第12話 幻夜
だが実際に旧校舎に入ることを神主が許したのは、翌日金曜の夜になってからだった。
クロウが戻るまで待て、二人だけでは危ないからと渋り続けた後、やっと自分も一緒ならと納得したのだ。診療所の駐車場に車を入れると、そこには既に全身黒で身を固めた確が待っていた。
「叔父さんも一緒に行くんだって」
神主に挨拶する確に告げる。自分の声が尖っているのが分かる。
クロウからは何の連絡もない。
「中がどんな状態になっているか分からないからな。念のためだ」
「……そうですか」
確は戸惑った顔を私に向けた。
「式典の前に、内部の安全性を調べるだけっていう条件で許してもらった」
「私が危険だと判断したら、すぐに撤退するという条件も忘れないでくれよ」
月もなければ星も見えない。時折生温い風が吹く陰気な夜だった。学校まで十分ほどの道のりを、不機嫌なまま歩く。川のたてる水音は村に来て以来すっかり耳に馴染んで、もう意識の底に沈んでしまっている。
「あれ、図書館に誰かいるのかな」
正門を入ってすぐ右手の図書館から、明かりが漏れていた。
「もう十時だぞ。電気を消し忘れたんじゃないか?」
確が言う。
「いや、響子さんがそんないい加減なことをするはずない」
神主は閉館の札がかかった入り口に大股で歩みより、引き戸に手をかける。それはガタゴトと軋みながら開いた。
「響子さーん、いるんですか? 玉置です!」
扉を開け切るのももどかしい様子で中に飛び込む。私たちも顔を見合わせ後に続いた。
「あら、神主さん。どうなさったんですか?」
書架の合間から響子がひょっこり顔を出すと、神主の背から力が抜けていった。
「響子さんこそ、こんな遅くまで」
「嘘、もうこんな時間! 全然気が付かなかったわ」
時計を見て驚く響子に、神主は安堵の苦笑を漏らす。
「驚かさないでください。仕事熱心にも程があります」
「すみません。書架整理をしていたらあっという間に時間が過ぎていて」
照れたように微笑んで神主を見上げる。それから私と確を見て首を傾げた。
「皆さんお揃いで、どうなさったんですか?」
「忘れものを取りに来ただけです。私たちはいいから、叔父さんは響子さんを家まで送ってあげたら?」
私の挑みかかるような口調に、響子が目を丸くする。
「いや、それは駄目だ。二人だけで行くのは許さない」
「大丈夫だって言ってるじゃない。子供じゃあるまいし」
「私から見れば、二人ともまだ子供だ」
「じゃあ、ここに響子さん一人残すの?」
神主がぐっと言葉を詰まらせる。もし旧校舎で何かあった場合、ここにいる響子にまで影響があるかもしれない。だからと言って、寂しい夜道を一人で帰らせるわけにもいかない。究極の二択を迫られたわけだ。いい気味だとほくそ笑む。
「私のことならお気になさらず」
響子は困った顔で私と神主を交互に見る。
「自転車で来てますし、一人で大丈夫ですから」
「いや、自転車でも夜道は危ない」
「神主さん、この際砂原さんも一緒についてきてもらったらどうです? その後、家までお送りするというのは?」
確が目を細め、悪魔のような笑みを浮かべた。
「僕たちも、大人が二人ついてきてくれた方が安心だな」
それは、ただただ神主を追い詰めることに快感を覚えている目だった。
「何しろまだ子供ですから」
そしてガキ扱いされたことを相当深く根に持っている。
「ついていくって、教室に忘れ物を取りに行くだけじゃないの?」
「いえ。僕たち、旧校舎に行くんです」
無邪気な顔で答える。
「旧校舎へ? なぜ?」
「あの旧校舎に女の幽霊が出るっていう怪談を御存じですよね。僕たちはそれを検証しに行くんです。人間の目は物質に反射した光を網膜に映し像として捉えます。なのに実態を持たない幽霊がどうして目撃されるのか、不思議なのでぜひこの目で確認したいと思って。夜じゃないと幽霊も出にくいでしょうし」
響子は圧倒されたように目をぱちくりさせている。優等生が真面目に言うと、どんな虚言妄言も、もっともらしく響くらしい。勿論、確は自覚の上だ。神主が苦虫を嚙み潰したような渋面で確を睨みつける。私も慌てて加勢に加わった。
「そうなんです。取り壊わしの前にどうしてもって、私たち叔父さんにお願いしたんです」
確を敵に回したらどうなるかよく分かった。それに悔しいけど、やっぱり頭が切れる。
きっと響子は怖がって行きたがらないだろう。神主はここに響子と残って私たちを待つという、第三の選択肢を与えられたことになる。それが神主にとってどんなに魅力的なことか、しっかりと計算済みなのだ。
よし。これで、二人だけで旧校舎に乗り込み霊と対峙できる。いざとなれば祓うし、少なくとも朱緒にとり憑いた悪霊かどうかは確かめられる。そう思った。
「夜の旧校舎なんて……」
響子が目を見張り、両手で口元を覆う。
「探検みたいでなんだか楽しそう! 私もご一緒させてください」
ぱっと少女のように瞳を輝かせた。急に膝の力が抜けたのか、神主が書架に手をつく。確を見ると、想定外の反応に唖然としている。この人ちょっとずれてる? と目で訴えてきた。
「いえ、駄目です。中は危険な状態かもしれません」
体勢を立て直し、神主が威厳を取り戻して言う。
「でも、神主さんが一緒なら大丈夫ですよね」
わお。なんて可愛いことをさらっと言ってのけるんだ。天然か? それとも読書を通じて体得した技なのか? 響子を見る目に尊敬の念が加わる。
これにはさすがの神主も折れるしかなかった。
「仕方ありませんね」
ため息混じりに言う。
「ですが危険だと判断したらすぐ中止します」
「はい、承知しました」
素直に頷くと、ウキウキした様子で閉館作業にかかる。
「お待たせしました」
エプロンを外し、トートバッグを肩にかけると、少し息を切らせて戻って来た。
「では行きましょう」
全員で外に出て、ぞろぞろ歩き出した。運動場に差し掛かると、常夜灯の明かりも届かずさすがに暗い。ボディバックからヘッドライトを取り出し額に装着する。
「へえ、用意がいいな」
「確の分も買っといたよ」
「おう、サンキュー」
確が持っていた懐中電灯を響子に渡す。
「二人、仲がいいのね。もしかして、付き合ってるの?」
「全然違います」
速攻で否定する声が重なり合う。
「ほら息もぴったり」
響子の朗らかな笑い声に、確が密かに舌打ちするのが聞こえた。明らかに歩調を早め、神主と響子を引き離す。
「遠足じゃないんだぞ」
「一緒に行こうって誘ったの自分でしょ」
「激しく後悔してる」
「確の僕っていう一人称、怖かった」
バックネット裏の狭い階段を上りつめ、旧校舎の校庭に立った。漆黒の闇の中、二つのライトに照らし出され、古びた校舎の一部が浮かび上がる。真っ先に、窓に人影がないか探す。
「何も見えないね」
「ああ」
草の匂いが鼻孔を満たす。湿った風に山の冷気が折りたたまれ、むき出しの腕や首筋を撫でてゆく。雑木林が枝葉を揺らして潮騒のような音を立てていた。
「まあ、凄い」
神主と共に追い付いた響子が呟く。それきり雰囲気にのまれたように黙り込んだ。
「行こう」
生い茂る草をかき分け、校庭の中ほどまで進んだ時だった。微かに聞き覚えのある音がした。
「どうした」
急に立ち止まった私を見て、確が眉根を寄せる。
「聞こえない?」
怪訝な表情で耳に手を当てたが、首を横に振る。
「あの時の音がする」
風の渦巻く音に混じって、低くワーンと咽ぶような音がする。呪符に触れた確の口から洩れた、あの奇怪な音が徐々に大きくなる。
「来た。近くにいる」
確の目が鋭く光り、手を伸ばすとそこにはもう棒が握られていた。
「オンマリシエイソワカ」
手の中に確かな重みが生まれる。左手に巻いた包帯を口にくわえむしり取ると、その柄を握った。確と背中合わせに立ち、腰を落として得物を構える。
「叔父さん! 響子さんを守って!」
異変を察知した神主が、響子の肩を抱き階段へと駆け戻る。
「どこだ」
「すぐ近くに潜んでいるはず」
低音の中に高音が混じった、あの耳障りな音が鼓膜を震わす。じりじりと足を送りながら、辺りに視線を走らせる。気配はするのに姿が見えない。どこからか、腐臭が漂う。
「くそっ、どこだ」
その時、踵が柔らかいものを踏んだ。思わず目を落とした瞬間叫んでいた。
赤黒い肉片をぼろ布のように纏い、骨を剝き出しにした骸が転がっていた。私を見上げる眼窩から、ころころと肥えた蛆虫が這いだした。骨の隙間からも湧き上がるように這い出して、たちまち死骸を埋め尽くす。
確がワッと叫び、狂ったように足をはたき始めた。誘われるように自分の足を見下ろした。死骸から零れ落ちた蛆が、靴の上を這っている。目のない頭を持ち上げ、ジーンズの裾に取りつき、さらに這い上がろうとしている。周囲の草にもびっしりと蛆がたかり、重そうにたわみ揺れている。
私達は悲鳴を上げ、下手なダンスを踊るように飛び跳ねた。
着地する度に蛆を踏んで靴底を滑らせる。ズボンやTシャツの裾から入り込んだ蛆が素肌に食らいつこうとして、全身にチクチクとした痛みが広がる。見ると剥き出しの腕は既に皮膚を食い破られ、肉にまで蛆がめり込んでいる。
無数の蛆が全身をくねらせ身の奥深くに潜り込んでゆく。ひじの内側の血管を伝って脇の下まで這い進み、心臓にまで侵入しようとしている。
生きながらにして喰われる。あの死骸みたいになる。恐怖と絶望で息が苦しい。顔まで這い上がって来た蛆が口に入る。絶叫と共にそれを吐き出した。
「万琴! 確!」
顔を上げると、クロウが目の前に立っていた。
「クロウ!」
涙が一気にこみ上げ、安堵があふれ出す。
「帰って来てくれたんだね!」
「万琴、刀を出すのです」
クロウの落ち着いた声がこれほど頼もしかったことはない。縋りつく思いで手に気を集める。
「そして私を斬りなさい」
言われたことの意味が分からなかった。手の中にあった柄が消えてゆく。
「聞こえませんか! 刀を出して、私を斬るのです。今すぐに!」
クロウがこれほど厳しく私に何かを命じたことはなかった。
「な、何言ってんの、クロウ。そんなことできるわけない!」
顔面に食い込んだ蛆が頬の内側を這いまわる。
「私の言葉が信じられませんか」
一瞬クロウが寂しそうな眼をする。
「では確、あなたがやるのです」
「クロウを斬るなんて、そんなこと絶対させない!」
頭皮と頭蓋の隙間を蛆が這い進み、メリメリと音を立てる。食い破られた鼓膜がワーンと鳴り響く。
「そんなことしたら、絶対許さないから!」
蟻塚のごとく蛆に全身を埋め尽くされ、確は呆けたようにクロウを見つめて立ち尽くした。涙で霞んだ視界に映るクロウの足にまで、蛆がたかっているのが見える。自分のことよりもそれが許せなくて、蛆を叩き落とそうと手を伸ばした。
「オンキリキリバサラバジリホラマンダマンダウンハッタ」
クロウが白くて長い指を組み、次々と印を結ぶ。
「オンシュチリキャラロハウンケンソワカ」
低く通る声で流れるように真言を唱える。
「オンコロコロセンダルシャンマカルシャナン、ナウマクサンマンダバサラダンカン!」
唱え終わると同時に錫杖を地面に突き立てた。そこからまばゆい光が迸り、見る間に辺りを照らし出す。早朝のように清浄な空気が吹き上げ、一瞬にして邪気が消え去った。
見れば全身を覆っていた蛆が消えている。恐る恐る顔を撫でると冷たく汗ばんではいたが、滑らかな皮膚に触れる。確と目を合わせ、どさりと草の上に腰を下ろした。
「幻覚……。いったい何のために」
まだ荒い息の下、確が呟く。
「警告。あるいは、二人を発狂させようとしたのかも知れません」
静かな声でクロウが言った。その時になってようやく、クロウがまるで山伏のような、見慣れない格好をしていることに気付いた。白い手甲をはめた腕が伸び、地面を指さす。
「その辺り、土が見えているところを掘ってごらんなさい」
草が引き抜かれ、小さく土がむき出しになっている部分がいくつもある。その一つを掘り返すとすぐ、指先が紙片に触れた。濡れて茶色く変色し、文字を読むことはできなかったが間違いない。
「呪符だ」
「どれか一つでも踏んだ瞬間、呪いが発動する仕組みになっていたのです」
「まじか……」
確が頭を抱え、髪をかき混ぜる。クロウが戻って来てくれなかったら、あのまま正気を失っていたかも知れない。今更のように背筋を冷たいものが走り、鳥肌が立った。
「二人とも、大丈夫か!」
神主が響子の手を引き、階段を駆け上って来た。クロウの姿を見て足を止めると、ほっと溜息をつく。
「何でしたの? あの眩しい光は。その後、空気が急に軽くなって」
よほど怖かったのだろう。神主にしがみつき、涙をぽろぽろ溢しながら響子が言った。そんな響子に、神主が微笑みかける。
「もう大丈夫。聞いてごらん、小鳥が鳴いている。きっと朝が来たと思ったのでしょう」
チチチ……、と本当に小鳥の鳴き声が林から聞こえる。
「クロウ、私達のこと、助けてくれてありがとう」
Tシャツの袖を引っ張って涙を拭うと、座り直して頭を下げる。クロウは私を叱ることもせず、ただ静かに微笑んだ。
その夜布団に潜り込むと、疲れと安心感からすぐに快い痺れが全身を覆った。
子供の頃そうしてくれたように、クロウは私の傍にいて寝顔を見守っている。まどろむ意識の中で、クロウが私の額に手を載せるのが分かった。夢うつつに、その手の重みと温もりに包み込まれるのを感じた。
幸せだった。一緒にいてくれてありがとうと、大好きだと、言葉にして伝えたかった。
クロウの囁く声がする。
「万琴……、私は、あなたのことを……」
そこで、私の意識は深い眠りの中に引き込まれていった。白い真綿のような眠りだった。
翌朝目を覚ますと、クロウの姿は消えていた。
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