第32話


「駆郎、こっちのやつがまだ消えてないよ!」


 ななが指さす先、肉片が逃げ出そうとしている。触手を器用に使って水面を這いずり回っていた。

 もう一度放水して今度こそ掻き消そうとするも、カチカチと空撃ちばかりで食塩水は出てこない。玉切れならぬ水切れだ。タンクの中身がもう尽きてしまったらしい。


「これを受け取って!」


 霊動力ポルターガイストで飛んできたのはスプレー缶だ。外見は害虫対策用の物とそっくりで効能も大体同じ。悪意の伝達を阻害する薬品を吹きかけて凍結させるのだ。

 ぷしゅっとワンプッシュ吹きかけると、肉片は白く凍てつき硬直する。その隙に次のタンクとホースを繋ぎ、第二波でヌリカベを洗い流していく。


「ひとまずはこんなものか」


 高圧洗浄機のタンクを二本も使い切ってしまった。そのおかげで、ヌリカベは半分近く消し飛んだが、残るタンクはあと一本だけ。燃費に難ありだ。

 あと一回の放水で、核まで辿り着かなくては。

 妖を完全に取り去るには、発生の根源――核を確実に潰す必要がある。雑草を根っこから引き抜くのと同様。完全に息の根を止めなければ何度でもよみがえる。だが逆に言えば、核さえ潰せば妖は消滅する。急所を撃ち抜けば即座に沈黙。霊能力者の腕が問われるだろう。





 駆郎の活躍は目覚ましく、曲がり角の肉塊はどんどん形を失っていく。代わりに床は水浸しになり、日の光を反射してウユニ塩湖もかくやの絶景と化している。

 用具も相まりまさに大掃除の様相だ。後片付けが大変になると覚悟しないといけない。

 ななの脳裏に浮かぶのは不明瞭な記憶の断片だ。自分もこの学校で大掃除をした気がする。昼休みの後、クラスメイトと一緒に雑巾がけをした……と思う。仲の良い友達とおしゃべりしながら……だったかもしれない。

 駄目だ。モザイク加工されたように判然としない。記憶の中にいる人が誰なのか分かればヒントになるのに。

 この学校に懐かしさを感じる。だから、ここの元生徒のはずだ。


 ――ううん。もしかしたら、から来たのかも。


 三階の教材倉庫から出てきたのなら、次元の穴を通ってきた可能性もある訳で。文字通りの大穴狙い、最悪のダークホースなのだが、完全に否定できない。

 とすると、自分はどこの誰で、どうして霊になってしまったのか。

 土倉友子やベランダの悪霊みたいな、ごく一般的な霊ではないのかもしれない。

 真実を知るのが怖い。本当に記憶を取り戻していいのか不安になってくる。


「なな、次のタンクを持ってきてくれ」

「う、うん」


 はっと我に返る。

 いけない。妖退治の真っ最中だった。

 大きくかぶりを振って嫌な想像を追い出す。下手の考え休むに似たり。知識が足りぬまま考えたところで無意味だ。とにかく、今は目の前のことに集中しよう。

 タンクを受け取った駆郎は、高圧洗浄機を構えて激流を放出。ヌリカベと名付けられた妖は身を縮ませる一方で、気持ち悪い見た目も可愛いミニサイズに。否、やはり可愛くはない。


 ――なんだかんだ、きっちり仕事をこなしてるじゃん。


 専門外と心配していたが、大掃除は順調そのものだ。

 顔はいい。能力と熱意もある。あとは性格と態度だが、完璧超人だとそれはそれで不気味だ。駆郎はこの程度がちょうどいいのかもしれない。


「これで放水は打ち止めだな。ここから先の掃除は細かい作業になる」


 駆郎が放水銃を仕舞うのと同時に釘打ち機とスプレー缶を送り出す。残る肉塊は元の三分の一程度だ。蠢く触手は弱々しい。瘤の中の眼球も大半がまぶたを閉じてお休み状態だ。退治完了まであと少しだろう。

 釘打ち機とスプレー缶、駆郎が二つの銃を構えた。次の瞬間、肉塊が裂けてガバッと開く。口だ。縦一文字に拡がる中で乱杭歯らんぐいばが覗いている。


「なっ、完全体――」


 刹那せつな。駆郎の脇腹に触手がえぐり込む。虚を突かれて防御姿勢も取れない。抵抗できぬまま廊下の壁に叩きつけられてしまう。

 ヌリカベは新たに二本の触手を生やしていた。直径十五センチメートルはある極太サイズだ。駆郎を殴り飛ばすには十分な質量を誇っている。

 あと少しで妖退治もおしまいだと思っていたのに。

 土壇場どたんばで捕食器官を発生させ、更には新たな武器を生やすなんて。

 どうして。

 ななの疑問を余所に、ヌリカベの触手は獰猛どうもう鎌首かまくびをもたげる。

 次なる獲物を襲おうと、巨大な蚯蚓みみずが二匹にゅるりと伸びてくる。

 狙われているのはもちろん――ななだ。

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