夕羽振る
小狸
短編
*
ゆうはふ・る【夕羽振る】
夕方、鳥が羽ばたくように風や雨が立つ。
*
波は、ずっとさざめいている。
風は、塩の匂いが鼻の奥の方に、ほんの少し沁みる。
空は、こんがり焼けている。
私は波打ち際の防波堤ブロックより陸側にある、あるベンチに腰かけていた。
詩人は良く、こういう景色を見て美しいというのだろうけれど。
私にはその感性は分からない。
うるさいし、変な匂いだし、眩しいだけじゃないか。
おまけに鳶が飛んでいる、何かを食べようものならかっさらおうとして来る。
今日、私は仕事に行くはずだった。
――だったのだが、行けなかった。
何故か私は、職場の都心へと向かうものとは逆方向の電車に乗り、こうして海の近くまで来ている。
それまでは、私は普通だった。
普通に仕事をこなし、普通にタスクを遂行し、普通に上司に気に入られる、普通で普通の会社員だった。
無理をしていた、とは思っていない。
ただ、仕事自体は、好きではなかった。
やりがいがあるかどうかと言われると、微妙な仕事なのだ。
でも、仕事に行くことは、「普通」のことである。「当たり前」のことである。「当然」のことである。私の兄は、仕事をしていない。注意欠陥性多動性障害と精神病という烙印を押されて、今も実家に引きこもっている。どうやら家事を手伝っているらしい。そうやってすぐに人の優しさに付け込むのだ。
異常者のくせに。
異端のくせに。
ああはなりたくない。
ああなったらおしまいだ。
そう思って、私は今日まで生きてきた。
どうしちゃったんだろう、私は。
下り列車に乗った私は、車窓から見え隠れする海岸を眺めながら、一番水平線が見える場所で降りた。
そうしてぼうっと、朝から海を眺めていたら、いつの間にか日が沈んでいた。
会社からは鬼のように電話が掛かってきた。
出なかった。
というか、見たくもなかった。
多分、実家にもその内連絡が行くだろうと、私は早急に、私用と会社用と、両方のスマホの電源を切った。
普通に仕事に行く、普通にする。
それが、急にできなくなってしまった。
そんな私が、怖かった。
今まで無遅刻無欠席だった。会社の資格試験でも、きちんと合格点を出して上司から褒められる良い部下を演出していた。にも拘らず、それらが全て、おじゃんになってしまう。
積み重ねてきたものが、一気に崩れてしまう。
ちゃんとしなければ。
ちゃんとできなければ。
ちゃんと――在らなければ。
ちゃんとしない私に、意味なんてないから。
――と。
大きな風が一走り。
漣を背景に、私の横を、吹き抜けた。
何か鳥でも飛んできたのかと思ったけれど、そうではなかったらしい。
はっとして、私は目の前の景色を見た。
岩と、ガードレールと、そしてその先に広がる、雄大な海。
そして、世界。
普通とか、普通じゃないとか、異常とか、異常じゃないとか。
そんなことがどうでも良くなるくらい、広い。
そうだ。
思い出した。
――私は、この
(了)
夕羽振る 小狸 @segen_gen
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