思うに羊の夢は無く

銅座 陽助

第1話


 ぴり。と、刺すような痛みが走る。


 左手を開いて見てみれば、どうも知らぬうちにささくれが出来ていたらしい。

 服のやわい生地に引っかかって、中指の爪の身体側のほうに、白い糸のようなものが飛び出しているのが見えた。

 こういったささくれが出来てしまったときは、爪切りなんかで綺麗に切り落として、ハンドクリームや絆創膏で覆っておくのが正しい処置らしいのだが、なにぶん面倒臭がりな性分なもので、つい右手で摘まんでそのまま引き千切ってしまう。


 するりと嫌な感覚が走って、皮膚の抜ける抵抗感が、思っていたより少し長かったように感じられた。

 恐る恐る左手を見れば、やはりというべきか、裂傷のようなピンク色の筋が、第一関節の近くまで届いていて、じんわりと血が滲んでいるのが見える。

 嗚呼、やってしまったと思うのも束の間に、空気に触れる傷口の、痺れるような熱さが指の奥の方の骨の辺りまで届くような、掻きむしりたくなるような痒みがじくじくと主張し始めてくる。

 私は仕方なしに椅子を立って、絆創膏の入れてある引き出しの方へ歩き始めた。


 二、三歩進んだところで、つま先に違和感を覚える。

 履いていたスリッパを脱いで、その中の足の、指先の方を見てみれば、こちらも皮膚が少しばかり剥けているらしかった。

 しかし、今度は随分と大きなささくれである。普通ささくれと言えばせいぜいが、折れた鉛筆の芯くらいの大きさなものである。

 それがいま見つけた足先の、薬指の甘皮のところに出来たものは、横の幅が小指の爪の先くらいに幅広くできていて、ささくれというより皮膚が丸ごと捲れあがっているような様子であった。

 ものぐさな私でも、この大きさのささくれを千切って処理しようというのは気が進まない。なによりつい先程、左手中指のささくれで痛い目を見たばかりである。こればっかりは仕方ないと思って、ため息を一つ吐いて、絆創膏や軟膏、爪切りなんかの入った引き出しを開いた。


 引き出しの中から先ずは爪切りを取り出して、足先のささくれの余った皮膚を切る。日焼け止めを塗り忘れてプールに行った次の日のような、パッチみたいな一枚の皮膚が採れて、少しだけ気分が高揚する。傷口を覆うように軟膏を塗って、その上から絆創膏をあてがおうとして、絆創膏の大きさが足りないことに気が付いた。仕方がないのでガーゼを取り出して、ぐるりと足を囲うようにテープを巻いて固定する。

 同じように指先のほうも軟膏と絆創膏で処置をして、終わったら一通りを救急箱の中に戻して立ち上がった。足裏にテープが通っているので、もそもそとして少し気持ち悪い。とはいえ仕方のないことなので我慢して、救急箱を引き出しに仕舞って、切り取った皮をゴミ箱に捨てる。立ったついでにキッチンでコーヒーを淹れなおして、机に戻って仕事の続きをすることにした。



 文字の打ち込みをしていると、やはり左手の絆創膏が邪魔なせいか、何度かミスタイプをしてしまう。なんとか上手くいかないものかと左手を見て、私は人差し指にもささくれが出来ていることに気が付いた。

 部屋の湿度を見直した方が良いのか、或いは私自身の食生活や手先のケアを見直したほうが良いのか。とにかく、ささくれが出来ていることは事実であるので、私は億劫に思いながらも、絆創膏を貼ろうと席を立った。


 この調子だと全ての指に絆創膏を貼ることになるかもしれないな、等とくだらないことを思いつつ、先程閉じたばかりの引き出しを開く。中から救急箱を取り出して、さかむけた皮膚を爪切りで落として、軟膏を塗って絆創膏を巻く。

 二度手間どころか三度手間になっては面倒なので、念のため全部の手指を眺めてみれば、案の定右手小指にもささくれが出来ていることに気が付いた。これで手の三割が絆創膏に覆われることになる。処置をしながら、この調子だとあっという間に、先程の妄言が現実になってしまうかもしれないなと、つい苦笑が零れ出た。



 席に戻り、仕事の続きをする。とはいえこのような状態で、いつものような速度でのタイピングなど出来るはずもなく、当初の想定よりもずいぶんと時間が掛かってしまって。

 数時間が経って、ようやく一区切りが着いた。

 眉間を抑えて天井を向き、肩を回して凝りを取る。ぱきりごきりと小気味良いような、錆びついた関節が鳴る音が身体の内側から聞こえてくる。腕を伸ばして大きく伸びをして、


 その瞬間に、ぴしりと嫌な感覚が、左腕全体に走ったような気がした。


 恐る恐る自分の左腕のほうを見ると、手の側から罅割れたようなピンク色の線が、肘を越えて肩口まで走っている。その罅の根元には中指の絆創膏があって、あのささくれの傷口から伸びているように思えた。


 思考が情報を処理しきれない。両手を上げた不自然なポーズのまま硬直して、とにかく動かさない方がいいように思える。そもそもこの罅はあの中指のささくれから伸びてきたものなのか? 横の人差し指の方からは裂傷が伸びていないということはなにか違いがあるのではないだろうか、同じささくれの中指と人差し指の違いとはなんだ? 指の太さ? 腕との位置? 違うだろう、ささくれをどう処理しようとしたかがキーポイントに違いない、適切な処置をした人差し指のそれに対して中指のささくれは初めに千切り取ろうとしてやりすぎて長く剥ぎ取るように傷口を作ってしまったじゃないか、右手小指のささくれを起点とした右腕の罅割れは起こっている感触が無いということは右と左でなにか違いがあるに違いない、左右差で言うならば心臓との距離だろうか左腕の方がほんの僅かに心臓に近いのだからもしかしたら血液の流量なんかが関係しているのかもしれない、いや左右の以前にそもそも中指は一番初めにささくれを見つけたところなのだから時間的な差異もあり得る、つまり中指のささくれはそれが発生してから時間が経っているからこんな風に悪化しているのであって同じように時間が経てば人差し指も右手の小指も同じようにささくれが裂けはじめて同じように腕全体に罅が入ったように同じように広がるのかもしれない、今でこそこうして動かないでいるから罅割れが広がらないで済んでいるにしてもこのまま元の位置に腕を戻せばあるいはこのまま立ち歩いたり仕事を再開したりすればその振動が伝わってもっと大きく裂け始めるかもしれない、それはそうといつまで私はこの姿勢のまま固まっているのだろうか助けを呼ぶにしても最低でも手を動かさなければいけないのだから動くしかない左手を動かすのはすこしリスクが高いから右腕で机の上においてあるはずの携帯端末を


 ぴしり。

 ああやっぱりそうだ右腕に変な感覚が走ったこれは罅割れが起こっているに違いないそれに今右腕を動かしたせいで全身が少しだけ動いて左腕の罅も広がっている人差し指も裂けているに違いない裂け目の端も肩より上のところまで来ているこれはどこまで来るのだろうか肩のところの薄い骨の上のところで止まらなかったのだからそのまま首まで広がるのだろうか首が裂けて耳の下が裂けて頭まで裂けるのだろうかああ目と喉が渇く瞬きすら怖い目の端の方の目頭と目尻とが裂け始めるかもしれない喉を動かすのも怖い喉の動きで喉が裂けたら声を上げて助けを呼ぶこともできなくなってしまうそれ以前に首の太い血管が裂けたら出血多量で死んでしまうに違いないもうこのまま上半身を固めたままどうにかして助けを呼んでもらうほかにない家にほかに誰も居ないのだから動けない私を誰かがすぐに見つけてくれることなんてまずありえないのだからどうにかして隣の家の人か誰かに救急車を呼んでもらわないといけないでも玄関から出るには丸いノブを回さなければいけないそのノブを回すことは手を動かせない私には出来ないじゃあ体当たりでそれはもっと良くない全身に強い衝撃が走ってしまうもう壁でも蹴って警察でもなんでも来てもらうしかない体当たりはだめだから壁を蹴りつけるほかはないどうにか気づいてうるさいくらいに壁を蹴って大屋への連絡なんかは後回しにして警察を呼んでもらうほかはないまずは壁に向かうために立ち上がろうでも何か忘れているような気が


 立ち上がろうと足に体重を掛けた途端、ぐらりと天地が揺れる。

 踏みしめるはずの床は妙に柔らかく感じて、そのまま右肩からしたたかに打ち付ける格好になる。

 そういえば足にもささくれが出来ていたなと思い出したのは、意識が途切れる直前の事だった。



……

…………



 隣の部屋から異臭がすると通報を受けて、警察官の俺が、この荘の大屋と一緒に踏み込んだときには、中はかなり酷い有様だった。

 流し場とコンロはもうずいぶん長い間使われていない様子で、中に放り込まれた洗い物と三角コーナーの生ごみが腐って、蠅と蛆が沸いている。

 奥にある居間の中央では、赤色の循環液と黒色の駆動用エネルギー液が混じった、毒々しい色の液体が床一面に広がっていて。その真ん中に、もう長い間手入れもされていないような、薄汚れたアンドロイドロボットが転がっている。

 部屋中にシンナー系溶剤の甘く独特な匂いが立ち込めていて、その人工皮膚は窓から差し込む日光を浴びてぼろぼろで、腕だった部位に走る長い裂け目の間からは、劣化した金属フレームが露出している。

 床に強く打ち付けたのか、頭部の演算装置はその一部が破損し露出していて、特に肩の辺りでは回路が千切れて、電熱でやや皮膚が溶けている様子だった。


 「旧型の女性型アンドロイドガイノイドか。まったく持ち主はどこに行ったんだか。携帯もなにも繋がりやしない」


 大屋がそう吐き捨てる。俺は壊れた人形に近づいて、机の上に視線を向けた。

 机の上には埃の積もり始めたラップトップパソコンが真っ黒な画面を向けていて、その横にはなにか文字が書かれた、十数枚ほどの紙が置かれている。

 心得の無い身ではそれが小説なのか韻文なのか、あるいは楽曲の歌詞なのかすら判別がつかないが、このアンドロイドの持ち主が以前に作っていた作品の電子化作業でもやっていたのだろうか。


 「トんだんだか、自殺したんだか。それとも殺されてたりするのかね。どうなのよ警官の兄ちゃん」


 「ここの契約者さまと同じお名前の方が見つかったとは、少なくとも本職は存じ上げませんね」

 お力になれず、申し訳ございません。

 半ば上の空で答えながら、俺は机上の原稿から目を離せずにいた。



 しばらくして清掃業者が呼ばれ、部屋は綺麗に片づけられた。

 家賃も滞納されていたらしく、直ぐに空き部屋として募集が出されていた。角部屋で日当たりも良く、諸事情で家賃も安かったので、なかなかに人気が出そうだったので、とにかく急がないといけなかった。




 ロボット技術がブレイクスルーを起こしてから、今年で三十年ほどになる。

 少子高齢化の当然の帰結として現れた労働力不足は、この技術発展によって一時しのぎの目途が立ちはじめた。そういった労働力の補完に用いられる純産業的なロボットの発展と同時に、嗜好品的な意味合いが強い、極めて人間に近い外見をしたアンドロイドも普及しつつあった。

 家庭内に加え、接客産業などでもその一部をこれら人型ロボット、アンドロイドが担いつつあり、もはや我々の社会において彼らアンドロイドは親愛なる隣人、パートナーとして認識されつつある。


 しかしいくら愛犬家や愛猫家がペットを家族と呼ぼうとも、法律上彼らがモノとして扱われ、売買されるのとまったく同じように。

 一部活動家が声高に叫びこそすれ、当然のことながらこの国では、

 アンドロイドに人権は認められていない。

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思うに羊の夢は無く 銅座 陽助 @suishitai_D

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