第33話




 油断してしまった。

 もはや反撃はないとたかをくくったのが失敗だった。

 き込みながら体を起こす。背中をしたたかに打ち付けたせいだ。肋骨ろっこつが数本折れたと覚悟していたが、幸いにも無事健在らしい。

 だが、状況は楽観視できない。


「やだ、近寄らないで」


 ななが消え入りそうな悲鳴を上げている。迫るのはヌリカベの触手だ。極太のそれは先程駆郎を打ち据えた新品。ぬらぬら粘液を滴らせている。

 窮鼠きゅうそ猫を嚙む。退治されまいと起死回生の一手に出たらしい。残る妖力を振り絞り捕食器官を生成、全身の触手を二本に集約したのだ。

 何故、そんなことを。

 恐らく、ななの霊体を取り込むためだ。

 霊とは純粋な魂そのものであり、すなわちそれはエネルギーの塊。同じ魂を源流とする妖にとっては御馳走ごちそうだ。吸収して急場しのぎの復活を図ろうとしている。

 肉塊自体は半壊しているも、完全体に変わりはない。

 人も霊もお構いなしに食い荒らす怪物の誕生だ。


「ひぃっ、気持ち悪いっ」


 触手の先端がななの頬を撫で回す。悪意の滴がねばつき透明なわだちを描いていく。

 汚されてたまるか。

 痛む脇腹を省みず、ななを救うためにと駆け出す。

 触手はとぐろを巻いてななを捕縛する――寸前、駆郎が割り込み魔の手を遮る。ぬめぬめした蚯蚓みみずは攻撃を緩めず、駆郎ごと巻き込もうとする。


「指――いや、触手一本触れさせない」


 お札を握りしめた両拳、霊能力者の拳骨げんこつをお見舞いだ。効果は薄いも一時的に退けるなら十分。火花を散らして触手が弾かれていく。

 ななは相棒である以前に大切な依頼主だ。こんなところで無念の散華さんげさせられない。

 廊下に転がる釘打ち機とスプレー缶を拾い上げる。これが現状の最大戦力だ。二丁拳銃よろしく銃口を突きつける。

 時刻は午前六時半を回ろうとしている。あと三十分で登校時間だ。もはや一刻の猶予もない。

 ここから先は、問答無用の力押しで行く。


「ななは下がっていろ」

「でも」

「お前が食われたら困るんだよ」


 前線よりななを退避させ、反対に駆郎はヌリカベへと肉薄する。

 スプレー缶の引き金トリガーを引く。襲い来る触手の表面にしもが降り、しなりが鈍く凍結する。反撃とばかりにもう一方の触手が迫るも、こちらも敢えなく凍り付く。悍ましい武器は完全に封殺される。

 ヌリカベは悪あがきに大口を開ける。接地面の肉塊を引きちぎり自立行動を開始。あちらも力押しを選択したらしい。このまま食らいつくつもりだ。

 目と鼻の先には生臭い悪意振り撒く巨大な口。ウバザメを彷彿とさせる捕食器官には、人間の歯が乱雑に生えている。

 だが、それを使う機会は永遠に訪れない。未使用のまま血も飲めずに終わるのだ。

 飲み込まんとする妖を前に、駆郎は一歩も退かない。

 上方より覆い被さる捕食器官へ、スプレー缶の中身を全てぶちまける。局地的大寒波が訪れて口腔内は氷河期に。乱杭歯は肉を切り裂く直前で機能を停止させる。

 勢いを失った捕食器官の中で釘打ち機を乱射する。ぐにゃりと柔らかい歯茎はぐきに押し付けて釘を刺す、刺す、刺す。土台を失った歯が一つまた一つとこぼれ落ちていく。

 粘液を幾ら被ろうともお構いなしだ。片っ端から釘を打ち込んでいく。

 ばしっ、ばしっ、ばしっ――かちんっ。

 釘打ち機が玉切れを知らせるのと、ヌリカベの核が露わになるのはほぼ同時だった。


「これで最後だ」


 足元の釘を拾う。狙う先は核。脳味噌に似た瘤目掛けて先端を振り下ろす。

 凍結から回復して捕食器官が蠢動しゅんどうする――よりも早く、銀色の切っ先が本丸に突き刺さる。

 びくん、と肉塊の表面が大きく波打った。ヌリカベの動きが止まる。歯が抜け落ちた口内を晒したまま、土塊つちくれのように力なく崩れ落ちていく。

 核より溢れ出る悪意の体液は、床の水溜まりに滔々とうとうと流れ出す。聖邪せいじゃが混ざり合い中和され、後に残るのは何の変哲もない食塩水だった。

 ヌリカベは完全に沈黙した。

 これにて、妖退治完了だ。





 ドキドキが止まらない。

 心臓はとうの昔に止まったはずなのに。

 霊体の奥でズキズキムズムズ。思い切り掻きむしりたくなってしまう。


 ――なんで、どうして。


 駆郎から目が離せない。

 妖から身を挺し庇ってくれたからか。不本意ながらキュンときた。ときめいてしまった。


 ――いやいやいやいや。絶対ない、そんなはずないって!


 古の少女漫画じゃあるまいし。自分はそんなに軽い女の子ではない。これはそう、吊り橋効果ではないか。恐怖や不安を恋心と誤認してしまう現象。それの派生だろう。以前一目惚れという大失態をしたが、あちらも同様に血迷い彷徨い気の迷い。全部勘違いなのだ。絶対そうに違いない。


「終わったぞ。何ぼーっとしてるんだ?」

「ふぇ……うわわっ!?」


 駆郎がいきなり覗き込むので、驚き思い切りのけぞってしまう。

 近すぎる。いや、普段からこれくらいの距離感だが、急に意識してしまい胸のドキドキがアンストッパブル。思考がぐるぐる大回転で纏まらない。

 まさか、本当に恋してしまったのか。

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