3-成人式

 関東近郊で生まれ育ち、都内の大学に進学した朝好の日常は、とても困ることや、すごく楽しいこともなかった。一人暮らしを初めてからは、好きなときに好きなことをできるようになった。これと言った不満はない。それなのに、いつも誰かの不在を強く感じていた。

 冬から始めたアルバイトの帰り道、自転車で走らせていたら修司のことを思い出す瞬間が増えた。修司からもらった桜大福のてっこちゃんが、朝好の家の鍵と一緒にポケットに入っている。角を曲がるとキーホルダーがカチャリと鳴る。そうしたら、修司の笑った顔や、冷めた顔が脳裏に浮かぶ。記憶はぼやけているのに、彼のしつような視線を浴びたときの高揚感だけは鮮明によみがえる。

 朝好は東京の暗い空を見上げるとき、この空を修司も見ているのだろうか、なんて陳腐な妄想で彼の不在を埋めようとした。日に増して、胸の中の空洞は大きくなった。修司のいない世界で息を吸っていたら、自分が臆病な子供になったみたいに不安でいっぱいだった。


 二十歳の集まりと題した式に出るため、朝好は地元に戻った。着慣れないスーツで挑むが、玄関を出て早々にコートの下に隠した。どこか気恥ずかしさとむず痒さで、居たたまれない気分だった。

 その日、朝好の視界にくもり空が広がっていた。地元の町を離れてから、もうすぐ二年がたつ。実家には新年くらいしか帰らなかった。それでも両親を心配させたくない思いが残っていたから、成人式が行われるこの日に帰省した。自分の律儀な性格を恨んだり後悔したりしていないと言えば嘘になる。

 親の顔を見たら帰ろう、と会場までの道のりをバスに揺られて、車窓を眺めた。高校の頃に自転車で走り抜けた小道が目に入る。右側に回転寿司屋があり、左の空き地の細い道は神社の参道だった。奥に進むと背の低い鳥居が見えて、ほこらにはいつも花が生けられていた。雨の日は薄暗くて不気味だったのを鮮明に覚えている。

 アニメのキャラクターでラッピングされたバスが、大通りを走る。道路の両脇に全国チェーン店が立ち並び、朝好は地方都市特有の素っ気なさを感じて胸焼けした。それは、駅前のコーヒーショップで注文したホットココアの味だった。甘党の朝好は、ホイップクリームとチョコレートソースとパウダーを追加し、底に沈殿したドロリとしたものまで飲みきった。そのせいでいまは眠気すら感じる。


 車体が揺れて窓に頭を打ちそうになったから、朝好は頬をつねった。高校卒業から見る見るうちに身体は痩せていき、薄い皮を引っ張る感触に目がうつろになる。

 今のところバスの遅延もないし道も渋滞していない。このまま行けば会場前のバス停に予定通り着く。その頃には、午前の成人式の入場が始まっているはずだ。同級生と顔を会わすことはあれど、声を掛けられる確率は低いと想定する。それを見越しての行動だから、流れていく鈍い色の景色をぼんやりとした頭で見つめた。


 会場前でバスを下りて式典に向かった。参加者のほとんどが既に入場済みで、まばらに散らばっていた人が入場口に吸い込まれていく。朝好も彼らに紛れた。


 一時間後に式が終わり、朝好は一目散に会場を出た。その時にはもう雨がしとしと降っていた。朝好はこれ幸いにと、灰色の折りたたみ式傘を手提げ鞄から出し、空に向けて開いた。こうすれば誰とも顔を合わせない。そう思っていたのに、このままバスで帰ろうとしたのに、停留所でバスを待っていたら、聞き覚えのある声を耳にした。


「雨かよ」


 それだけで分かった。修司の声だ。


 声の聞こえた方角に顔を向けると、元クラスメイトの男女四人と修司が目に入る。黒い傘を差し、灰色のスーツと黒のロングコート姿の彼はまるでモデルみたいだった。彼はキザなくらいに大人の服装が似合っている。雲の上に隠れた太陽の光が修司にだけ降り注いだみたいに、彼の姿だけが発光する。久しぶりに会った彼は、憎ったらしいくらいに神々しかった。

 そのまま朝好は立ち止まって、修司に見とれていた。もっと彼を見たいと生け垣から離れたら、晴れ着姿の女性の傘とぶつかる。朝好のコートの胸元に水滴がかかる。


「すみません」


 胸元を拭きながら朝好は頭を下げるも、向こうはもう背を向けていた。晴れ着が汚れていないことを願い、朝好は細く息を吐いた。

 ふと、懐かしい熱を頬に感じる。周囲を見渡して発信源を探したら、修司と視線がぶつかる。彼は大きく目を見開き、まるで幽霊でも見るみたいに朝好を注視した。それは熱く、決してブレることのない鋭い光線のような眼差しだった。懐かしい。


「野崎くん」


 朝好は昔のように修司を呼び止めた。

 修司は群れを離れて、一目散に朝好の元に近寄ってくる。彼は怒ったような泣きそうな顔で、朝好の頭からつま先を見て最後、にらみ付けてきた。彼の視線が肌に焼き付き、じりじりと頬を焦がす。そんな顔をされたら、彼への未練が口まで溢れ出してしまう。

 それを吐き出したら、きっと泣いてしまうから、朝好はまばたきをしなかった。これはただの初恋ではない。愛そのもので、修司に片思いをしているのだ。


「お前さ、相変わらずだな」


 修司の声はしゃがれている。酒や煙草のせいではない、彼は目を真っ赤にして涙が零れるのを押しとどめている。朝好は、どうして彼が泣いているのかを知りたかった。


「野崎くんは相変わらずかっこいいね、また身長が伸びんだね」

「そんなの分かっている、それより、人を呼び止めてなんだよ」


 駅やバス停、カフェに向かう人の流れの邪魔にならないよう、朝好は生け垣に寄った。朝好が話そうと口を開いたら、


「修司、この後の同窓会に行こうぜ」


 と、後ろから元クラスメイトが修司を呼んできた。


 同窓会が開かれるなんて朝好は聞いていないし、もちろん呼ばれてもいない。こういうとき自分も行きたいと手を上げたら、彼らは連れていってくれるのだろうか。恐らく断れるだろう。それに、学校で目立たない生徒だった朝好のことなんか、誰も覚えていないに決まっている。現に彼らは朝好を前にして、朝好の名を呼ばないし、気にも留めない様子だ。朝好は彼らの名を一人ずつ覚えているしフルネームだって言える。

 それでも、あの頃も、いまも、彼らと馴染む気はさらさらなかった。賑やかで目立つ彼らを見下したいわけではない。ただ単に自分は一人でいることが好きなだけで、人と同じ歩調ではしゃいだり息を吸ったりするのが下手なだけだ。朝好は自分の希望通りに過ごせているのだから、彼らに文句なんて言う筋合いはない。

 それでも、修司が現れたから、彼が自分を見てくれたから、自分の殻を破りたくなった。ただそれだけのことだった。


「先に帰る」


 修司は背後を振り返って言う。と同時に停留所にバスが滑り込んできた。


「お前目当ての子がたくさん待っているんだぞ」

「おい、マジかよ」


 彼らが驚いた顔で修司を呼び止める。


「用事を思いだした」


 修司は彼らに言い捨てた。彼は朝好の傘を奪い、自身のと同じように閉じた。雨で服が濡れるのを厭わず、卒業式の日みたいに、朝好の腕を掴んでバスに乗り込んだ。


「本当に行くつもりなの」


 大股で前を進む修司の広い背中に問いかけた。車両は奇跡的に空いていた。修司が一番後ろの席で立ち止まり、強引に朝好を窓際の席に座らせる。彼が隣に腰を下ろし、朝好にだけ聞こえる声で言う。


「あんなの行く気なかったからお前がいて丁度良かった、ああ疲れた、もうこれ以上聞くなよ」

「わ、分かった、黙ってる」


 バスが発車した。車窓が流れていくと、道に立ち尽くした同級生達の呆然とした顔が通り過ぎる。悪いことしたと言う思いと、修司を独占できる喜びに、朝好は口元をゆるませた。

 朝好が沈黙すると、隣で修司が大げさなため息を吐いた。


「俺の質問くらいは答えろ、俺が話せと言ったら口を開けろ」


 修司に視線を移し、朝好は必死に頷いた。無茶苦茶な注文に不平を鳴らしたいのに、修司の機嫌が悪くなさそうだから、それだけのことで一喜一憂してしまう。


「どこに住んでる、お前、東京の大学に行ったんだろう、俺もここを出て東京にいる」


 朝好が自宅のアパートの最寄り駅を伝えると、「俺と近いじゃん」と修司の口角が上がった。


「なんで今日ここに来た、ずっと、ぼっちだったくせに」


 修司はこちらを見ずに前方をぼうっとした顔で眺めていた。その横顔を朝好は食い入るように見た。いまだけは許してください。と、朝好は頼りなく声を下げた。


「えっと、親から今日は帰ってきなさいと言われたんだ、この後実家に帰る、親がご馳走作って待ってくれているから、もう逃げ場はない、本当は帰るのが嫌だった、でも参加したという既成事実を作らないと親を心配させるから」

「なにが嫌だったんだよ、どうせぼっちが恥ずかしいだけだろう、ああそうか、学校の外では女子と話せないから緊張したのか」


 修司は口を開けば朝好を傷つける言葉を吐く。


「一人はいいものだよ」

「そういうのは虚勢を張るって言うんだ」


 それだけは修司に言われたくない。朝好が反論すると、修司は倍にして反撃してくる。昔から変わらない彼の手厳しい言動に、朝好は呆れ果てた。


「なんで一人でいたら駄目なんだ」


 朝好が言い返した。修司が物珍しそうに眉を上げた。


「恋人の一人もできないだろう」

「そうだね……時折寂しくなる」


 一拍置いて、修司に肩を小突かれる。その衝撃に、彼からの接触に、朝好は息をするのも忘れた。


「お前、童貞だろう」


 修司は下品だし、不躾な男だ。


「野崎くんには、どうでもいいだろう」


 朝好が突き放すと、修司は雨で濡れた髪をかきむしる。


「ふざけるな……」


 雨粒が飛んでくる。


「ごめん、言い過ぎた」


 朝好が訂正すると、修司は子供みたいに機嫌を直した。

修司はどうして自分に付き合ってくれているのだ。会話を途切らすことなく、朝好の歩調に合わせてくれる。ここまで親切にされたら、今度こそ勘違いしてしまうではないか。目的の駅に着くのはまだ時間があるのに、もっと道が渋滞して、バスが遅れてほしいなんて願ってしまう。


「お前は人付き合いが下手だからな」


 修司とは久しぶりに再会したのに、まるで昨日別れたみたいに、空白の時間を感じさせない。


「なんで、僕のことを知っているの」

「ぼっちの特徴だろう」

「酷い」

「高校のやつとは付き合いはあるのかよ」

「……ない」

「ほらな」


 修司は得意げに言うと、コートのポケットに手を突っ込んで腰をずらす。彼の履く革靴の先端が、朝好の靴に触れる。


「一人でいる人が皆、僕みたいだとは思わない、こういう距離の取り方が快適だからだよ、でも僕はたまに人恋しくなる、だから今日来たのかも」


 朝好は自分の張り詰める心臓の音をうるさく感じた。修司は足をどかさなかった。


「自分勝手だな、好きなときに構ってくれとか、それで相手にされず人のせいにするんだろう」


 今日の修司はよく喋る。


「僕は人を傷つけるくらいなら一人を選ぶ、それがエゴでもね」


 修司は鼻で笑う。

 それを朝好は静かに見つめた。これだけ朝好が見ているのに、目障りだと怒られないのが不思議だ。


「来るの遅かったんだな」

「あんまり早く行っても開場まで外で待たないといけないから、二つ離れた駅前でゆっくりしてた」

「開場前ギリギリでお前が入ってきたから、余計に目立っていたぞ」


 馬鹿かよ、と修司が言う。


「もういいよ、過ぎたことだし」


 朝好は手持ち無沙汰だったから、シートに両手を置いた。

 修司がおもむろにポケットから手を出し、朝好の手の甲に触れさせた。彼の湿った肌触りが懐かしい。また触るなと怒られるから、朝好は手を引っ込めようとした。


「俺のこと、少しは思い出したか」


 修司に手首を掴まれる。

 それだけで朝好は、目の奥から突き上げてくるものがあった。前歯を重ねて顎に力を入れたのに、頬が涙で濡れた。彼の太ももの上で手を絡めた。それが何を意味するのか、彼が何を求めているのか理解できない。それでも、あまりのうれしさで手を振り回したくなった。


「馬鹿みたいだとか笑ってもいい、友達にも言い振らしてもいい」


 朝好は一息吐いて、修司に思いの丈をぶつけた。


「今日ここに来たのは、野崎くんに会いたかったから、……いつも僕の中に野崎くんがいた、大学にいても、バイト先でも、その帰り道でも、家に一人でいても、ずっと野崎くんと一緒にいた。家の鍵にね、君から貰ったキーホルダーを付けてるんだ、そうするといつも野崎くんが近くにいるみたいで、いないのにいるみたいで、もうわけがわからなくなって」


 修司の白目に水の膜ができた。それを見たら罰が当たるような気がして、朝好は前の乗り口に目をやった。バスが停車してぞろぞろと人が乗り込んでくる。

 後ろのシートが埋まったから、朝好は声を潜めた。


「心の中に野崎くんがいるから、僕は孤独にはならないんだって、ひどい自分勝手な妄想だね」


 朝好はぐすっと鼻をすすった。修司が何度目かの盛大なため息を吐き出す。


「なんで卒業式の日に告白してこなかったんだ」

「フラれるのは目に見えていたから、それに行動する勇気はなかった……なんか自信満々だね」


 鼻水が垂れるから顔を上げ、空いた手で鼻をこする。


「俺に見られていて、気持ちが悪いとか、見るなっ、って言ってこなかっただろう、それだけでさ、もう脈ありだなと思った、ただそれだけだ、俺はただ受け身でしかいられなかった」


 毎秒、毎分が奇跡に思えてくる。こんなにうまい話があるだろうか。神様ありがとう。


「本当に僕を見ていたんだ……うれしい」

「お前って本当にわけわからない、真っ直ぐ過ぎて、こっちが振り回されているみたいで」


 こちらこそ調子が狂う。


「僕と友達になりたかったの?」


 そう朝好が言う。と、修司は繋いだままの手を上げて、朝好の手の甲に唇を触れさせた。ざらりとした舌で肌を舐められる。この時になってようやく、彼は自分を見てくれた。


 ああ、と朝好は全身に歓喜が湧き上がる。


「こうしてもか? 平井朝好くんは相変わらず天然だな」


 修司の顔に笑みが浮かぶ。初めて彼に名を呼ばれた。それは神様の気まぐれでもいい。

 朝好は彼の手を引き寄せて、その太い手首にそっと口づけした。


「好き」


 朝好は言った。胸がうるさく高鳴る。涙が頬を伝う。

 バスが駅前に着いても、修司と視線を絡ませた。車掌が「早く下りなさい」と言うまで、馬鹿みたいに見つめ合っていた。

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