沙織紗絵子は待っている

電磁幽体

「ふつうに爪切ってくれる人がええ」




「うちには勿体ない人やねえ」

「左様でございますか。これで五度目の縁談となりますが、やはり――」

「そらもうさかいに」


着物をめかし込んだ沙織は、左の艷袖をぶらぶらさせる。

そこには本来通しているはずの腕がない。

見目麗しく頭脳明晰、生まれも立派で器量良しの御令嬢。

天は二物を与えないというが、であれば沙織はあらゆる才と引き換えに片手の自由を許されなかったのだろう。


「純なお人でえらい励まされたねえ、考えとくわあ」


翻訳するとこうだ。

――不誠実でウザい、無理。


沙織は気晴らしのように砂利と戯れると、池のほとりにしゃがみ込む。

土塀に遮られた午後半ばの太陽は、晴天を主張するかのように色濃く影を落とし込む。

広大な屋敷の中で、その小さな日陰が沙織のお気に入りだった。


「ただでさえ黒いの着て、高木はんは暑ない?」


沙織の悪戯げな笑みを見れば、それが額面通りの心配ごとでないのは明白だ。

――早く来い。

ただそれだけの意味である。


「畏まりました、


花は、誰も手を付けていないからこそ価値がある。

気が利かなくて結構。

〈業務外の行動は、命令されるまで応じない〉

それが従者としての線引だった。


「高木はんが来ると群がってかいらしいねえ」

「餌やりも仕事ですので」

「ひやこいなあ。うちはコイにもそっぽ向かれる」

「……はあ、どうぞ」

「おおきにぃ」


高木は手の平に置いた餌を、沙織が右手で取りやすいように差し出す。

年の近い二人が未だに主従関係にあるのは、お嬢様のワガママに付き合える人材が他に居ないのだ。


「お待っとおさん、たーんと食べてな」


鯉たちが喧嘩をしないようにか、満遍なく餌を振り撒く。

雅に揺れる右の艷袖。

薄紅の布地には金色の花が咲き誇り、その刺繍一つ取っても庶民の年給を超えるだろう。

そんな袖口が、鯉の水しぶきで台無しになっていく。

沙織がそれに気づかないはずがない。


「――どこでもぷくぷくして、けなるい限りやねえ」

「……」

「うちな、水の中にずっといるみたいや。どこもかしこも息苦しおてたまらしまへん」


拗ねている時は、何も言わずに続きを待つ。

昔からそうだった。


「この隅っこだけがうちにとっての空なんやろな。水面を抜けて息継ぎできる。と居ると、うちは――」

「――、そろそろご予定があるのでは?」

「……高木はんのいけず」


昔と違うのは、ここで止めないといけないところ。

しかしこのままでは沙織のふくれっ面は収まらない。

そこで高木は提案する。


をしましょう」

「言うてこの前したばかりと違う?――ま、ええけど」

「手が汚れてますので、まずはお拭きします」

「かまへんのに」


高木が用意をすると、沙織はころりと機嫌を直した。

これだけは昔と今も変わらない、二人だけの魔法の言葉。


「よろしゅうな」


高木の膝の上に、沙織は右手をぽんと置いた。

左手が無い代わりに他のすべてが与えられた沙織が、唯一できない行為。

――それは右手の爪切り。


「こそばいのは堪忍やで」

「気をつけます」


左手が無い苦しみなんて本人以外分からない。

もちろん高木にも分からない。

ただ高木が他の誰かと違うのは、沙織に哀れみの目線を向けないこと。

理解したつもりにならないこと。


余計な気遣いをせずに、ただ爪を切ってくれること。


――それだけで充分なんやけどなあ。


「なにか言いました?」

「気のせいやない?ところで、なに苦戦してるん?」

「ささくれができてます」

「――ぷっ」


沙織は思わず吹き出した。


「うちはさぞなんやろねえ」

「自覚してるなら縁談を進めてください」

「考えとくわあ」


高木のため息と同時にささくれを切り取る。

すると、紗絵子は右手で爪切りを取り上げた。


「ほな、


今度は、高木が左手を差し出した。


「膝の上はだめな気が……」

「これだけは譲れへんで」


左手が無い沙織の苦しみは分からない。

なぜなら


片腕が無い二人同士は、ただそれだけで、唯一無二の対等な存在だった。


「六度目の縁談は頼みますよ。これ以上は数える指がありませんので」

「やったら一緒に数えまひょ。二人で一〇回いけるなあ」

「そういう話ではありません!」


「ちゅうかここ、高木はんもささくれてるんとちゃう?」

「さあ、どうなんでしょうね」


子が親より先に死ぬことが親不孝ならば、少なくとも高木は親孝行だろう。


「……懐かしいですね。沙織お嬢様に拾っていただいたのを思い出します」



右手が無い孤児と、左手が無い御令嬢。

これは幼い少女のほんの気まぐれから始まった主従関係。



「そういえば、あの時なにか言ってたような……」



――うちが結婚するならなあ――



「気にしいやなあ。そないな昔のこと


そう言って、沙織は高木のささくれを切った。


――パチン。




〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

沙織紗絵子は待っている 電磁幽体 @dg404

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ