冷雨

小狸

短編


 靴の中に雨粒が入り込んで、歩くたびに奇妙な音が鳴った。


 傘は差している。


 しかし身体を安全圏に置こうとすると、靴が濡れるのである。


 身体は、出来るだけ濡らしたくはない。


 ぐに風邪をこじらせる体質なのである。


 下手な風邪をひいて、簡単に仕事を休める職場でもない。


 冷たい。


 とても、冷たい。

 

 大気がもう少し気を許していたなら、雪になっているような雨である。


 傘を持っていても、極力、浴びたくはない。


 職場から駅へ、そして駅から自宅へ帰るためには、必然的に道路を通る必要がある。


 タクシーを使うという手もあったが、この雨脚である。同じ事を考える者が大勢いるだろう――思った通り、最寄り駅のタクシー乗り場では、人が並んでいた。


 其処そこに並ぶくらいなら、そのまま帰った方が幾分いくぶんかマシであろう。


 そう思って私は、足を踏み出した。


 そして今がある。


 駅から家までは徒歩十分ほどで、道路も広い。水溜まりも想定内だと思っていた私が莫迦ばかであった。


 特に、新しく工事して出来たビルの近くは水捌みずはけが悪く、道路へとあふれ出ている状況であった。


 流石にマンホールから噴出しているということはない。


 ただ、久方ぶりの酷い雨である。


 歩く途中で、どうも辟易へきえきしてしまった。


 寄る必要のないコンビニへと寄り、夕食を買うなどした。


 恐らく家に着く頃には、今ある気力の半分はがれているだろうと判断したからである。


 コンビニから出、傘を広げた。


 バオン、と、やや大きな音の鳴る傘だけれど、生憎この雨である。その音も掻き消されてしまった。


 家までは、あと五分である。


 此処ここからの道が、面倒だ。大きい道路より、少し入り組んだ所に入る。より水捌けが悪くなっているだろうことが想定され――その判断は実際に当たった。


 大海――とまではいかないけれど、運河のようになって、足の踏み場が無かった。


 幸い、排水溝には全て金属製の蓋があるので、足を滑らせて落ちるということは無いけれど、それでも、濡れることには濡れる。


 すぐさま靴が浸水していき、七歩め辺りで、足の指先に集中するのを止めた。


 車が通るような道ならば、もっと多くの雨水を浴びただろうが、この時間はそう通らない。

 

 昔――小学生の頃は、雨が好きであった。


 雨の日、傘を持って、合羽かっぱを被り、長靴を履いて、長い通学路を歩いて通う。

 

 今考えると苦痛でしかないけれど、好きだったという記憶だけは、妙に残っている。


 田圃たんぼ道の通りで、渦を巻くように用水路に水が吸収されていく。


 そこに傘の柄を入れて渦を乱すのが、好きだった。


 通学班の班長には、早く来い――などと怒られたものだった。


 そう考えると、大人になってしまうのも考え物である。


 私は大人になった。


 色々なことを知り、子どもより上位の存在だと思い、小学生の頃なんかは「早く大人になりたい」などと思ったものだったけれど。


 実際なって見ると、こんなものだ。


 挙句あげくの果てに、無垢な子どもに憧憬を抱くと来ている。


 全く、人間という奴は、本当にどうしようもない。


 私は、そんな私を振り返って、そう思った。


 家に着いた。


 まず、ずぶ濡れの靴下を脱ぎ、朝用意しておいたタオルで、足を拭いた。


 足の先が冷たい。


 上着の水を払ってハンガーにかけ、暖房を付けた。


 電子レンジの中で弁当を温めながら、ふと外を見た。


 先程と同じように雨が降っていた。


 安全な場所から見ると、なかなかどうして、おもむきを感じるものがある。


 雨の音、響き、粒の感触、色、匂い。


 先程まで鬱陶うっとうしかったそれらが、不思議と色彩を持って感じられる。


 人間というものは、都合が良くできている。


 「大人になる」というのも悪いことばかりではないのかもしれない。


 明日は晴れるという予報である。


 今日だけの辛抱、か。


 身体が思ったよりも冷えている。


 今日は風呂に入ろうと、私は思った。


 る三月の、大雨の日の話である。




(了)

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冷雨 小狸 @segen_gen

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