第20話


 ななは己を鼓舞し、悪霊の棲みたるベランダへ飛んでいく。

 改めて言いたい。怖くて仕方ない、と。

 もし自分が霊でなければ漏らしていた。全身が拒否反応を示している。

 だが、もう後には引けない。

 大見え切っての背水の陣だ。確実に結果を出さねば。

 悪霊が出現すれば御の字。すぐに駆郎とバトンタッチして、強制浄霊すれば試練クリアの万々歳。一応霊同士なので、意思疎通も微粒子レベルで可能かもしれない。もしもやり遂げたら、ななの評価もうなぎ登りで褒められまくりだろう。俄然がぜんやる気が出てくる。


 ――見てなさいよ、駆郎!


 すり抜けてすぐ鉢合わせは嫌なので、実体化してから手動で引き戸を開ける。霊動力ポルターガイストで開閉する手もあったが、無駄な消費は極力押さえる。最悪、逆上した悪霊に襲われた場合に備えてだ。体力温存ならぬ霊力温存。あらゆる可能性を想定するのが、優れた助手の条件と言えるだろう。


 ――大丈夫、そんなに怖がる必要はない。


 自分は霊であり、常に宙に浮いている。つまり、いきなり足を掴まれないはず。足元は気にせず、上方からの攻撃に注意しよう。

 固唾を呑み、ベランダへと足を出す。

 右足が外気に晒されるも、ぬるい夏の風だけが吹き抜けていく。

 問題なし。続けて左足を出す。こちらも変わらず、異物が触れる様子はない。

 頭上はどうかと視線を向けるも、年代物のひさしがあるだけだ。悪霊は現れない。

 ほっと胸をで下ろす。


 ――って、出てくれないと困るんだけどね。


 警戒心の強い悪霊らしい。か弱い少女が丸腰でやってきたというのに。元幼児だから臆病なのか。口ほどにもない。と、またも自身を棚に上げていると、足に紅葉もみじのような手が絡みついてきた。しかも両手だ。ざらりとした感触が霊体の表面を削っていく。

 痛み。否、それよりも先に湧き上がるのは恐怖。

 もしかして。もしかしなくても。

 おもむろに足元を見下ろすと、果たしてそこには這い寄る灰色グレーよどんだ四つの瞳とのこぎりのような歯を光らせている。

 のどが悲鳴を絞り出すまで、さほど時間はかからなかった。





 何をそんなに張り切っているのか。

 ななは生意気にも「自分一人に任せろ」と豪語した。

 前日に“キューティア”をリアルタイム視聴したせいだろうか。テンション据え置きとは、やはり幼稚と言わざるを得ない。

 聞き分けのない子どもか、とたしなめようとした。が、彼女の意見も妙案では、と踏みとどまった。

 ななの方が適任かもしれない。

 土倉友子との関係が良い例だろう。見ず知らずの霊とも仲良くなり、いとも簡単に情報を引き出していた。

 偉そうな態度は気に入らぬが、彼女なしでは浄霊もままならない。


 ――女児霊ありきの仕事なんて、霊能力者として未熟だな。


 あくまでも、野良の霊をうまく利用しているだけのはず。間違っても、ななに依存している訳ではない、絶対に。と、内心言い訳に終始していたのだが、


「ひぎゃあああああああああっ!」


 ベランダから響く絶叫により思考が中断される。

 その主は無論ななである。

 意気揚々とベランダに出てすぐコレだ。原因は間違いなく悪霊にある。立ち上る悪しき気配からしてそれは明白だ。

 同じ霊の訪問が嬉しくてつい顔を出したのか。それとも、弱者の登場にこれ幸いと襲い掛かったのか。

 どちらが正解か分からない。考えても仕方がない。

 やるべきは強制浄霊一択のみ。

 駆郎はお札片手にベランダへと駆け出す。机と椅子を掻き分け教室を横断し、開けっ放しの窓へと飛び込む。長方形の空隙くうげきを通過。眼下には匍匐ほふくする悪霊の姿。両腕をななの細い足に食い込ませている。

 悪霊はどこまでいっても悪霊だ。

 善良な少女の霊相手でも、闇に引きずり込もうとしている。悪意の汚濁おだくで染め上げて己の一部にするつもりか。


 ――させてたまるか。


 お札ごと拳を握りしめる。

 浄霊の念をその手に宿し、悪霊の背中へ垂直に振り下ろす。

 ずぶり。

 霊体を突き抜け拳がめり込み、貫通痕より力が染み込んでいく。


「ウガァ、アァァッ」


 一撃で致命傷――否、致浄傷と言うべきだろうか。不可逆の傷を負った悪霊は、びくびくとのたうち回る。撒き散らすのは悪意ではなく、崩壊する自身の霊体だ。濁ったもやが空気中に溶け込んでいく。どう足掻あがいても浄霊は免れないだろう。


「く、くくくくく駆郎っ」


 ななは身をすくませて震えるばかり。悪霊の襲来におののいたのが見て取れる。彼女には荷が重かったらしい。

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