第16話 人攫いの村

 翌日学校から戻り、私の貴重な肉で焼肉定食の昼食をとると、早速バイクにまたがった。


「しっかり捕まってろよ」


 そう言うと、確はゆっくりとオートバイを発進させる。音もたてずに、細かな雨が風に舞っていた。こういう軽やかな雨のことを小糠雨というのだと、昔クロウに教わった。


 ニスを縫ったように反射する路面を、確は慎重にバイクを走らせてゆく。濡れた緑が濃い匂いを放っている。道路脇の岩肌からじくじくと水が滲みだしていた。目指すダムまで、一時間ほどの道のりだという。


 信号のない一本道を、川に沿ってカーブを繰り返す。この村の道はどれだけ走っても、一向に代り映えがしない。確が校則に違反してまでバイクに乗りたがるのは何故だろうと思った。


 しかし確の背中に合わせて体を傾け、エンジンの振動を感じていると、次第に野生の動物にでもなったような解放感に包まれ始めた。幾千もの風が身体を突き抜けてゆく。自由にどこまでも走ってゆける気がする。確の心境が少しだけ理解できる気がした。


 進むにつれて道幅が狭く、傾斜が険しくなる。鬱蒼とした木立に囲まれ、昼間なのに薄暗い。あちこちに散らばる落石を巧みに避けながらバイクは前進する。霧が降りて、視界が悪くなってきた。確がライトを点灯する。遠くで雷が鳴っていた。


 事故でもあったのか、茶色く枯れた花束が路肩に置き去りにされていた。破れたガードレールが白いビニール紐のように谷底の濁流に向かってぶら下がっている。不穏な光景に、否応なく緊張が高まる。


「ダムが見えてきたぞ」


 確が声を張り上げる。前方が開け、婉曲した川の向こうにコンクリートの巨大な堰が現れた。地鳴りのような音と共に、茶色く濁った水を放流している。遠雷の正体はこれだったのだ。


 突如、頭を激痛が襲った。頭蓋に錐を打ち込まれるような痛みと共に、全身に痺れが走る。思わず目をぎゅっと閉じて顔をしかめる。ヘルメット同士がぶつかり、確がブレーキをかけた。


「どうした」


 振り向いてフェイスシールドを上げる。


「すごい邪気を感じる。これ以上行ってはいけない」


 ワーンと咽ぶような音が聞こえる。どれだけ大きな水音にもかき消されることなく、耳鳴りのように直接耳朶に響いてくる。低音に高音が混じった奇怪な音が、鼓膜を内側から振動させる。あまりの不快に、胃がひっくり返りそうになる。


「霧が」


 確の声に目を開けた。傾斜をなぞるように、濃い霧がこちらに向かって降りてくる。


「分かった。戻ろう」


 確も本能的に危険を察知したようだった。頷くと、バイクをUターンさせた。


「おい、あれ」


 アクセルをふかせた手が止まる。霧の中から裸足の足がゆっくりと近づいてくるのが見えた。腐臭が漂う。


「一体だけじゃない。うじゃうじゃいる。何だよこいつら」


「この穢れ……幽霊なんて可愛いものじゃない。呪いでがんじがらめになった式よ」


 霞む景色の中、泥にまみれた足が次々と現れる。


「囲まれた」


 確の声がかすれる。


「確、アクセルを」


 割れそうな頭の痛みをこらえて目を見開くと、霊達を睨みつける。


「私が道を開けるから、確は運転に集中して」

「了解」


 エンジン音が鳴り響く。私は手刀を構え、大きく横一文字に空を切る。


「臨!」 


 縦、横、縦と腕を振る。 


「兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前!」


 刀印を払った途端、圧を受けたようにぐらりと霊達の身体が揺らぎ、道が開いた。確がすかさずブレーキを開放する。バイクが巻き起こした風に霧が流れ、霊の上半身が露わになると同時に戦慄が走った。左手で確の腰を掴むと右手を離す。


「オンマリシエイソワカ」


 現れた刀を掴み、伸びてきた腕を斬り払う。


「あいつら、首が無い!」

「振り向かないで! 間違っても同情なんかしちゃだめ!」

「するかよ!」


 霊が追って来るのが気配でわかる。耳の中の音が一層大きくなる。

怒っている。何者かが、激しく怒っている。耳が裂けそうだ。地の底が震えているような、それが天蓋一杯に反響するような、圧倒的な音だ。


「南無本尊界、摩利支天、来臨影向其甲守護し給え」


 確の集中を途切れさせてはならない。祝詞を唱え、消えてしまいそうになる意識を必死に保つ。確はまるでほっそりした虎になったかのように、悪路を猛スピードで走り抜ける。エンジン音が私たちの周りに壁を築き、そのトンネルの中を縫うように走った。


 ふと空気が軽くなり、邪気が去ったのが分かった。民家がぽつぽつ見えだすと、確の身体からも緊張が解ける。だが止まることなく、まっしぐらに神社へと走った。


「よくやってくれた」


 神社にたどり着くと、確はまずバイクを労った。


「おい、大丈夫か?」


 ヘルメットを脱いだ私を振り返り、眉を寄せる。


「平気。ちょっと頭が痛むだけ」


 確の声も、自分の声さえよく聞こえない。


「確、サンキュー」


 バイクから降り、ヘルメットを手渡したところで意識が途絶えた。


 額に冷たい手が触れた。ゆっくり目を開けると、くすんだ天井を背景に、確の顔がぼんやりと浮かんでいた。


「私、気を失っていた?」


 夢を見ていた気がする。内容は忘れたが、まだ胸が落ち着きなくざわついている。


「どうだ、頭はまだ痛むか。吐き気はしないか」


「頭痛以外は、何ともない」


 起き上がろうとしたら、肩を押えて止められた。冷えたタオルが額に載せられている。


「もう少し横になっていたほうがいい」


 私は居間のソファーに寝かされていた。気を失うなんて初めてのことだった。鼓膜にこびりついたように、まだあの音がしていた。


「私、どれくらい気を失っていたの?」


「ほんの一時間くらいだ」


 その間ずっと傍にいてくれたのだろうか。


「確は大丈夫?」


「ああ。俺は何ともない」


「よかった。確には産土神様と咲希ちゃんがついているから。お守りが堅いんだね」


 クロウは悪くない。だから確、そんな顔をしないで欲しい。


「……あいつら、いったい何者だったんだ」


「呪術により霊を支配下に置き操ることを役鬼、または使鬼と言うの。あれは支配下に置かれた霊。式よ」


「……みんな、首が無かった」


 そろそろと上半身を起こす。軽く眩暈がしたが、確が注いでくれた水を飲むと落ち着いた。


「あの場所で昔、何があったの」

「今、神主さんが色々調べてくれている」


 ちょうどその時、本や紙の束を重そうに抱えた神主が部屋に入って来た。


「おお万琴、気が付いたか」


 私の顔を覗き込み、うんうんと頷く。


「えらい目にあったそうだな」

「神主さん、何か分かりましたか」

「まあそう焦るな」


 確を軽くあしらい、テーブルの上に地図を広げる。


「村の地図だ。ここが今日お前たちの行った蛇尾ダム」


 赤鉛筆で印をつける。


「玉置神社はここ」


 地図上でも距離のある一点に印を書く。


「そしてこれが昔の地図。明治の初めに制作されたものだ」


 もう一枚、筆描きの地図を取り出し、並べて広げた。確が丸まろうとする四隅にリモコンやスマートフォンを置いて押える。


「へえ。川の形がだいぶ違いますね」


 両方の地図を見比べて言った。曲がりくねり、枝分かれした川が、老人の手の甲に浮かんだ静脈のようだった。少しグロテスクな感じがする。


「絵を描いた人が下手くそだったんじゃないの?」


「まあ、今ほど正確な技術があったわけではないから。だがここなんか、そっくり支流が無くなってるだろ。明治の水害で深層崩壊が起こって川が堰き止められたんだ」


 確が以前話していた水害だ。


「明治二十二年に起こった紀伊半島大水害で、ここらも大きな被害を受けた。犠牲者も大勢出たんだ」


 水害の犠牲者と聞いて、式たちの泥のこびりついた足が脳裏をよぎった。


「今現在、蛇尾ダムがあるのはここですね」


 確が古地図の一点を指さし、几帳面な文字で書かれた地名を読み上げる。


「長瀞村?」

「梁瀬村じゃないの?」


 顔を上げ、神主を見る。


「昔、この辺りには小さな村が点在していた。明治政府の行った町村制によって、一帯にあった七つの村が合併し、梁瀬村になったんだ。水害の翌年のことだ」


 ペン先で古地図の上を指し示す。


「梁瀬村、二見村、出谷村、杉立村、上垣村、迫瀬村、そして長瀞村。この七村が合併した」


 合併後の村は翼を広げた蝙蝠のような形をしている。右翼の先端が旧梁瀬村、尾が長瀞村にあたる。


「長瀞村も、水害による被害は大きかったんでしょうか?」


「いや、それがよく分からない」


 シミだらけの分厚い本をめくって言う。


「分からない?」


 では、神主の抱えてきたこの古臭い本の山は一体のためなのだ。


「明治の水害を記録した書物は多いが、ここに各村の被害状況をまとめた表が載っている。ほら、長瀞村だけが空白になっているだろ」


 本を覗き込むと、村ごとに家屋の倒壊数、死者数などが一目瞭然となっている。なのに、長瀞村だけがどの項目も空白だった。データが無いのに割愛するわけにもいかなくて、仕方なく載せてあるようだ。


「他にも水害誌関連の資料を探したが、長瀞村の名が出てくるのはこれだけだった」


「ダムの上流には天然のダム湖がまだいくつか残っているし、被害が無かったはずはないのに。変ですね」


 確が眉根を寄せて言った。


「長瀞村は特殊な事情を抱えていたんだ」


 神主は腕組みし、ソファーに身体を沈める。


「伝承によると、長瀞村は人さらいの村と呼ばれ、恐れられていた」


「人さらいの村?」


 確と声が重なる。


「あの村には決して近づくなと言われていたようだ。近づいたものが何人も行方知れずになっていると」


「まさか、行方不明になった人が殺されて、首を斬られたとか?」


「そう早まるな」


 声を大きくした私たちを、冷ややかに制した。


「伝承を額面通りに受け止めるのは危険なんだ。人さらいの村とは被差別部落の蔑称だった可能性もある。加害者と被害者、凶事と吉事を入れ替えて伝承する方法は、民俗学的によく見受けられることだから」


 黙ったまま確と顔を見合わせた。確の困惑した表情が、そのまま私の気持ちを映しているようだった。


「だが昭和に入ってからの調査で、あのあたりに銀の鉱脈があったことが分かった。とっくに掘りつくされていたのだが、かなりの産出量があったはずだ。村の人たちは銀で生計を立てていた。無論、内密にな。私は、人さらいの村とは、よそ者を近づけないため、長瀞村の者たちがあえて流した噂だと考えている。行方不明者は、労働力として一生こき使われたのだろう。なんにせよ、秘密の多い村だったことは間違いない」


「つまり、閉ざされた村だったから情報が極端に少ないということですか」


「そういうことだ。私の書棚からかき集めた資料にも、空白の情報が載っているのみ。地理的にも奥まって孤立しているし、当時では行き来するのもやっとだ。明治三十九年から始まった神社合祀政策でも、長瀞地区は最後まで抵抗している。排他的な村だったことが分かるだろ」


「神社合祀政策?」


 確と共に首を傾げる。


「ああ。一町村に神社は一社だけに絞れという政策があったんだ」


「随分乱暴な話じゃない!」


 思わず声を荒らげてしまう。


「村の鎮守を無理やり国家神道としてあるべき型にはめ込もうとしたんだな。実際、祭神がよく分からない神社も結構あったようだ。だがいざ統廃合するとなると、抵抗はかなりのものだった。南方熊楠なんかも随分反対したんだが、無格神社は全て合祀が強行された」


「まさに神をも恐れぬ暴挙ね」


 本当にそんなことがあったとは。拳を握り締める。神格なんて関係ない。里の人々が大切に先祖代々祀って来た神様だ。その思いをどうしてくれる。


「実際この村で赤痢が流行したときも、氏神を合祀した神罰だといわれたらしい」


「気の毒に。祭神がなんだか分からなくても、疫病除けの神様として慕ってきたでしょうに」


 憤慨していたら確と目が合った。巫女のくせにそんなことも知らなかったのかと馬鹿にされるのかと思って身構えたが、ふっと目をそらされた。


「今、あのあたりに残っている人はいなさそうですね」


 地図に目を落として言う。バイクで走ったときも民家は見当たらなかった。


「元々の住人は、ダム建設の際に立ち退いたということですか?」


「いや、ダム工事が始まった昭和三十年頃には、もう誰も住んでいなかったようだ」


「集落が無くなったのはいつ頃でしょう」


「それもはっきりとしない。何しろ資料が少なくてな。もう少し時間をくれ。調べてみよう」

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