン、カラン。


 フローリングの床で音を立てるそれは、赤子の腕を模した、人形の右腕であった。


 人形の腕は塗装がされておらず、表面は毛羽立ち、ささくれも見て取れる。かと言って、作りが雑というわけではなく、肌色に塗られ関節を隠せば赤子の腕そのものに見えるほど。


 その腕が床の上で滑っていく様子を凍った表情のまま目で追う彼女。やがて、腕がこちらに手のひらを向けた形で止まると、彼女の表情が解ける。いつの間にか、彼女の腕の中からは何の音も聞こえなくなっていた。


 必死の形相になった彼女の口から、人のものとは思えない絶叫が響いた。腕の中のソレは愛おしく抱えたまま、落ちた腕に走り寄ると、薄ガラスの細工を扱うような繊細さで拾い上げる。


 そして着の身着のまま外出用の鞄だけをひっつかむと、腕の中のモノをまたとない宝のように抱きしめながら家を飛び出した。


 その腕に抱えた寝間着から覗くモノ、それは五ヶ月ほどの赤子を模した木の人形であった。


 人形は精緻に作られ、手足の関節や、柔らかそうな肌の質感までも見事に再現している。ただし、顔だけは目鼻耳口のあるはずのところに、かろうじてそれと見分けられる程度の穴が掘られているだけであった。その顔は人間らしい凹凸もなく、艶のある木目がより人らしからぬ気配を醸し出す。


 女は大通りで捕まえたタクシーの運転手に行き先を伝えると、後部座席で何処かに電話をかけ始めた。数分のやり取りの後、通話を切った女は腕の中のそれにひたすら声をかけ続けている。その様子を運転手は気味悪がるわけでもなく、気の毒そうに労りの目を向けていた。


 やがて、女が指定した地点にタクシーが到着する。震える手で財布を取り出していた女に、運転手は声をかけた。


「代金は後でいいから、早く行ってあげなさい。待っていてあげるから」


 その言葉に女は短く礼を言うと、扉が開くが早いか一目散に眼の前の日本屋敷へと駆け込む。


 門の奥で待っていたのは二十代の女性である。白を基調とした装いのその女性は巫女であった。


 巫女に先導され、奥の屋敷を進む女。すでに声は枯れ、しわがれたその声には涙の色も混じっている。しかし、腕の内に声をかけることだけは続けていた。


 やがて、一つの部屋の前で巫女が止まると、障子がひとりでに音もなく開く。


 昼の陽の光に照らされた外とは対象的に、部屋の中は不思議と薄暗く、灯された燭台がなければ畳の縁も見えないほどであった。


 その部屋の奥には狩衣を着た年かさの男が、横に布を被せられた八足(儀式に用いられる中型の台)を伴って座っていた。


 八足に被せられた布は盛り上がっており、その大きさはちょうど赤子一人ほどである。


 また、逆の側には朱や黒の墨に箸、小刀や符などの雑多な道具が三方(儀式に用いられる小型の台)にそれぞれ乗っている。


 女は男の姿を認めると、無我夢中駆け寄った。そして、両膝をついたかと思うと、手の中のモノを男に掲げ、差し出す。


「先生、息子を助けてください。どうか、先生。お願いします、息子を、どうか息子を」


 要領を得ないままに懇願する彼女へと巫女が静かに歩み寄る。そして、彼女の腕の中のモノをそっと抱き上げると、男の前に柔らかく置いた。


 狩衣の男は置かれたモノの寝巻きの前をそっと開くと、関節以外に継ぎ目一つない、しかし長い間風雨にさらされたようにささくれだったヒトガタがあらわになる。そのヒトガタは右の腕が外れ、関節の球体からは朽ちたような木板が突き出ていた。


 男はわずかに顔をしかめたが、慣れた手付きで三方を手繰り寄せる。


 三方に並んだ黒い墨を右手の人差し指と中指の先に付けると、剣印を結ぶ。そして、そのまま右の人差し指を口元に近づけると、何事か唱えてから目の前に置かれたヒトガタの腹部に当たる部分にいくつかの文様を書き込んだ。


 その後、また右の人差し指を口に寄せ、何事か唱えると、剣印のまま腕をヒトガタの足元から頭にかけてゆっくりと宙を撫でる。


 するとヒトガタがにわかに震えだし、継ぎ目などなかったはずの腹が、寄木細工のように分かれ、ひとりでに組変わっていく。


 それを膝をついた姿勢のまま、すがるような目で見る女。やがて、腹に空いた穴から台座がせり上がってくる。その上には干からびたヒモのような物が乗っている。


 それを見た女は低頭すると、一心不乱に祈り始めた。


 女の様子を気にも留めず、男は八足の布を取り払う。その上には、女が抱えていたヒトガタとおなじ姿の、しかし磨き上げられ、ささくれはおろか毛羽立ち一つないもう一つのヒトガタが横たわっていた。他に違うところがあるとすれば、五体満足の姿であることと、腹の台にはヒモが乗っていないことだけであろう。


 男は膝先が二つのヒトガタの間に向くように座り直すと、跪いた巫女が捧げ持った三方から箸を両の手でゆっくりと持ち上げた。この箸が極めて長く、男の上腕と手を合わせたよりもわずかに長いようであった。


 男はその箸を捧げ持つと、なにかまた唱えた後に、壊れたヒトガタの腹からヒモを箸でつまみ上げる。


 そして、箸を持った右腕を左腕で支えながら、慎重にもう一つのヒトガタの腹へとヒモを置いた。


 用を済ませた箸を巫女が捧げ持ったままの三方に置くと、巫女はその姿勢のまま下がる。


 一方の男はヒモが置かれたヒトガタに向き直ると、両の手で複雑に印を組み、祈祷を始めた。


 燭台の燃える音と、男の呪言、そして女のすすり泣くような祈りの言葉が数分の間響く。


 やがて、祈祷の声が止むと、巫女が新たな三方を捧げ持って、男の左手に跪いた。


 その三方の上に載った符を男が人差し指と中指で挟み、口元に近づけ短く呪言を唱える。


 そして、ヒトガタの上に乗ったヒモに符を被せると、右手の五指を揃え、ヒトガタの頭から足元にかけて、ゆっくりと宙を撫でる。男がヒトガタの足元まで来た手の先を反時計回りにゆっくりと三度回した、その時である。


 男が手をかざしているヒトガタが一度大きく跳ねると、手足を動かしながら金切り声を上げだした。


 それを見た女は猛然とヒトガタに駆け寄ると、それを優しく抱き上げ、男に向かって膝をついて頭を垂れながら礼を言う。


「ありがとうございます、先生。ありがとう、ありがとうございます」


「いえ、最善を尽くしたまでです」


 何度も頭を下げながら礼を言う女に、男は疲労を隠せぬ顔ながらも、優しく笑いかけて謙遜する。


「さ、その子を一度こちらに」


 尚も礼を言う女に巫女が近付き、片膝を立てて優しく語りかけた。


「よろしくお願いします」


 言われた女は頭を下げながら、手の中のヒトガタを大切そうに巫女へと渡す。


 受け取った巫女が部屋の外へ消えていくのを女は慈しむような目で見ていた。


 さて、それから半刻。屋敷の門から恐縮しきった女が何度も頭を下げながら歩いていくのを狩衣の男と巫女の女が見ていた。


 女の胸元からは、甘えるようなしゃがれ声が響く。その声の主はパジャマを着せられた五体満足のヒトガタであった。女はそのヒトガタを愛おし気に抱えながら、タクシーの中へと消えていく。


 遠ざかるタクシーを見送りながら、巫女が言った。


「けど、あの子大丈夫かしら。お母さんの手前言えなかったけれど、義体が壊れるなんてよほど世話されていないのかも」


 それを聞いた男は目を細めると、巫女の肩に手を置いて言う。


「逆ですよ。あの子の義体を見たでしょう。顔は艶の出るほど手入れされ、それなのに体はささくれ立っている。身を毎日清めていた証拠です。むしろ、アレなら綺麗な方ですね」


「はぁ」


 気のない巫女の返事に肩をすくめると、男は振り返り屋敷へと歩みを進める。


「彼女にも聞きましたが、本当の子供のように毎日風呂に入れていたようです。義体はモミで作られていますから、水気を吸えばすぐに駄目になる。けれど、あの子の肉体が再生し終わった際の拒絶反応を少しでも抑えようと、本当の赤子のように育てていたようですよ」


 それを聞いた巫女は手のひらを打って、得心した様子。そして、男に付き従いながら、世間話にと言葉を続ける。


「なるほど、それで。確かに、擬態から魂魄を肉体へ戻すときに、習慣の変化で不具合が出ると言いますもんね。母の愛だなあ」


 そこで、巫女は怪訝な表情になった。


「あれ、でも赤子の魂魄なら再学習も早いんじゃ」


 男はそれを鼻で笑う。


 気色ばむ巫女に、男は呆れ声で言った。


「もしも、あの子が肉の体で育っていたとして、教育し直せば良いからと獣のように育てても良いのですか?」


 巫女は言葉をつまらせたが、自信なさげに絞り出す。


「それは、拡大解釈がすぎますよ」


「一事が万事ですよ」


「そういえば、なんでモミなんですかね」


 旗色の悪さを悟ったか、巫女は話題をそらした。


 その様子に、男は苦笑したが、彼女の思惑に乗る。


「私も詳しくはありませんが、天地を直線につなぐその姿が魂魄を結びつけることに有利だとか」


「でも、素材としては不適当じゃありません?脆いし」


「そのあたりの文句は形代師に言ってください」


 なおも文句を垂れる巫女と、穏やかに返す男の声。


 それらが屋敷の奥へと消えていき、ついには聞こえなくなると屋敷の門がひとりでに閉まる。


 門の脇には男の名と思しき名の書かれた表札。その下には「心霊小児内科」の看板が下げられていた。

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