第9話 もつれた朱い糸
翌朝勢い込んで学校へ向かったが、朱緒と話せたのは放課後だった。というのも、朱緒は体調がすぐれないからと言って、一日のほとんどを保健室で寝て過ごしていたからだ。
教室の窓際に座り、ぼんやり外を眺めている朱緒に近づいた。否応なしに緊張が高まる。
「今日もよく降るね。梅雨の走りだって」
一つ前の席に座り、机越しに朱緒と向かい合う。一番後ろの自分の席で、確は文庫本に目を落とし、密かにこちらの様子を窺っている。
「このまま梅雨に入るかもって、天気予報で言ってたよ」
「ふーん、そうなんだ」
朱緒は気のない返事を返した。目は相変わらず、水滴の付いた窓の向こうを見ている。
「雨だと髪が広がって最悪。朱緒はいいね。サラサラのストレートで」
「そう?」
「そうだよ」
えーと、会話ってどうやるんでしたっけ?
「体、大丈夫?」
「うん。今は平気」
やっとこちらに向けた顔を見て、ショックを受けた。青く澄んでいた白目は充血し、瞼は落ちくぼみ隈ができている。肌が荒れて、額には小さな吹き出物が沢山できている。唇も赤みが失われ、ひび割れている。
自分が朱緒に与えた打撃がどれほどのものだったのか、その顔を見て思い知った気がした。
「でも最近、あんまり眠れなくって」
「そうなんだ」
「やっと眠れても、変な夢ばっかり見るし」
重そうに瞼を上げる。その目を直視するのが怖くて、私は視線を教室内に漂わせた。クロウは生霊になっている間の記憶は無いと言っていたけど、心の底から嫌われていることに変わりはない。わだかまりを解くためにも話し合いが必要なのは分かるが、やはり居心地が悪かった。こんな時、どんな風に話せばよいのか、クロウに聞いておくのだったと後悔する。
「夢って、どんな?」
朱緒は頬杖をつくと、目を伏せた。
「色々だよ」
気詰まりな空気に耐えるのも、そろそろ限界だった。
「あのさ……、矢嶋君のことだけど」
思い切って、自分から切り出したのはいいが、そのあとが続かない。謝るのはおかしいし、いったいどう話せばいい? こういうのは苦手だ。助けを求めて振り向くと、クロウはそ知らぬ顔で校庭を眺めている。
さてはクロウもこういうの、苦手なんだな。一人納得していた時だった。
「なんで私に構う!」
朱緒は突然椅子を蹴って立ち上がると、ヒステリックに叫んだ。私を見下ろす目が、奇妙に吊り上がっている。
「あんたには関係ないだろ!」
数名残っていたクラスメイトがおしゃべりを止め、驚いた顔でこちらを見ている。
「朱緒、急にどうしたの。ちょっと落ち着こう。ね?」
手を取って落ち着かせようと、私が腰を浮かせた時だ。
「うるさーいっ!」
絶叫すると机に載っていた鞄を掴んで、力任せに投げつけた。受け止めきれず、足元に落ちた鞄から中身がこぼれる。
「大丈夫か、朱緒」
いつの間にか教室に戻っていた湊が駆けつけ、私たちの間に割って入った。
「どうしたんだよ、急にでっかい声出したりして」
小柄な朱緒のために腰をかがめ、宥めすかすように明るい声を出す。
「うるさい!」
だが朱緒は血走った目を湊に向けると、その体を両手で思い切り突き飛ばした。湊はたたらを踏み、私にぶつかる。
「ごめん」
教室を走り出てゆく朱緒を呆然と見送りながら呟いた。私は黙ったまま首を振る。
「何だ? あいつ。おかしなやつだな」
湊は気を取り直したように言い、しゃがんで散らばった教科書を拾い集めた。それを手伝いながら、私は何とか気持ちを落ち着けようとしていた。
朱緒が湊を突き飛ばすなんて信じられなかった。真っ赤な目で湊を睨んだ、朱緒の顔が脳裏に焼き付いている。振り向くと、クロウも険しい表情をしていた。
「あんま、気にすんなよ」
さり気なくそう言うと、湊は目元をほころばせて頷いた。一瞬ぐらついた心をすぐに立て直す。クララでない私には、到底手の届かない相手だった。
その夜教職員たちが全員帰るのを待ち、私たちは再び保健室に忍び込んだ。生霊を先に説得することにしたのだ。
朱緒本人とはとても話し合える状況ではなかったし、クロウが珍しく急かしたからだ。これ以上魂が大きく欠けると後戻りできなくなると言って。
まだ生霊は出ていない。とにかく最初は隠れて様子を見、話ができそうなタイミングを待つことにした。
「オンアニチャマリシェイソワカ」
衝立の後ろの床にチョークで五芒星を二つ描き呪文を唱えると、確に中に座るよう言った。
「何のまじないだよ、これ」
「私たちの気配を隠してくれる」
「ほんとかよ」
膝を抱えて座ると、疑り深い目で自分を取り囲む五芒星を見下ろす。
「だいたい、密教と陰陽道がごちゃ混ぜになってるじゃないか」
「文句あるならいいよ。確のだけ消すから」
「静かに。もうすぐそこまで来ています」
クロウが視線をドアの方に送った。私たちは自然と息を殺す。雨音の中耳をすますと、昨日と同じ足音が近づいてくる。ドアの向こうで立ち止まり、次の瞬間にはこちら側に気配が移っている。
生霊は私たちのすぐ横を歩き、自転車置き場から届く薄明りの中ベッドに腰かけた。昨夜よりも影が濃くなっている。
「大丈夫か、朱緒」
突然湊の声がして、私は反射的に入り口を振り向いた。だがそこには静まり返った闇があるだけだ。よく考えれば、こんな時間に湊が学校にいるわけがない。じゃあ、今聞いたのは何だったのだ。
「保健室の先生、いないのか。どこへ行ったんだろう」
姿はなく、声だけが聞こえる。
「体温計は……、あった、ここだ。ほれ、計ってみろ」
目を閉じると、情景がありありと瞼に浮かんだ。青いユニフォームを着た湊が、棚から体温計を取り出し、朱緒に手渡す。
「ありがとう。湊、部活でしょ。行かなくていいの?」
「いいから気にすんな。熱はどうだった?」
「うん、七度ちょっと」
これは朱緒の夢なのだろうか。
「そっか。横になって休めよ。先生が戻ってくるまで、いてやるから」
「ごめんね」
「謝らなくていいから」
「……うん、ありがとう……」
だとしたら、甘い蜜のような夢だ。湊の夢が見たくて、毎晩保健室に通っているのだろうか。いや、夢ではなく記憶なのかもしれない。優しい湊のことだ。体調を崩した朱緒を放ってはおけないだろう。
まったく、湊も罪作りな男だ。惚れた男にこんなにも優しくされたら……。朱緒に同情さえ覚え、一人頷いていた時だ。
「おい」
確につつかれ顔を上げる。いつの間にか朱緒の影法師が衝立の向こうから私たちを見ている。
「あれ、術が解けたかな?」
何時でも刀を抜けるように気を集め、立ち上がる。
「驚かせてごめんなさい。話をしたくて来たの」
衝立を脇にどけると、朱緒の生霊はふわりとベッドの上に飛び乗った。
「湊と私のこと、なんか誤解してる? だったら、安心して。私たち、本当に何にもないから。私はここでの仕事が終わったら、さっさといなくなるし。自転車の二人乗りだって、気の迷いみたいなものだから気にしないで。ね?」
どうだろう。納得してくれただろうか? 期待を込めて朱緒の生霊を見つめる。今や目鼻立ちが私にも分かるほどになっている。
朱緒が笑ったような気がした。よかった、分かってくれたと安堵した時だった。
朱緒の手から白い光が伸びてゆく。見る間に剣の輪郭を形成すると、朱緒はそれを振りかざして高く飛んだ。
「嘘だろ」
確が呟く。
降ってきた斬撃を刀で額ぎりぎりに受け止め、跳ね返す。
「話し合いは好みじゃないって?」
足を軽く広げ、刀を正眼に構える。
「気が合うね」
自分の顔つきが変わるのが分かる。『観の目強く見の目弱く』とはかの剣の達人宮本武蔵の名言だが、目から出す
朱緒は私の正面に立つと腰を落とし、刀を構えた。斜めに飛んできた剣先を、後退しながら素早くかわす。すかさず間合いを詰め、正面から打ち合った。澄んだ金属音が鳴り響く。放った渾身の一撃を、朱緒が刀をすり上げ受け止める。
「言いたいことがあるならはっきり言えばいい」
力任せの鍔押しになった。
「人を恨んで、生霊まで出して何が楽しい!」
朱緒の黒く塗りつぶしたような目に、一瞬火花が散った。
「湊が好きなら、素直に告白すればいい! それができないなら、私を恨む筋合いはない!」
「あんたに何が分かる!」
はじかれたように朱緒が飛びのく。割れた声で言って、獣のように吠える。
「あんたさえ、来なかったら……!」
初めて朱緒の生の声が聞けた気がした。
「私のことが嫌いなんでしょ! 殺したいほど憎んでいるんだよね!」
言い返すと半身になり、刀を脇に寄せ水平に構えた。
「さっさと認めて、楽になればいい!」
滑るように足を送り、間合いをはかる。朱緒が先に踏み出し、横一文字に腰を狙って打ってきた。体を捻ってかわし、地を蹴って高く飛んだ。空中で刀を振りかぶる。
「喝!」
そのまま袈裟懸けに斬り下ろす。打ち取ったと思った。
「あれ?」
虚しく空を切った刀を下げ、部屋の中を見回した。
「どうやら、逃げられたようです」
「何だよ、もう少しで決着が着くところだったのに」
確が悔しそうに舌打ちをする。その手には昨日より長く伸びた棒が握られている。いざとなったら、加勢するつもりでいたようだ。
「精進潔斎しているようですね」
確の成長した得物を見てクロウが感心したように言った。
「杖と書いてじょうって呼ぶ武器かなと思う」
くるくると片手で器用に回す。早くも手の平に吸い付くように馴染んでいる。
「突けば槍、払えば薙刀、持たば太刀。杖道は多様な技を持つ、不殺の道です。大切になさい」
確はクロウの目を見て素直に頷いた。私と目が合うと、急に気恥ずかしくなったらしい。ふいと顔をそらした。そして何かを見つけたらしく、「あれ、何だ?」と呟いてベッドの方に歩いていく。
「護符だ。おまえのやつか?」
紙片を拾い上げて私に突き出す。
「裏にもなんか書いてある。げ、これ血か?」
それを聞いた瞬間、背筋に悪寒が走った。反射的に叫ぶ。
「札を放して! それは呪符! 触っちゃいけない!」
だが確は札を掲げたまま動かない。視線まで硬直してしまったかのように、瞬きすらしない。どこかから、ワーンと低く囁くような音がした。
駆け寄って、確の手から呪符をむしり取った。途端に札から、青白い炎が燃え上がる。
確がからくり人形のような動作で口を開いた。そこから微かな、だが神経を逆なでする音が漏れだす。
「万琴! その言葉、それ以上言わせてはなりません!」
クロウが怖い顔で叫ぶ。慌てて確の口を押えようとするが、右手は刀を持ち、左手では札が燃え続ける。
「確! しっかり!」
低音の奥に高音が混じった、とても人の声帯から出せるとは思えない音が、確の喉から漏れている。鼓膜が小刻みに振動し、皮膚が粟立つ。これ以上音が出続けると、確が人間ではなくなる。なにかとんでもない化け物になってしまう。そんな思いに囚われた。
無我夢中で確に頭突きを加える。眼鏡が吹き飛び、確は仰向けにベッドに倒れこんだ。
だがうつろに開いた口からは得体のしれない音が漏れ続ける。気が付くと、私は確の身体に馬乗りになり、自分の口で確の口を塞いでいた。
突然咳込むと、確は目を剝いた。
「な、なんだよ! いきなり」
「大丈夫?!」
その顔を両手で挟むと、目の奥を覗き込む。
「え?」
しっかりと視線が重なるのを確認すると、私は床にずり落ちてそのままへたり込んだ。
「間に合いましたね」
クロウがほっと溜息をつく。ようやく火傷した手がひりひりと痛みだした。
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