第8話 ランカンの湯
「ようやく身体が元に戻ったな」
ビンクはベッドから降りると身体を動かす。
魔獣と戦い、毒に侵され、目覚めるまで2日、その後3日は安静との指示があったので、しめて5日間、身体を動かすことができなかった。
「よし」
そう呟くとベッド脇に立てかけてあった剣を取り、部屋を出る。
廊下で使用人たちに挨拶をしつつ、庭に向かうと人気のない場所に行き、素振りを始めた。
館に居たときは隊の訓練もあるので日課としていたが、旅に出てからは日課とするにはなかなか難しかった。
素振りをする中で魔獣との対峙を思い出す。
あの時、ニアリサスやワーダーがいなかったらどうなっていたか。
他に動くべきところ、できることがあったのではないか。
一歩間違えば今頃、こうして呑気に素振りなどできていなかったかもしれない。
死出の旅とはいえ、剣に費やした今までの時間を無駄にした可能性がある。
精進せねば。
「ビンク様っ!」
ビンクは声が聞こえたので振り返る。
そこにはラーフェルトによく似た顔があった。
ボルオット・タージレット、ラーフェルトの兄であり、三兄弟の次男だ。
ビンクが目覚めてから部屋にも挨拶に来てくれた。
「おぉ、これはボルオット殿、如何された」
「何度もお呼びしたのですが、物凄い集中力ですね」
そう言われて自身の身体を見て、大量の汗をかいていたのに気づく。
「5日ぶりに身体を動かしたので時間を忘れたのかもしれませんな」
「もし宜しければ湯浴みの用意もありますので夕食前にご一緒に如何ですか?」
「も、もうそんなお時間ですか」
「使用人たちも昼食の用意があると声をかけていたようですが一心不乱に剣を振られていて気付かなかったようですね」
庭に出たのは昼前、既に日が傾いているのを見て確認するビンク。
「そうか、お声掛けいただいたのに申し訳ない、本当に時間を忘れていたようですな」
「それだけ打ち込めるものがあるというのは素晴らしいことです」
ボルオットはそう言うと笑顔で湯浴みの場所まで案内する。
2人は使用人に服を脱がしてもらい、浴場に入る。
「おぉ、これは懐かしい」
「ビンク様は遠征で来られた際にここに入られたことがありますからね」
「そうですな、あとそろそろ様はやめていただけると」
「わかりました、ビンク殿」
タージレット家の浴場は、領の特産品であるランカンがそこかしこに植えられている。
ランカンは柑橘系の植物で黄色の実を付け、なぜか食べやすいようにカットされた状態で皮の中に入っている。
瑞々しく、比較的他の果物よりも糖度が高い。
そして糖度が高ければ高いほど、値段も高くなる。
「うむ、本当に良い香りだ、それに以前より綺麗になっておりますな」
「ありがとうございます。この浴場のランカンは湿度にも対応できるよう改良されておりますので、そして浴場自体もランカン用に一部改修をしております」
「そうでしたか、タージレット領と言えばまず最初に浮かぶのがランカン、楽しみの一つですな」
そう言うとビンクはかけ湯をした後、浴槽に浸かる。
ボルオットも続いて隣に入ってくる。
浴槽に浸かるという文化はこの国だけなのかはわからないが、ビンクは国の習慣にしてほしいと切に願うほど、熱い湯に入るという行為が好きだった。
「ふぅ、この香りに囲まれ、これほど気持ちのいい湯に浸かれるとは思わなかった」
「ビンク殿はこういった浴場はお好きですか?」
「そうですな、好きと言うか習慣にしたいと思っているぐらいですが、野宿ではそもそも難しいし、宿屋でも設備があるところはほとんどありませんからなぁ」
「それは良かった、私も常々そう思っているんです。この浴場の改修はほとんど私の趣味みたいなものでして」
「なんと、タージレット家の皆様は良いご子息、そして良い浴場をお持ちだ」
そう伝えたときにボルオットが一瞬陰りのある表情になったのをビンクはあえて見過ごした。
ラーフェルトに兄弟の話を振った時に、少しだけ状況を聞かされたのもあるが、頼まれてもいないのに家の話に第三者が口を出すのはお門違いだろう。
しかも相手は貴族だ、一般家庭よりも複雑な事情がどこにでもあるものだ。
それにビンクには主領の騎士隊隊長という職は既になく、放浪している一男爵と言う身分。
ラーフェルトの好意でタージレット侯爵家に厄介になっているが本来だとそれも筋としてはおかしいのだ。
「このあとの夕食は楽しみにしていてください、ランカンも含めてタージレットの特産品でビンク殿の快気祝いをする予定ですので」
「おぉ、それは楽しみですな」
そんな会話をしながら浴場での時間は過ぎた。
ボルオットと別れたあと、自室に戻るとすぐにラーフェルトが部屋に来た。
「ビンク様、先ほどボルオット兄様と浴場に行かれたとか」
「良い浴場、良い浴槽でしたな」
「また、そんな他人行儀に」
「ボルオット殿にも伝えたが様付けをされる役はもうしておらんからの」
「なんと言われようと私にとってはビンク様ですから」
鼻息の荒いラーフェルトを見て、ビンクはため息を一つ吐くと、話を変える。
「それにしても耳が早くはないか、浴場から出たのもついさっきのこと」
「あ、いや、それは、その」
「確かにラーフェルト殿の好意で滞在させてもらっているが監視されとるのかの」
演技をするかのように大仰に言葉を伝えるビンクにラーフェルトはおどおどと背筋が丸まり始めた。
「い、いえ、そんな監視などという」
「今日はボルオット殿が快気祝いをしてくれるらしいから、明日にでもお暇させてもらわんとな」
「ち、違うんです」
そこでビンクは笑顔になり、ラーフェルトに向きなおる。
「フェルト、出来るか出来ないかはわからんが聞くことはできる。それにお主は命の恩人だ。できる限りのことはさせてもらう」
「ビ、ビンク様」
ラーフェルトが泣き出しそうになったタイミングで夕食の案内が来る。
夕食の後にでも話を聞こうと食事のことを考えたタイミングで腹の虫が鳴った。
「タージレット領の特産品か」
ビンクの呟きと笑顔を見て、ラーフェルトは目の端に溜まった涙を拭いつつ、笑顔になるのだった。
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