華麗なるワルツ

増田朋美

華麗なるワルツ

その日は、春がもうすぐ近づいているということがわかるような、大雨が降って、なかなか外へ出ることもできない日であった。それでも、雨は午前中でやんで、午後は曇りになってしまったので、まあ、何とかやれるかなと思われる日であった。

そういうわけで、製鉄所を利用する人もあまり多くなかったが、そういう日に限って、なにか変なことが起きてしまうのである。

「こんにちは。おじさんいる?また会いに来たよ。」

そう言ってやってきたのは、田沼ジャックさんの一人息子で、小学校1年生の、田沼武史くんであった。しかも今回は、同じ年くらいの女の子を連れてきている。

「武史くん、この女の子はどなたなの?」

水穂さんが、武史くんに聞くと、

「同じクラスの、佐野瞳ちゃん。ねえおじさん、瞳ちゃんにもピアノを聞かせてあげてよ。」

と武史くんは子供らしくにこやかに答えた。それと同時に一緒にやってきたジャックさんが、

「ああ、すみません。ちゃんと事情を説明するべきでしたね。実は、佐野さんが、これから学部会議で遅くまでかかると言うので、家で預かってくださいと言うんですよ。それで、武史と一緒に御飯を食べたりしているんですが、その内容がちょっと。」

というのだった。

「学部会議ですか。ということは、どこかの大学の先生とか、そういうことですかね?」

と、ジョチさんがつぶやいた。

「はい。そうなんです。なんでも、静岡大学の教授とかで、あまりにも忙しすぎると言うか、ちょっと家を開けすぎているというか、そういうふうに僕も見えるんですがね。佐野さんは全然反省している様子がなくて。僕も、佐野さんにもう少し瞳ちゃんに声をかけてやったほうが良いと、いいたいのですが、あまりに僕と佐野さんでは立場が違いすぎるということもありまして、、、。」

ジャックさんは困った顔をした。

「そうなんですか。そういうことは立場なんか関係ないと思うけど。相手が大学のセンセイであろうと、誰であろうと、間違ってることは間違っているとちゃんと言うべきだと思うけどね。」

杉ちゃんがジャックさんに言うが、

「ええ、そうなんですが、佐野さんは、学校の再建資金をかなり投資しているみたいなので、僕らが下手なことは言えないんですよ。」

と、ジャックさんは言った。

「そうですか。たしかに、そういう富豪だと、なかなか文句は言えませんよね。でも、彼女も、武史くんも、純粋な子供さんです。だって、ああして二人で楽しそうに、演奏を聞いているんじゃありませんか。」

ジョチさんは、四畳半を見た。たしかに、武史くんと瞳さんは、とても楽しそうに水穂さんが弾いているショパンのワルツ第七番を聞いていた。

「しかし、ああいう陰険なワルツを聞いて、楽しそうにしているのも、瞳さんが寂しいという気持ちの現われなのかもしれません。」

ジョチさんがそう言うと、ジャックさんも、そうですねと言った。しばらくジョチさんとジャックさんは、武史くんと瞳さんが、楽しそうにショパンのワルツを聞いているのを眺めていた。一方のところで杉ちゃんの方は、おやつを作ってやるかと、台所に行ってしまった。

「本当はもっとお母さんが瞳ちゃんのそばにいてやれるべきではないかと思うんです。瞳ちゃんの話しでは、お母さんは、学校から帰っても、不在であり、帰ってきてもずっと論文に夢中になっているようですから。」

ジャックさんは、心配そうに、つぶやいた。

「それでは、お父様はいらっしゃらないのですか?例えば、お父様が代わりに遊んでくれるとか、そういうことであれば、少し寂しい気持ちは和らぐと思うのですが?」

ジョチさんがそう言うと、

「ええ。それが、瞳ちゃんのお父さんですが、瞳ちゃんが生まれる前に、亡くなっているんだそうです。それで、お母さんは、再婚する予定もなさそうで、一人で生活していられるくらい余裕があるくらいの経済力がある方ですから、それで、もう平気でいらっしゃるんだと思います。」

と、ジャックさんが言った。

「それでは、瞳ちゃんの方が、パパがほしいとワガママを言ったことは無いのですか?」

ジョチさんが言うと、

「ええ、それもなかったと思います。日本では、どうもそういう発言が弱いというか、そういうことって結構重要なことであると思うんですけどね。だけど、パパがほしいとか、そういう事を、日本人は主張しないですね。僕は、たとえ繋がってなくても、パパがいれば、もうちょっと瞳ちゃんが変わってくるのではないかと思うんですけどね、、、。」

ジャックさんは、そういって大きなため息をついた。その間に、杉ちゃんのほうが、四畳半にやってきて、

「おやつができたぞ。食べに来い。」

と武史くんと、瞳さんに言った。

「即席のパウンドケーキだけど、しっかり食べてや。」

武史くんと瞳さんが、食堂に行ってみると、ケーキの匂いが充満していた。杉ちゃんは、オーブンを開けて、ケーキを取り出した。杉ちゃんがそれと切って、器に乗せて、

「はい。ふたりとも、どうぞ。」

二人の前に、ケーキの器が置かれた。やはり、瞳ちゃんも女の子だ。ケーキが来てとてもうれしそうな顔をした。

「それでは頂きます!」

「いただきまあす!」

二人の子供は美味しそうにパウンドケーキを食べ始めた。

「美味しい!」

武史くんは、にこやかにケーキを食べているが、瞳さんの方は涙をこぼして泣き出してしまった。心配になって、そばに来てくれた水穂さんが、

「どうしたの?なんでなくの?」

と優しく聞いてくれた。

「だって、瞳は、一度も、ママにケーキ買ってもらったことがないもの。」

と、瞳さんは泣きながら言う。

「だって、お誕生日のケーキとか、そういう感じでケーキ食べたことはなかったの?」

と水穂さんが聞くと、

「一度もないの。ママはいつも家にいないもん。」

と、瞳さんは答えるのであった。

「それでは、ご飯なんかはどうしているんだ?」

杉ちゃんが瞳さんに聞くと、

「ご飯は、いつも宅配便の人が持ってきてくれるの。」

と、彼女は答えるのだった。それもどうだかなと杉ちゃんは、腕組みをした。たしかにお金があるから、そういうことができる家庭なんだということがわかるが、ご飯を作ってもらえないと言うのは、非常に難しい問題でもある。

「いつも一人でご飯を食べて、一人でお風呂に入って、一人で起きて朝ごはんも食べずに着替えて、そのあとで学校に行くの。ママは、もう小学校1年生なんだから、それくらいできるでしょって言うんだけど。」

と、瞳さんは言うのである。

「そうなんだねえ。それってさ、まるで仕事の忙しさをいいことに、お前さんの事を、放置しっぱなしということだと思うんだが、それは違うかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「でも、それでいいの。あたしがいるから、ママがそういう生活を強いられているんだって学校の先生が言ってた。ママは、学校の先生より偉い人で、学校の先生の先生だって。だから、あたしがいるってことが、ママには悪いことなんだって。」

瞳さんはそういうのだった。

「いや、碌な人じゃないね!」

杉ちゃんは直ぐいった。

「偉い人でもなんでも無いよ。そんな子供をほっぽらかして、仕事ばっかりしているなんて、子供を無視しているだけのことじゃんかよ。それなら碌な人じゃないよ。いいか、お前さんは、もっと寂しいとか、遊びたいとか、そういう事を言わなくちゃだめだ。一度だけでも、ケーキ作ってくれっていってさ、悪い子にならなくちゃだめだよ。そうでもしなくちゃ、親が気が付かないなんて、たとえ世間的に偉くてもただのお馬鹿さんにしか見えないよ。」

「でも、瞳ちゃんのママは、すごく偉い人だから、いろんな人から、必要とされてて、それで、ママは家に帰ってこられないって、学校の先生が言ってた。」

と、ケーキを食べていた武史くんが、そういった。

「うーん、でも子供をほっぽらかしにしているってのはどうかと思うけどね。それに、ママに私を見てって、瞳ちゃんが主張しないことも、また問題だと思うけどね。瞳ちゃんは、例えばお友達がいつでも親御さんと一緒にいられるのを見て、自分もそうなりたいと思ったことが、無いというのは、どうかと思うけどな。なぜ周りの人にはパパが居るのに、私にはいないんだとか、そういう疑問をまるで感じていないように見えるけど、、、。」

杉ちゃんは心配そうに言った。

「そうなんだね。じゃあ、おやつを食べたら、おじさんと遊ぼうか。瞳ちゃんは、学校では何が好きだったの?国語?数学?」

水穂さんが優しく瞳さんに言うと、

「図工。作ってると、何もかも忘れられるから。あと、音楽とか、そういうものも好き。体育は苦手だけど、歌を歌ったり、そういうことしてれば、忘れられるから。」

と、瞳さんは答えた。

「そう何だね。おじさんは、ピアノ弾くしかできないけど、それでもいいかな?」

水穂さんが聞くと、

「音楽は何でも好きだから、おじさん弾いてくれたら嬉しいな。」

と、瞳さんは言って、杉ちゃんが作ってくれたケーキを貪るように食べてしまった。そして、水穂さんに渡されたタオルを受け取って口を拭いて、

「おじさんピアノ弾いて。」

と言った。水穂さんは、瞳さんを連れて四畳半に戻った。武史くんもその後を付いてきた。そして水穂さんが、子供さんでも比較的聞きやすい子犬のワルツを弾き始めると、瞳さんはまた悲しそうな顔をした。

「どうしたの。また悲しそうな顔をして。」

と武史くんが言う。水穂さんは、子犬のワルツを弾き終えると、慰めるような感じで、ショパンのワルツ第三番を弾き始めた。どうやら瞳さんは町長より短調の歌のほうが好きなようである。弾き終えるとまた同じ曲を弾いてくれという。水穂さんはにこやかに笑って、また同じ曲を弾き始めた。

それが終わると、また同じ陰険なワルツを弾いてくれと頼むので、

「どうしてそんなに、暗い曲ばかり好むのかな?」

と、水穂さんが聞いてしまうくらいだ。

「だって、明るい曲歌ったら、ママが怒るもん。」

瞳さんは、申し訳無さそうに言う。

「ママが怒る?」

水穂さんが聞き返すと、

「そうだよ。だって、ママは瞳が歌ったりすると怒るの。だから、学校で歌を歌うのがずっと楽しみ。体育はできないけど、それはそれで良いと思ってるの。誰も文句言う人はいないし。」

瞳さんは、そういうのであった。ということは、もし、クラスが変わるとか、そういうことがあったら、瞳さんは非常に大きく傷ついてしまうかもしれない可能性もあった。おそらくそれが無いのは、瞳さんのお母さんが、非常に有力な人物で、学校の関係者がそれを知っているから、いじめが発生しないのだというトリックもあるんだと言うこともわかった。

「そうなんだね。それでは、クラスが変わったら、お前さんはひどい笑いものになっちまう可能性もあるな。それは、大変なことでもあるんだぜ。学校は、なかなか、変わることもできないからさ。あと五年はいなくちゃならないだろう。五年なんて、大人にはあっという間かもしれないけど、子供には非常に重い年でもあるんだよ。そこで良い記憶ができないと、将来なにかあったときに乗り越えられないことにも繋がっちまう。今は、お前さんのお母さんが、すごい偉いということを、かろうじて、同級生の奴らが知っているということで、いじめが発生していないということでもあるからな。」

と、杉ちゃんが、四畳半にやって来て言った。水穂さんは、たしかにそうだね、と小さな声で言った。

「でも、それを、聞かせてしまったら、なんだか、瞳ちゃんが可哀想だよ。杉ちゃん、そういう事言うのはやめたほうが良い。」

「いや、そうなる可能性があるってことは、言ったほうが良いんじゃないのかな。大人の勝手に振り回されて、子供が荒れるってことは、よくあることだからね。」

と、杉ちゃんは直ぐにいった。

「そうかも知れないけど、子供だもの。わからないことはわからないままでいさせてあげたほうが、今幸せでもあるわけだから、それはそのままでいさせてあげたほうが良いと思うんだよね。お母さんが、仕事でいつも不在であることは、まだ、子供に伝えるのは、もう少しあとにしたほうが。」

水穂さんがそう言うと、

「でもねえ。僕は、何も言わないで、ただ平凡な日々を過ごしてるっていうのも可哀想だと思うよ。それよりもちゃんと、世話をしてくれる存在を見つけるっていうか、うーん、そういう事をさ、ちゃんと彼女に主張させるというか、そういう事をしないと、バカ親は気が付かないよ。」

杉ちゃんは直ぐ答えた。

「だから、お母さんに、気が付かせるんだ。それは、間違いだって。いくら静大の偉い人であっても、そういう事をしないんじゃ、何も意味が無いよ。」

確かに杉ちゃんの言う通りでもあるのだが、彼女がその壁を乗り越えるというとき、非常に難しい問題でもあるなと言うことは、その通りでもあるのだった。

「本当は、彼女がそう言うべきなんだよ。パパがほしい、寂しい、なんとかしてくれって。」

杉ちゃんがそういうのであるが、水穂さんは、それは実現できないだろうなという顔をした。

それと同時に、四畳半へ、ジョチさんとジャックさんがやってきて、

「お母様が迎えにきましたよ。」

と、瞳さんに声をかけた。それと同時に玄関先から女性の声で、

「どうも預かっていただきましてありがとうございました。ケーキまで食べさせて頂いてすみません。」

と言いながら入ってきたのは、瞳ちゃんのお母さんだった。たしかに偉い人なのだろう。立派なリクルートスーツに身を包み、いかにも大学で教えているという感じの人であった。

「いえいえ、大丈夫です。瞳さんは、とても楽しそうでしたよ。また、必要がありましたら、いつでもお預かりいたしますので。」

ジョチさんが、形式的に答えると、瞳さんは、子供らしくとても無邪気な声で、

「ママ、今日おじさんに、ピアノを弾いてもらったの。おじさんは、ピアノがとっても上手いの。」

と、水穂さんの着物の袖を引っ張った。水穂さんが、紺と白の銘仙の着物を着ているのを見たお母さんは、

「まあ!銘仙なんてこんな汚らしい着物を着ている人に、家の瞳をたぶらかされては困ります。瞳、すぐ帰りましょう。こんな人に、なにか悪いことを植え付けられたら困ります。」

と、瞳さんに言って、瞳ちゃんを連れて帰ろうしたが、

「でも、おじさんは、ピアノが上手なんだよ。だから、とても楽しかった。ママも、家でそういうことさせてよ。」

と瞳ちゃんは、そういうのだった。お母さんは、そういう事を言った瞳ちゃんに、非常に驚いた顔をして、

「あなた、瞳に何を言い含めたんですか!そんな貧しい人の考え方を、家の瞳に植え付けては困ります。」

と言ったのであるが、水穂さんは、

「いいえ、そんなことはしていません。瞳さんが感じたまでの事を言ったのでしょう。そ、

と言ったのであるが、続きを言おうとして、えらく咳き込んでしまった。

「まあ、そんなふうにお体も治せないなんて、本当に、だめな人ですね。ご自身のことはご自身でなんとかしないと行けないって、私は学生にいつも言っております。そんな悪い見本を家の瞳に見せられては困りますわ。あなた、そういう着物を着ているってことは、大した階級の出身でも無いでしょう。呆れてしまうわね。瞳に、変な思想を植え付けられては困ります。」

瞳ちゃんのお母さんは、そう言っているのであるが、

「違うもん!おじさんは、瞳に優しくしてくれたの。ピアノを弾いてくれたの。だから、瞳はおじさんのことが好き!」

と瞳ちゃんは子供らしく言った。

「そうなのね、瞳がそんなこというなんて!」

とお母さんはかなり感情的になってそういうのであるが、

「ママ嫌い!優しいおじさんと一緒に居たい!」

と瞳ちゃんは言った。

「そういうことだからさ。もう少し、瞳ちゃんのそばにいてあげたらどうだよ。まあ確かに大学の先生で、仕事が忙しいというのもわかるけどさ。彼女から聞いたぞ。いつも一人で夕食を食べて、いつも、宅配便で買ってくる食事ばかり食ってるそうじゃないか。それでは、なんかお前さんが、育児放棄というか、そういうことしているような気がする。」

と、杉ちゃんが言うと、

「育児放棄ですって!私は、瞳のために働いているのよ。それなのに、そんなこと言われる筋合いは無いわ。」

瞳ちゃんのお母さんは、そういうのであるが、

「でも、瞳ちゃんは寂しそうだった。明るい曲もきけないんだって、とても悲しそうだった。毎日悲しい顔でいるのって、辛いんじゃないのかな。僕は、毎日笑っていられることが、嬉しいことだと思うんだけどな。」

杉ちゃんたちの話を聞いていた武史くんが、そうつぶやいた。慌ててジャックさんが、何を言うんだと言ったが、ジョチさんが武史くんでなければそれは言えないと、ジャックさんを止めた。

「笑ってられるって、ものには不自由してないし、学校にも行けてる。それに、いじめにあっているわけではないし、学校の先生にも、いじめにあわせないように言ってあります。だから、それ以外に不幸なことはありません。全く、こういう着物を着ている人に、この子を預けるべきじゃなかったわね。そんな、悪知恵を吹き込むなんて。」

瞳ちゃんのお母さんは、そういった。それでは彼女を説得するということは、非常に難しいだろうな、と、杉ちゃんも、水穂さんも思ってしまったのであった。

「ごめんなさい。」

水穂さんが頭を下げると、

「なんでおじさん頭を下げるの。だっておじさん瞳に、ピアノ聞かせてくれて、とっても楽しかったじゃない。それにおじさん、ピアノがすごく上手だった。だから、瞳は、すごく楽しかった。だから、これからもおじさんと一緒にいる。」

瞳ちゃんが、水穂さんを援護するように言った。

「ううん。おとなになるっていうことは、そういうことでもあるんだよ。ごめんね、瞳ちゃん。」

水穂さんは、瞳さんに頭を下げて、

「じゃあ、ママといっしょに帰ろうね。」

と、お母さんの方へ手を向けさせた。お母さんは、乱暴に瞳さんの手を取って、製鉄所を出ていった。


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華麗なるワルツ 増田朋美 @masubuchi4996

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