第16話


 その膂力りょりょくは一般的な幼児とはけた違いだ。メキメキと足の骨が悲鳴を上げている。悪霊特有の、怨念による身体能力の底上げだ。霊は意志の強さに比例して、現実に絶大な影響を及ぼす。これ以上の放置は最悪の事態を招くだろう。

 この場で強制浄霊するしかない。

 ポケットより引き抜く紙片は仕事道具のお札。これを霊体にねじ込めば、悪霊は否応なく浄霊される。ベランダ生活を終わりにしてやる。

 だが、


「くっ、逃げたか」


 思いのほか、悪霊の逃げ足は速かった。

 お札を取り出した時点で身の危険を感じたのだろう。即座に霧散し非活性化した。ベランダには悪しき残り香だけが漂うばかり。本体の気配は微塵もない。

 十数年もの間、ベランダにいるだけの悪霊だったのだ。後ろ向きな性質も頷ける。その意味でも、突然やる気になった理由が腑に落ちない。悪霊が一念発起する何かがあったはずだ。


「ところで、だ」


 足首に纏わりつく悪霊の残滓ざんしを払い落とすと、呆れ顔で背後の相棒と相対する。


「お前も霊なのに相当な怯えようだな」

「べ、べべ別に、悪霊なんて怖くないんだからねっ」


 豪語するななだったが、真紅の瞳は激しく泳いでいた。誰がどう見ても怖がりの反応である。悪霊との遭遇が堪えたのだろう。霊体はスマートフォンの振動バイブレーションよろしく小刻みに震えている。

 出会った当初、一人で学校に泊りたくないと駄々だだをこねただけある。

 自身が霊だとしても、恐怖心が克服できるとは限らない。ましてや相手は異形と化した存在だ。本能的な忌避は仕方ないだろう。だが今後は、あの悪霊以上の化け物とも対峙しなくてはいけない。先が思いやられる。


「声も体もブルブルだな」

「うるさいっ!」


 頭頂部より湯気を噴霧して、ななはぷんすか教室に戻っていく。

 どうやら怒らせてしまったらしい。





 夕日が差し込みだいだい色に染まりつつある本棚の森。

 ここは図書室――の最奥部に位置する倉庫の中、貸出不可の資料や破損した書籍の修理兼保管場所である。

 生徒はおろか教師も利用しない寂れた区域。

 そこでななと駆郎は、“よくわかる!霊の世界”という児童向けの図鑑を拡げていた。


「今更なんだけど、霊ってなんなの?」


 という疑問が事の発端だった。

 駆郎は良い機会とばかりに図書室へ。図鑑を参考書にマンツーマンの指導が始まってしまった。

 実施場所が倉庫になったのは、他の生徒に会話を聞かせたくないからだ。一般人視点だとななは見えず、駆郎がぶつぶつ独り言を呟いているだけ。生徒にいらぬ不安を与えないための措置らしいが、実際のところ、不審者と思われたくないのが最大の理由だろう。以前、人目を気にするよう反省を促したので、それが効いたと思いたい。

 因みに図書委員の女の子から、「書庫は汚れているから気を付けて」と注意があった。実際、泥が固まった跡があちこちにある。ねずみが建物の隙間を往来している可能性が高い。現在の校舎自体、五十年近く前に建て直された物らしい。あちこちがたが来てもおかしくないだろう。図書室及び倉庫は誰でも利用できるようにと鍵や扉などの仕切りがない。鼠達も今頃他の教室に足を伸ばしているのではないか。想像するだけで悪寒を禁じ得ない。


「じゃあまずは基本のキ、魂についてだが」

「それは知ってる。一般常識だもん」


 その程度の知識なら忘れず身についている。記憶喪失だからと無知扱いはしないでほしい。


「生き物が持っている見えないエネルギーのことでしょ?」


 有史以前より存在がささやかれていた、生命体の内より湧き上がる不可視の力。主が発する感情の影響を受けやすく、その強弱によって現実に様々な影響を及ぼすとされている。食事や睡眠などを元に生み出されるため、魂イコール生命力と捉えるのが一番しっくりくる。


「ざっくり言えばそうなるな」

「じゃあ、ななみたいな霊ってなんなの?」

「ここを読めば馬鹿でも分かるぞ」

「うわ、手心の欠片かけらもない言い方」


 駆郎が指し示すのは図鑑の一ページだ。死体より抜け出す霊のイラストに、状況を説明する文章が併記されている。


「端的に言えば、死者が生前残した強い感情……魂が肉体を離れて、現世に残っている状態を指す」


 図鑑と駆郎曰く、霊はエネルギーそのものであり、生前と違い実体がない。これを専門用語で霊体と呼ぶ。故に、本来であれば物体に干渉不可能であり、ある意味空気のような存在らしい。

 しかし、霊本人の感情によって例外は多数。触りたいという思いを叶える形で現実に干渉可能になる。実際、ななの拳骨げんこつは駆郎の頭頂部を打ち据えて、首振り人形ボブルヘッドのように揺らしている。


「なんで殴った?」

「念のため、ちゃんと触れるかなって」

「パンチする必要なかっただろ」

「馬鹿にされた分のお返しだもん」

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