第13話 取り残されて

 外は篠突く雨だった。私は縁側に出て、ぼんやりと庭の松の木を眺めていた。風に流された水滴が、むき出しの腕や顔に纏わりつく。雨粒が屋根を打つ音、樋を伝って流れ落ちる音、紫陽花の葉を叩く音。雑多な雨音が洪水のように満ちている。


 スマートフォンが震えたが、そのままにした。着信履歴がいくつも残っていて、その全てが確からだったが、心が動くことはなかった。思いが形を成す前に、雨音に紛れてどこか届かないところへ行ってしまった。


 今朝、たった一人で目覚めた私は、クロウの気配がないことに胸騒ぎを覚え、家を飛び出した。雨が降っていたけど傘もささず、パジャマのまま。

 クロウの名を叫び、境内や杜のなかを駆け巡った。不安に押しつぶされそうになっても、まだ私は信じていた。クロウが私を置いてどこかへ行ってしまうことなどないと。


 疲れ果て、参道の階段をとぼとぼ降りた。クロウはきっと夕方までには戻って来る。何も言わずに出て行ったのは、私を起こさないようにと気を遣ったから。そうやって自分自身を納得させようとしていた。


 鳥居のたもとにぽつんと佇む人を見て、足を止めた。頭に手拭いを被り、絣のモンペを穿いた女の人だった。節の立った両手を重ね、俯き加減に立ち尽くしている。手拭いからはみ出たおくれ毛に雨粒が纏わりつき、銀色に光っていた。


 その人は捉えどころのない表情をしていた。だが声を掛けようとして、その虚ろな目を覗いた瞬間、私には分かった。


 この人は、ここで待っている。戦地へ行った息子の帰りを。随分長い間、とても静かに。祈るように。 


 初めてここにやって来た日、丁度この場所で足を止めたクロウを思い出した。


 その場に崩れ落ちると、私は両手で顔を覆った。絶望と恥ずかしさで、死んでしまいたかった。私はこの人をウゴウゴと呼び、無害だと言ったのだ。それを聞いたクロウは、いったいどんな気持ちがしただろう。


 クロウは私を置いていった。もう二度と戻らない。クロウとの繋がりが消えたことを、その時はっきりと悟った。


 家の電話が鳴った。神主の足音が近づき、部屋の前で止まる。


「万琴、小野寺君から電話だぞ」


 返事しないでいると、襖が開いた。


「ほら、出なさい」


 敷きっぱなしの布団をまたぎ、子機を差し出す。受け取って、仕方なく耳にあてる。


「……何回も電話したんだぞ」


「ごめん」


 確の押し殺した息遣いが受話器を通して伝わる。


「何か用?」


「おまえ、大丈夫か?」


 大丈夫って、何が。そう言おうとしたが、声が出なかった。


「昨日の晩、坊さんが来た」


 うん。心の中で言って、頷く。


「なんか……、おまえのこと頼まれた」


 そう。


「……そっち、行こうか?」


 深く呼吸する。


「心配かけてごめん。でも、大丈夫だから」


「……そっか、……分かった」


 確が呟くのを聞いて、電話を切った。


                  ※


 旧校舎の一階部分は綺麗に掃除されていた。解放された扉から入ると広いホールになっていて、その左右に木の廊下が伸びている。裏の林に面して教室があり、机や椅子も当時のように並べられて、集まった老人たちの歓声を誘っていた。正面の階段はロープで封鎖されている。


 誰も見ていないことを確かめると、私は素早くロープをくぐり、姿勢を低くしたまま階段を駆け上った。


 二階も下と同じように校庭側に廊下が伸び、奥に教室が並んでいる。換気のためか、廊下の窓は全て空いている。湿気と埃の匂いが、一層濃くなった。


「遅かったな」


 聞きなれた声がした。

 振り向くと、確が教室の扉にもたれて立っていた。


「なんでいるの」


 確は組んでいた腕をほどくと、ポケットに手を突っ込んで両足を広げた。


「おまえの考えそうなことくらい、簡単に読めるんだよ」


 ふん、と鼻で笑う。


「確をこれ以上危険な目に合わせてはいけない。ここからは、私一人でやらなくては。とか、どーせそんなところだろ」


 私が何も答えないでいると、短くため息を漏らした。


「おまえ、包帯は」


 刀を握った私の手を見て言う。


「忘れてた」


「ちょっと、見せてみろ」


 刀を右手に下げ、左手を差し出す。


「膜が破れてるじゃないか。化膿したらどうする」


 ポケットからハンカチを取り出して、私の手のひらに巻き付ける。


「ちゃんと消毒しろよ」

「……分かった」

「じゃ行くぞ」


 棒を手にすると、ヒュンとしならせてから肩に担ぐ。私達はそれぞれの得物を手に、教室内を順に調べて回った。二階は掃除されていないため、あちこち蜘蛛の巣が張り、床には厚く埃が積もっている。窓ガラスは外が見えないくらい曇っていた。黒板と教壇以外に物はなく、どの教室も空っぽだ。時折階下でどっと笑い声が沸き起こり、建物に反響する。


「思ってたほどボロでもないな」


 拍子抜けしたように確が言った。時々緩んだ床板を踏んだが、木が腐っている様子はない。


「あの女の霊が黒幕だっていう証拠が見つかるといいんだが」


「先入観は判断を誤らせる。今言えるのは、あの霊はここに何か拘りがあって留まっている、ってことだけ」


「校庭中、地雷みたいに呪符が埋めてあったのにか? それに俺たちが見た幻覚。怪談によると、死んだあとだいぶ経ってから発見されて、死骸には蛆が沸いてたって話だったよな」


「結論に飛びつきたい気持ちはわかるけど。証拠もなしに疑うことはできない」


 確は不満そうに何か言いかけて止め、先に隣の教室へ移る。


「なんだこれ」


 最後の教室を調べ終え、収穫がないまま廊下に出たとき、確が言った。廊下の突き当りの壁に、腰の高さまで四角い枠組みがはまっている。


「この壁自体、後から付けられたっぽいな」


 よく見ると、周りの壁とは木材が微妙に違っている。確が枠の縁に指を掛け、動くか試す。


「ん?」


 四つの辺を順番に試し、最後一番上の辺に手をかけたとき、何かに気付いた。


「こうか!」


 枠を上に持ち上げると、スライド式に蓋が開く。舞い散る埃が落ち着くのを待って、ぽっかり空いた空洞を覗き込んだ。人一人が入れるほどの空間があり、天井から薄明りがさしている。


「梯子が掛けてある」


 確はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出すと、ライトをつけ中に潜り込んだ。


「屋根裏に上がれるんだ」


 梯子に足をかけ、ズボンが埃まみれになるのも構わず先に上ってゆく。


「気を付けろよ。大分もろくなってる」


 後に続いた私を見下ろして言った。

 屋根裏は、校舎の幅全体を突き抜けた広々とした空間だった。天井は意外なほど高く、屋根の傾斜に沿って両端にいくほど低くなる。正面と背後に通気と明り取りのための窓があり、肉眼でも周囲を見渡すことができた。


「梁の上を歩けよ」


 中央は背の高い確でさえ、立って歩くことができる。


「最初は製糸工場として建てられたってことは、ここは蚕を飼う場所だったんだな」


 用心しながら歩いて、屋根裏の中ほどまで来た時だ。


「あれ、何だ」


 確が最奥を指さす。はじめ見えなかったものが、目が慣れるにつれ浮かび上がる。明り取りの窓に挟まれた中心に、何かある。


「行ってみよう」


 徐々に足取りが早まり、最後は駆け足になっていた。


「何なんだこれは、……」


 縄で四角く囲った結界の中央に、粘土で作られた三角形の枠組みが鎮座していた。縄には紙を切って作った人形がぶら下がっている。枠組みの縁や縄の上にまで厚く埃が積もっていたが、よく見ると黒い煤がこびり付いているのが分かった。


「これは身囲いの結界。三角のは密教の特殊な護摩壇で、怨敵調伏法に使われるものよ」


「つまり呪いってことか」


 無言で頷く。


「証拠を見つけたってことでいいよな」


 確はスマートフォンで何枚か写真を撮った。


「……で、どうする」


「下手に手を出すと危ない」


 暫く私の横顔を眺めた後、確はくるりと踵を返して言った。


「工事は延期で決まりだな」


              ※

 

 翌朝登校するなり、下駄箱の前で待ち構えていた確に腕を掴まれた。


「ちょっと来い」


 渡り廊下の隅で、周りに人がいないのを確かめてから私を睨み据えた。


「昨日の晩、旧校舎でボヤ騒ぎがあった。煙草の不始末だって話だが」


 押し殺した声で言う。


「まさか、おまえがやったんじゃないよな」


「違う。私じゃない」


 真っすぐ見返すと、確は私から顔を背け、掴んでいた腕を乱暴に離した。


「くそっ」


 ズボンのポケットに指をかけ、苛々とした足取りで歩き回る。


「私はやってない。でも炎には浄化の作用があるから」


 その背中に向かって言う。


「最終手段として、考えてはいた」


「おまえなあ!」


 正面に立つと私の両肩を掴んだ。


「いちいち気に食わねえんだよ!」 


 噛みつくように怒鳴る。


「そんなやり方、ちっともおまえらしくないだろ!」


 私の左手を取り、目の前に持ち上げる。


「この手も、ちゃんと消毒して包帯しろ!」


 剥き出しになった真っ赤な皮膚にも、ちゃんと指紋が刻み込まれている。


「それから、俺のこと勝手に守ろうとすんじゃねえ!」


 確が離した左手が、体の横に力なく垂れ下がる。


「俺たち、仲間じゃないのか」


 声が遠い。


「何か言えよ」


 今日は雨じゃないのに。薄日さえ差しているのに。


「……私らしいって、なに?」


 耳の奥で、雨音が強まる。


「私の半分は、クロウだったのに」


 確が急に私の手首を掴み、ぐいと引っ張ると歩き出した。そのまま何も言わず、登校する学生服の流れに逆らって、正門を抜け出す。


「あれ、どうした。二人してさぼりか」


 話しかけてきたクラスメイトを煩そうにあしらう。生徒たちの好奇の眼差しに晒されても、確は私の手を放そうとしなかった。


 診療所と棟続きの家に二人分の鞄を投げ入れた後、確は庭の奥に消えた。暫くすると中型のバイクを押して戻って来る。


「ほら」


 ヘルメットを私の頭にかぶせる。


「何これ」

「何って、バイクに決まってるだろ」


 自分もヘルメットをかぶり、バイクにまたがる。


「さっさと乗れよ」


 邪険に言って前を向く。言われた通りシートにまたがると、思ったより視線の位置が高かった。確は私の手を掴み自分の腹の前で交差させる。


「膝に力入れて挟むようにすると安定する」


 エンジン音と共に細かな振動が伝わる。緩やかな加速の後、バイクは風を切って走り出した。川沿いのカーブを繰り返し超えるうちに、段々乗り方が分かるようになった。トンネルを抜け、ガードレールもない細い山道に入り、曲がりくねった急な坂を上ってゆく。


「着いたぞ」


 十五分ほど走って、路肩の窪地にバイクを止めた。バイクを下りると、少し膝が震えていた。ヘルメットを脱いで辺りを見回す。どこからか、風の吹きすさぶ音がする。


「こっちだ」


 確が先に立ち、獣道と変わらないような細道を歩き出す。雨水を含んだ柔らかい腐葉土を踏み、岩場を乗り越え、崖に設置された鉄梯子を下りる。


 澄んだ水辺の向こうに、突然滝が現れた。高さはそれほどでもないのに、連日の雨で水量が増したのだろう。耳を塞ぎたくなるほどの落水音が轟く。風音を立てたのは、この荒々しい瀑布だったのだ。


「さて」


 確が私を振り返った。


「ここなら誰も来ない。俺はあっちへ行ってるから、思い切り泣け」


 私を一人残して川べりを歩き、大きな岩の向こう側へ姿を消した。


 私は膝を抱えてその場にしゃがむと、岩の窪みに取り残された透明な水を見つめた。

 ふと、子供の頃に読んだ、短い物語を思い出す。炭焼き小屋で、父親と二人きりで暮らす女の子の話しだった。毎夜父親が寝物語に聞かせてくれる話しが、女の子の全世界だった。ある吹雪の夜、父親は町へ出かけ、そのまま戻ってこなかった。父親の死を悟った女の子は、滝に身を投げる。すると小さな魚になり、暫く泳ぎ回って遊んでいたが、やがて暗い滝壺へ向かって尾を翻す。それだけの話しなのに、なぜか忘れ難かった。


 立ち上がると靴を脱ぎ、制服のまま水に飛び込んだ。すぐに激しい流れに足を取られ、水に飲み込まれる。岩につかまろうとしたが、手が滑って体が押し流される。無理にあらがうのを止めたら、ぽっかりと体が浮いた。いっそ魚になれたらいいのにと思った。


 腕を掴まれ、強引な力で陸に引き戻された。


「何やってんだ! 死ぬ気か!」


 全身ずぶ濡れになった確が、肩で息を継ぎながら怒鳴る。


「安心して。勝手に死んだりしないから」


 顔に張り付いた前髪をかき上げる。


「ちょっと、水垢離がしたかっただけ」


 笑みを作ると、乱暴に引き寄せられた。背中に確の指が食い込む。


「頼むよ! 頼むから泣いてくれ。坊さんの代わりがいないことくらい、俺にだって分かる。だけど、少しくらい、俺のことを頼みにしてくれたっていいだろ!」


 分かったことが二つある。

 これからどんなことがあっても、この悲しみを消し去ることはできないということ。そして私はこの戦いを、クロウなしで勝ち抜かなければならないということだ。

 私が負ければ、確は呪殺される。

 震える息を飲み込む。


「泣く? 勘違いしないで。私は、腹を立ててるの。自分の情けなさに」


 傲慢にも、自分は強いと信じていた。ただいたずらに剣を振りかざし、クロウに守られていただけなのに。


「確には偉そうなこと言ったのに、私は何も知らず、ただ思い上がっていただけだった」


 一人きりになって、クロウなしでは何もできない自分に気付かされた。クロウの分まで、自分の実力のようなつもりになっていた。


「私は自分が許せない」


 クロウならどうするか必死で考えたけど、到底クロウみたいにはなれない。浅はかで、弱い自分が大嫌いだ。


 ピンクのスニーカーを履いた細い足が、ぼやけて歪んだ視界に現れる。視線を上げると、おかっぱ髪の女の子が立っていた。その目に浮かんだ涙の粒がみるみる膨れ上がり、次から次へと零れ落ちる。


 咲希ちゃんは両手を差し伸べると、私と確をまとめて抱きしめた。まるで、何かから庇うように、強く優しく。

 そうか、咲希ちゃんは確のお姉さんだから、私のことも年下に思えるんだな。


 息が苦しい。


「自分に怒っていないと、クロウに会いたくて会いたくて、堪らなくなる!」


 切れ切れの言葉を、振り絞る。


「私を置いて行かないでって、叫びたくなる!」


 こめかみが暴れるほどに脈打ち、悲鳴のような息が漏れる。


「クロウ!」


 確の腕を振りほどき、身を丸めると石の上にうつ伏せに倒れた。


「こんな別れ方は嫌だ!」


 知っていたら、どんなことをしても引き留めた。懇願し、泣きわめいて、どんな無様なことをしてでも、何処にも行かせなかった。


「嫌だ!」


「選べないんだよ」


 確が水音に負けない声で叫んだ。


「人がいなくなる時、置いて行かれる方は選べないんだ」


 顔を上げると、確の充血した目が私を睨みつけていた。


「どんなに打ちのめされようと、どれだけ不条理だろうと、受け入れるしかないんだ」


 咲希ちゃんと、母親。確はこの引き裂かれるような痛みを二度も味わったのだ。


「俺だってガキの頃はグズグズ泣いてばっかだったし、人間不信にもなった。だけど、坊さんはただお前を置いてどこかへ消えたんじゃない。きっと何か、深い理由があるんだ」


 確が私の丸まった背中に手を置いた。


「理由を探そうぜ」


 言葉を失って確を見る。


「だから、何で坊さんがおまえを置いてかなきゃいかなかったのか。わけを知りたくないのかよ」


「知りたいに決まってる! だけど、クロウは自分の意志で私との繋がりを絶った。私には、何の手段も残されていない」


 唇を噛み、再び溢れそうになる慟哭を堪える。


「クロウは自分を斬れとまで言った。そんなことしたら、消えてしまうのに」


 私を信じられませんか。そう言った時の、クロウの寂しそうな目の色が忘れられない。 


「なあ、……高屋敷に憑いた悪霊を落として祓う。そして俺たちにかけられた呪いを解く。……今回のことは、本当にそれだけだろうか」


「それだけって、どういう意味?」


「坊さんが無責任に俺たちを渦中に置き去りにするはずがない。なのにおまえに自分を斬れと言い、おまえが拒否すると自ら姿を消した。留守にしている間に、きっと何かあったんだ。何か、おまえの傍から姿を消さなきゃいけないようなことが。何か、重大なことだ」


 確は頭を抱え、唸り声を漏らす。


「あーっ、もう! 分からん!」


 髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。その傍らで咲希ちゃんが心配そうに確を見つめる。二人を見ているうちに、胸の奥に光る小石を見つけたような気持ちになった。


「……二人とも、ありがとう」


 天を仰ぎ、指で涙を拭った。


「今目の前にあることを、一心にやれって、クロウがよく言ってた」


 立ち上がり、スカートにくっついた落ち葉を払い落す。


「一心にやれば、心が定まるって」


 クロウのことを過去形で話すだけで、今は胸が刺すように痛い。


「確、目の前にあることだけ考えよう」


 パンパンと音を立てて、両手をはらう。


「まずは朱緒に憑りついている、あの女が何者なのか調べる」


「手の消毒と包帯も、ちゃんとやれよ」


「確がやってくれるんじゃないの?」


「調子乗りすぎ」


 頭を小突かれた。


「確って、本当に滝行やってたんだね」


 滝を眺め、感心したように言と、確は聞こえなかったふりで立ち去ろうとする。それを追い越して先に梯子に手を掛け、少し上ってから振り返った。


「パンツ見るつもりね! エッチ!」


 確は私を見上げると、呆然とした顔で呟いた。


「……心配して……損した」


 呆けたようにがっくりと首を折る。

 ベーッと舌を出した私を見て、咲希ちゃんは首を振って肩をすくめた。素直じゃないわねと言っているようで、妙に大人っぽくて、そして可愛かった。


 診療所に着くと、バイクの音を聞きつけたシロが庭先まで走り出てきた。


「シロ、ただいま」


 だが頭を撫でようと手を伸ばすと、クーンと鼻を鳴らし尻尾を下げて後ずさる。戸惑ったような目をして私たちを見上げ、低く唸り声をあげる。


「どうしたの、シロ?」


 顔をのぞき込もうとすると激しく吠え出した。


「最近、こうなんだ」

「最近っていつから?」

「まあ、二三日前から」


 鼻面にしわを寄せ、牙を剥き出しにする。あの気のいいシロと同じ犬とは思えないほどだ。


「確、神社に来られないかな」


 もっと早く気付くべきだった。


「今からか?」

「うん、早い方がいい。これが終わるまで、暫くの間神社で寝泊まりするの」

「え? 本気か?」


 昨晩のうちに、何か起こっていてもおかしくなかった。


「シロには分かるのよ。嗅ぎ分けているのかも知れない」


 動物は人間よりも感覚が鋭い。


「私たちにかけられた呪いの邪気が、シロを怖がらせている」


 弱いものが真っ先に邪気の餌食になる。


「私たちは二度も呪詛を受けてる。普通の人間ならとっくに死んでるところよ。家族やシロが巻き添えをくったら一たまりもない。神域に邪悪なものは近づけないから、確自身にとっても、家族にとってもそのほうが安全だし」


 神主の家は古いが部屋数は無駄に多い。


「今から話を付けるから、お願い。私を安心させると思って」


 確が渋々頷くのを見、早速スマートフォンで神主を呼び出していた時だった。突然鋭い音が甲高く鳴り響いた。


「これ、一体なんの音?」

「ああ、これか」


 空を見上げて確が答える。


「ダムの放流警報だ。洪水調節だろ」


 ダム? と聞き返したとき神主が電話に出た。訳を話すと、神主はあっさりと了解した。 


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