第15話 幼馴染

 翌朝目を覚ますと、確は既に自宅に戻った後だった。毎朝バイクで自宅に戻り、制服に着替えてから登校することにしたのだ。神社に寝泊まりしていることを隠すためとはいえ、ご苦労なことだ。


 スクールバスに揺られていた時だ。スマートフォンが震える。見ると確から、交換したばかりのラインを使ってメッセージが届いていた。


「れいのおかわり」


 よほど慌てたのか漢字に変換もされていない。意味が分からず首をひねると、間髪を入れず次のメッセージが届いた。


「霊のおかわり届いてる」


 はぁーっ? と大声を上げ、慌てて口を塞いだ。


「霊のおかわりってどういうこと?」


 正門で待ち構えていた確と合流するなり、小声で話しかける。


「そのまんまだ。見てみろよ」


 確が指さした方を見て、一瞬息をのんだ。真っ赤なワンピースを着た、毒々しい化粧の女が靴箱の陰に俯き加減に立っていた。腹部に包丁が刺さったままだ。服の赤さは血のせいなのだろうか。


「おーっと、お二人さん今日はお揃いで登校ですか。昨日はどこで何してたのかなぁ?」


 名前は思い出せないが、クラスのお調子者の男子が確の肩を叩いて行く。赤い服の女は滑るようにその背に寄り添い、無表情のままついて行った。


「あーあ。もうちょっとあのまま放っておこうぜ。おい、どうした」


 立ち止まったままの私を振り向いて、怪訝な表情を浮かべた。


「なんでもない」


 首を横に振る。


「やれやれ担任が来たぞ。おまえは何も喋んな」


 私たちを睨み据えてやって来る担任をみて、思わず呻き声が漏れた。


「二人とも、職員室に来なさい」


 得体のしれないものが担任の腰に腕を回し、しっかりとしがみ付いている。異様に細長い腕をしているが、人間の子供のように見える。生白い顔に切れ込みのような目、二つの穴だけが開いた鼻、髪は生えておらず男女の区別もつかない。


 職員室で説教されている間、子供の霊は担任の背後からじっとりと私を見ていた。確が私の喘息を使って言い訳すると、担任も私の顔色を見て納得したようだ。


「今後気を付けるように。もう行っていいぞ」

「はい、失礼します」


 揃って頭を下げると、子供は唇のない口をうっすら開け、ぎこちなく口角を持ち上げた。


「相変わらず変なものを引っ付けるよな。こうなったら才能だと思わないか?」


 廊下に出ると確は何でもないことのように言い、歩きながら私の顔を覗き込んだ。


「おい、大丈夫か?」


 そして天を仰ぎ、そうか、と呟いた。


「まあ、色んな奴がいるから、慣れるしかないよな」


 記憶にないほど幼い頃、クロウは私のチャンネルをずらした。私に怖い思いをさせまいとして。私はずっとクロウに守られていた。鼻の奥がつんと痛み、慌てて瞬きを繰り返す。


「ちょっと気分が悪くなっただけだから。もう治ったし」


 並んで階段を上っていると背後から荒い息遣いが聞こえ、ボロを纏ったような毛並みの犬が私たちを追い越して行った。尻の毛は抜け落ち、骨がのぞいている。三階の廊下では、野球帽を被った男の子がボールで遊んでいた。


「霊を呼び寄せる仕掛けがあるかもって、坊さんが言ってたの覚えてるか?」


 教室の手前で足を止め、確が声を潜めて話す。


「絶対何かあるね。これでおかわり二杯目だもん」


 廊下の向こうから、乳母車を押した老婆が恐ろしくゆっくりと歩いてくる。


「呪術で霊を呼び集めることはできるか?」


「できる。捕縛した霊を式として使役するの。この前、私たちを襲わせたように」


 少年が蹴ったボールに先程のみすぼらしい犬がじゃれつく。少年は嬉しそうに笑って犬の頭を撫で始めた。


「今回の敵も手強そうだな」


 チャイムが鳴ったので仕方なく教室に入る。朱緒の席を見たが、今日も欠席のようだ。


「しまった。……祓っとくんだった」


 確が大きなため息とともに呟く。教室のど真ん中に、赤いワンピースの女が突っ立っていた。俯いた顔に長い髪がかかって表情は見えない。だがじっとりとした悪意が全身から滲み出している。全員が着席し授業が始まると、そこだけ異様さが際立った。


 視線を感じて隣を見ると、湊と目が合った。


「大丈夫か? 昨日、休みだっただろ」


 小声で囁く。


「ああ、うん。もう平気」


 そっか、と呟いてノートに目を落とす。待ち構えていた良心の呵責は、いつまでたってもやってこなかった。短期間に色々ありすぎて、気持ちが摩耗したのかもしれない。


 開け放した窓から湿った空気が流れ込んでいた。いつの間にか雨が降り出し、教室内に土の匂いが充満してゆく。そういえば、今週はずっと雨マークが並んでいた。朝食を食べながら見た天気予報を思い出す。


 憂鬱な気持ちで窓の外を眺めた。見る間に雨脚は強まり、川向こうに迫る山の樹木が白く煙る。窓際の生徒が慌てて窓を閉めた。


 何かが思考の片隅に引っかかった気がした。首を伸ばして窓の外を見る。濁った川の流れが少しだけ見える。微かな違和感。何だろう、この感じは。大切なことを忘れているような。とても大切なこと。クロウなら、きっと気付いているようなこと。


 目を閉じ、両手でこめかみを挟む。思えばこの村に着いてからというもの、雨の日が多かった。梅雨の時期だから当然か。川もいつも茶色く濁って、澄んだ色を見たことが無い。そういえば確がこの辺では明治時代、地形が変わるくらいの洪水があったと言っていたっけ。


 その途端、両腕に鳥肌が立った。

 後ろを振り向くと、確と目が合った。眉を寄せ、どうした? と顔で言っている。

ダ、ム。


 何度口を動かしても怪訝な表情のままなので、ノートを千切って殴り書きをした。教師の目を盗んでメモを渡す。


「ダム?」


 確が呟くのが聞こえた。


                 ※


「おかわりの一杯目が届いたのが、ちょうど一週間前」


 昼休みを待ち、屋上に出た。雨が降っているので、出入り口の僅かな雨よけの下に肩を並べて立つ。


「その前日にも、あのサイレンの音を聞いたの」


 その時はまだクロウが一緒だった。


「放流警報か」


 頭一つ分背の高い確を見上げて聞く。


「ダムが、川の上流にあるんだね」


「そうだけど。ダムがあるとどうなんだ」


「清流には浄化の力がある。だけど、ダム湖のように淀んだ水は良くない霊を呼び寄せるの。霊の溜まり場になるんだ」 


「ふーん」


 シャツの袖を折り返した腕を組み、ドアにもたれる。


「溜まっていた霊が、洪水調節で放流された水と一緒に流れてくるってことか。でもこんなにも霊が集まるものか? まるで強力な磁場があるみたいに」


「ダム建設の際に事故で大勢が亡くなったとか。自殺の名所になってたりしない?」


 首を振って二つとも却下する。


「で、流れてきた霊たちを、あの女が呪術を使ってここに呼び寄せていると?」


「その可能性は十分あると思う。呼ばれた霊たちは、学校という格好の住まいを得てここに居座る」


 うーんと唸ってから片手を顎に持って行く。


「だとすると、せっかく呼び集めた霊を祓わせるためにおまえを呼んだことになる。矛盾していないか」


 それを言われると辛い所だった。素直に頷く。


「旧校舎の取り壊しと、どう関係があるのかも分からないし」


「ダムの建設も、どう考えても戦後だろうしな」


「関係ないのかもしれないね」


 見る間に気持ちが萎んでゆく。


「あーあ、せっかく仕掛けに気付いたと思ったのに」


 昼間だというのに薄暗い空を見上げる。


「やっぱり、俺たちが考えている以上に、ことは複雑なんだ」


 ポケットからハンカチを取り出すと、眼鏡についた水滴を拭った。


「ちょうど明日は模試だから午前中で終わる。取りあえず行ってみるか。ダム」


「え、明日模試だっけ?」


 眼鏡をかけ直すと横目で私を見下ろした。


「そうだけど?」


 それが何かおまえと関係あるのかとでも言いたげな目つきだ。


「ふーん。ま、頑張って」


 大学というものに行ってみるのも悪くないと思い始めていたので、少しばかり動揺が走る。だがすぐに今さら焦っても仕方ないと開き直った。


「おまえはいいよな」


 確が空を見上げ、ため息と一緒に呟いた。


「なに、バカにしてんの?」

「違うよ」

「じゃあなんでその言い方なのさ」


 藪にらみで詰め寄る。


「やりたいことがもう決まっていて、羨ましいって言ってるんだよ」


 ポケットに両手を突っ込んでドアにもたれると「バーカ」と小声で洩らした。


「ほら今バカって言った!」

「静かにしろよ。誰かに聞かれたらまた面倒だ」


 眉を寄せ、鬱陶しそうに言う。相変わらず小憎たらしいやつだ。


「そういえば、おまえはなんで巫女になろうと思ったんだ」


 しかめ面の私を無視して言った。


「なんでって、授かった素質を生かして人様の役に立てるからよ」

「へえ」


 ちょっと感心したような顔つきで私を見下ろす。


「いくつの時にそう思った」

「ん?」

「だから、いつ巫女になるって決めた?」

「それは……、子供の頃」

「もっと具体的に」

「ちっさい頃! 幼稚園とか」


 あれ? そんな年ごろで、遊ぶこと以外に頭を使ったことなんてあったっけ?


「まさか坊さんにそう言われたからか」


 無意識に視線を中空に漂わせていた私は面食らった。


「クロウは、私に巫女になれなんて言わない」


 私に限って、人様のお役に立ちたいなんて考えるほど、できたお子様だったわけがない。ということは、それはクロウが後で言った言葉だろう。だったらなんで巫女になりたかった?


「……強く、なりたかったんだ」


 そうだ! 思い出した。幼稚園の先生に、大きくなったら何になりたいか尋ねられた時だ。皆がパン屋さんとかお花屋さんとか言っているのをよそに、私はこう言い放った。


「めっちゃくちゃ強い巫女になって、悪いやつをぶっ倒す!」


 腹を押さえると、確は「クーッ」と妙な声を出して体を二つ折れにした。


「笑うな! 確が聞いたから答えたんでしょ!」


 悪い、と言うように手を振りながら、背中を揺らして笑い続ける。


「おまえらしいわ」


 ようやく発作が収まると、眼鏡の隅から指を入れ、涙を拭いながら言った。


「じゃあ、確は何になるつもりなのさ」


 お返しに、嘘でも思いっきり笑ってやるつもりで聞いた。


「それが決まってたら苦労しないよ」


「へえ、てっきり医者になるんだと思ってた」


 当てが外れてぽかんと見上げると、確は口の端に皮肉めいた笑みを浮かべ、吐き出すように言った。


「この体質で、病院勤めか? さぞかし愉快だろうな」


 そう言われると返す言葉がない。


「おまえは先に戻ってろ。俺はもう暫くここにいる」


 そっぽを向いたまま言う。慰めるのも変だし、他に気の利いた言葉でもと思うが一つも出てきやしない。ええい、面倒な奴だ。勝手に機嫌を損ねてろ。


「へーい」


 気のない返事をし、ドアを開け一人で階段を下りる。教室に入ろうとしたところで、いきなり後ろから腕を掴まれた。


「白川先輩、ちょっとお話があります」


 今日はポニーテールにしているが、すぐに分かった。


「繭ちゃん、だよね」


「はい。二年の四方繭です。ちょっと顔貸してもらえますか」


 昨日派手に確と二人揃って登校拒否をしたばかりだ。用件は大体想像がつく。


「え、何だろう?」


 だが怖かったので、へらへら笑ってみた。繭は私に冷たい視線を向けただけで、有無を言わさず腕を引っ張る。肘の辺りを掴まれたまま、私はさっき降りた階段を上っていくしかなかった。


「繭ちゃん、話って何?」


 このまま屋上へ出ると不味いことになるのでは。そう思った私は、わざと大きな声で聞く。確、屋上でじっとしてろ、と心で念じながら。


「確のことです」


 幸い繭ちゃんはドアの手前で立ち止まり、くるりと振り向いて手を腰に当てた。


「た、……小野寺君がどうかした?」

「とぼけないでください!」


 いきなり大声で怒られた。頬に飛んできた唾をそっと指でふき取る。


「許婚がいる身で、確のことをたぶらかしておいて! 弄ぶのは止めてもらえませんか!」


「も、もて、弄ぶ?」


「そうです! もう知ってると思いますけど、確は心に傷があるんです! これ以上、女性不信が悪化したらどうするんですか!」


「あの、聞いて、繭ちゃん」


 迫力に気おされて、しどろもどろになる。


「私と確は、そういうんじゃないから!」

「じゃあ、何なんですか」


 こめかみに青筋が立ち、瞳孔が収縮している。これ以上生霊が増えたらたまったものではない。


「お友達よ。ほんと、それだけ。ね? 信じて?」

「手をつないで一緒に歩くのが友達ですか!」

「違う違う。あれは、腕を掴まれてただけだから」

「言い訳は結構です!」


 どうしたらいいのだ。


「確は学校をさぼったりするようなタイプじゃなかったのに!」

「そうだよね」

「万琴さんのせいで、どんどん人が変わってしまって。大学受験だって控えているのに!」

「うん、うん」


 取りあえず同意して、この場を凌ぐしかない。


「お爺ちゃんの形見の眼鏡だって! 失くしたって嘘ですよね。万琴さんがなんか言ったんでしょ!」

「うんうん」


 間違えた! 助けろ、確!


「落ち着いて、繭ちゃん! ほんとに、誤解だって。確は只のいい友達だから!」


 確のやつ、そこにいるくせに助けに来ないとは。なんて薄情なやつ。そう思った時、風圧と共に屋上のドアが開いた。


「確ぁ! なんで?」


 繭の声音が急に変わる。


「一人静かに読書でもしようと思ったのに。ギャーギャーうるさいぞ」

「だって、この人が。確のこと、心配だし」


 あらあら、唇なんか尖らせて。こめかみの青筋はどこへ行ったのでしょう?


「余計な心配すんな」


 確は無表情に私に一瞥をくれた後、繭の肩に手を置き方向転換させた。


「おまえが心配するようなことは、本当に何もない」

「ほんと?」


 二人並んで仲良く階段を下りてゆく。朱緒は幼馴染だと言っていたが。


「あれがただの幼馴染に対する態度?」


 ふんと鼻を鳴らして階段の手すりにもたれる。肌色のつるつるしたリノリウムの床を見下ろした時、ふと記憶の中から、ある風景が白昼夢みたいに立ち上った。


 飛び石を敷いた庭。雨上がりの土の匂い。ふかふかした苔の、鮮やかな緑。灰色の空。紫陽花の葉っぱの陰に見つけた、大きな蝸牛。

 これは青龍庵の裏庭だ。そして私の傍に立つ、誰かの気配。


 私の母も、御典と御鈴の母親も、もれなくお師匠さんの弟子で、習字のお稽古と称して修業を積んでいた。幼い頃の私たちは母親たちを待つ間、よく裏庭で遊んで過ごした。


 だが私の隣にいるのは御鈴でも御典でもない。私より少し大きな男の子だ。幼稚園に入るよりも前、私にはとても大切な幼馴染がいた。毎日、ずっと一緒にいた気がする。なのに顔も名前も覚えていない。どうして遊ばなくなったのかも思い出せない。ただ時々こんな風に思い出の影法師が横切って、胸の奥に取り残されたままの寂しさを呼び覚ましてゆく。


「……ともかく、助かった」


 呟いてみたが、何だか確にまで置き去りにされたような気がして、心がしんとした。


「何か手伝う?」


 神主の台所で、夕飯の支度をする確に声をかけた。


「じゃあ、サラダを頼むわ」


 器用に玉ねぎをみじん切りにしながら答える。私は野菜室からレタスとミニトマトを取り出し、流しに立った。リズミカルな包丁の音を隣で聞きながら、トマトのヘタを一つずつ取ってゆく。気まずい空気に耐え切れず、軽い口調で切り出した。


「繭ちゃん、大丈夫だった?」


 一瞬、確の手が止まる。


「大丈夫って、なにが」

「だから、私たちのこと誤解して怒ってたじゃない。ちゃんと誤解は解けた?」

「ああ、そのこと」


 そのことって! それしかないでしょうが! 胸の中で言って、レタスの葉を外して洗う。どうもいつもの調子が出ない。


「別に、どうでもいいだろ」

「どうでもいいわけないよ。また生霊でも出されたら大変だし」

「繭はそんなことしねーよ」


 そうでしょうとも。かわゆい繭ちゃんが、心の中に陰湿な闇を抱えているわけないもんね。


「でも、これ以上誤解されないよう、学校では気を付けないとね」


 笊に洗ったレタスを千切って放り込む。


「確の恋路を邪魔するつもりは毛頭ないから」

「誰の何だって?」


 包丁を宙に止め、私を見下ろす。


「だから、二人、付き合ってるんでしょ?」


 なんで私は睨み返しているんだ?


「はあ?」

「隠さなくていいよ。繭ちゃんは確にベタ惚れだし、確だって、繭ちゃんに心配すんなとか言って、肩持っちゃったりしてさ……」


 千切ったレタスで笊が一杯になっていく。


「おまえってやつは……」


 呆れたような、憐れむような声で言ってため息を漏らす。


「ずれてるとは思ってたが、ここまでとは」

「なにさ!」

「いいか。面倒だが教えてやる」


 包丁を置き、片手を腰に当てる。


「俺と繭は付き合ってない」

「そう……なの?」

「ああ。俺たちはそういうんじゃない」

「でも! どう見たって繭ちゃんは確のことが好きだよ」

「ああ、そうだろうな」


 ほらやっぱり、と言いかけた私をうんざりした表情で止める。


「好きにも色々あるだろ」


 再び包丁を取ってまな板に向かう。


「繭は、死んだ姉貴の代わりをやってるつもりなんだ」

「へ?」


 刻んだ玉ねぎをボウルに移し、ミンチ肉と卵を加える。


「一人っ子の繭は姉貴によく懐いてた。姉貴が死んだときは俺と同じように悲しんだけど、うちの母親が出て行った後から、態度が変わった」


 牛乳でふやかしたパン粉も加え、ハンバーグの種をこねる。


「俺がすっかり暗くなったのを見て、支えなくちゃって勝手に思い込んだみたいだ。ある日、自分のことを姉だと思えと言ってきた。自分の方が年下のくせに」


 種をこねる確の長い指を見ていたら、きりりと胸が痛んだ。


「名前は呼び捨てだし、偉そうな物言いだし、ほんといい迷惑だよな」


 黙ったままの私を見て、確が吹きだした。


「おまえ、まさか泣いてる?」

「泣いてないし! 玉ねぎが目に染みただけだし!」


 服の袖を引っ張って目を拭う。最近涙腺が弱くなって困る。


「てゆうか、巫女ってそんなに実入りが悪いのか?」

「なんなのさ、いきなり」


 痛いところを突いてきやがる。


「だって、おまえのその部屋着、どう見たって中学のジャージだろ? しかも人の貰い物だし。新しい服も買えないくらいなのか?」


「うるさい! 古い方がいい具合に生地がくたってて気持ちいいの! それに貰い物じゃありません。自分のですぅ」


「へ? だって、刺繡してある苗字が違うじゃないか」


 しまった。


「なんだ、どうした?」


 私の横顔に目を落とすと腕を伸ばし、流しっぱなしにしていた水道の蛇口を、キュッと閉めた。まるで退路を断つように、指に力を込めて。


「何かあるなら言ってみろ」


 布巾で指を拭き、ポンと流しに置く。


「いや、そんな大したことじゃ」

「大したことないなら、言えるだろ」


 目を眇め、恐る恐る確を見上げた。


「ほら、怒らないから言ってみろ」


 口角は上がっているのに、目が全然笑っていない、例の顔だ。


「あれ、言ってなかったっけ?」


 確が小首を傾げる。恐怖で生きた心地がしない。


「白川万琴は私の本名じゃない」


 早口言葉のように言い、猛ダッシュでその場から逃げた。


「なんだってー!」


 背後から殺気が飛んできて、必死の思いで居間に駆け込む。すぐに追いかけてきた確と、ソファーセットを挟んで対峙する。


「白川万琴はお師匠さんが付けてくれた」


 右へ左へと足を送る。


「芸名みたいなもんよ!」


 確は猫みたいに素早い動きで腕を伸ばす。


「本名で仕事するなんて、キャッシュカードの裏に暗証番号書いておくようなもんでしょうが!」


 間一髪でその手を振り切り、ソファーの周りを逃げ回る。


「今回だって、藁人形に五寸釘を刺したって私がピンピンしてるから、朱緒は腹立ち紛れに机を剣山みたいにしたんだし!」


「俺は本名でやってるぞ!」


「じゃあ、今から名前を変えよう! 高瀬川確兵衛とか、どう!」


「おまえなー!」


 シャツを掴まれ、ソファーにうつ伏せに倒れた。スプリングが悲鳴を上げる。


「角さんは嫌いか! じゃあ、介三郎は?」


「うるさい、黙れ!」


 上から確が馬乗りになり、完全に動きを封じられる。


「本名を教えるまで、どかないぞ」


「万琴でいいでしょ。親だってそう呼んでるし。本名なんて忘れた!」


 足をバタつかせてもがく。


「はーん。分かった。恥ずかしい名前なんだろ。キラキラネームとか」


「違う! 本当の名前なんて、軽々しく人に教えちゃいけないんだからね!」


「それ、平安時代とかの話しだろうが!」


「何でもいいでしょ! 本当の名前は夫になる人にしか教えないと決めてんの!」


 ふぇ、というような妙な笑い声がした。


「おまえの、夫になる人?」


 確が一瞬腰を浮かした隙に上体をひねる。仰向けになるとすかさずデコピンを食らわした。言っておくが私のデコピンは痛い。これで何度兄弟を泣かせたことか分からない。


「痛ってー!」


 案の定確は額を抑え、のけぞった。素早くその下から抜け出す。


「へっへーんだ! 私に兄弟がいるのを忘れてた? 喧嘩の場数が違うんだよ!」


「おまえ、汚いぞ!」


 舌を出してから自室に逃げ込む。ぴしゃりと襖を閉めると、その向こうから確の足音が迫って来た。


「こら! 開けろ! 今度ばかりは本気で怒ったぞ!」


「キャー、レディーの部屋に押し入ろうなんて! だーれかー!」


「誰がレディーだ! おまえは三人兄弟の次男坊だろうが!」


 その時玄関が開く音がして、「どうした、何事だ」と神主が言うのが聞こえた。


「おかえりなさい、神主さん」


 聞いてくださいよー、と言いながら確の足音が遠ざかる。暫くすると居間の方から、神主の爆笑が響いてきた。やれやれ命拾いしたと畳の上に寝転がる。すると「万琴、行儀が悪いですよ」というクロウの声がした気がして、蛍光灯の明かりが滲んだ。

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