第8話 保健室の生霊

 川べりの大きな岩の上で、湊と肩を寄せ合って座っている。まるでぬるま湯につかっているみたいに、心がぬくぬくと満たされている。魚たちが、鱗をキラキラ輝かせながら川を遡上してゆく。


「お母さん、見てみ、人間のカップルやで」


 小さな魚がぷくぷくと泡を吐きながら言う。


「あんまり、じろじろ見んといたり」


 母魚が言うと、二匹はすいと尾鰭を動かして消えた。 


 私たちはそろって笑い声を立てる。可愛いね。生きているものは、皆おしゃべりだね。


 顔を見合わせほほ笑むと、いつの間にか隣にいるのは確になっている。はにかんだ笑顔のまま、いとも自然に私たちのおでこがくっつき、唇を重ねていた。


 雨粒が屋根を叩く音で目が覚めた。障子越しに、頼りない朝の光が差し込んでいる。


「変な夢……」


 まだ暖かな感触が残る唇を手の甲で擦りながら、寝床から起きだす。魚が夢に出てきたのは、神主が熱心に調べていたマイクロフィッシュとやらのせいかもしれない。途中から湊が確に代わってしまったのが気に食わないが、夢の名残が胸を甘酸っぱくしていた。


 だが昨日のことを思い出した途端、気分が真っ逆さまに落ち込んだ。


「しっかりしろ!」


 冷たい水で顔を洗い、頬をパン、と叩いてみた。だがそんなことで気持ちが簡単に切り替わるわけもなく、通学途中もどんな顔で湊と会うのか、ずっと気が塞がったままだった。

 だが学校につくなりそんな思いは吹き飛んだ。


「何じゃこりゃー!」


 思わず巻き舌で怒号を上げる。一夜にして、校舎にウゴウゴがひしめいていた。


 教室に入るなり、出し抜けに縄状のウゴウゴが空を切って飛びかかってきた。

 しゃがんでかわしたところに、小さな礫が飛んできてウゴウゴに命中する。蛇霊は鼠花火のように捩れて消えた。


 足元に落ちた消しゴムを拾い立ち上がると、確と目が合う。ちょっと顔を貸せ、とその目は言っている。頷くと、先に教室を出た。


「祓ったばっかりだぞ。それがたった一晩でこれだ。一体どうなってるんだ」


 人気のない渡り廊下で立ち止まると、確が先に口火を切った。その視線は、はなから私を飛び越えてクロウに注がれている。相も変わらず、小憎たらしい奴だ。


「まず第一に考えられる可能性は、ここが霊道、すなわち霊の通り道になってるってこと」


 背伸びして視線を遮り、クロウより先に答えた。


「富士山や京都の大文字山も、霊の巡礼コースになってる」


 よく見ると、確の髪が心なしか湿っている。雨に濡れでもしたのだろうか。


「それにしては、通り過ぎてゆく気配がありません」


 クロウが形の良い眉を僅かに寄せて言う。確かに、霊達はむしろ留まっている。


「あとは、降霊術。狐狗狸さんは流行ってない? 素人でも、まぐれで霊を呼び出すことがあるから」


「中坊じゃあるまいし。大体何人で狐狗狸さんをやればこれだけの数を呼び出せるんだ」


「……全校生徒、とか」


「あほか」


 植え込みの薄暗い隙間にぼんやりと浮かぶ霊を見つけると、確は苛立ちを隠そうともせず、ズボンのポケットから消しゴムを取り出し思い切り投げつけた。


「全く、朝から首吊り死体とは。明るい気持ちにさせてくれるぜ」


 消しゴムは霊を通過して校舎の壁に当たると、跳ね返って下の水たまりに落ちた。霊は足元から薄くなって徐々に消えてゆく。確は消しゴムを幾つかに千切ってポケットに詰めているらしい。すでに何体かはそれで祓ったようだ。


「あれ、首吊りだったんだ」


「周りからは変な目で見られるし、散々だ」


 そう言ってから、確はまじまじと私の顔を見た。


「な、何さ」


 なぜか後ろめたいような、落ち着かない気持ちになる。ゆうべ変な夢をみたからに違いない。


「おまえ、もしかして、さっきのやつ見えてなかったのか?」

「そんなことない。ただ、」


 言いかけて止める。不味いことになったかもしれない。


「ただ、なんだよ」


 確は口角をほんのり上げて笑みを作る。


「まだ隠し事があんのか」


 不穏なまでに静かな口調で聞く。


「えっと、私には霊が砂嵐みたいに見えている、というか、はっきりとは見えていない……」


「は? なんで?」


 口元は笑っているのに、目に殺気が宿っている。怖い。怖すぎる。


「クロウが絶妙にチャンネルをずらしてくれてる」


 てへ? と首をすくめて開き直る。


「はあ?」


 今度はクロウに向かって眉を吊り上げた。


「ちょっと、こいつのこと、甘やかしすぎじゃないか?」


「確の言う通り。私もまだ修業が足りぬようです」


 クロウが素直に認めると、それ以上文句を言う気を失くしたらしい。ため息を漏らして呟いた。


「まあ、バカな子ほど可愛いって言うからな」


 顎を狙った渾身の右ストレートを煩そうに受け流す。


「霊の通り道とかじゃなかったら、何なんだ」


 クロウに向かい、話を元に戻す。


「何か仕掛けがあって、霊がここに呼び寄せられている可能性はあります」


「仕掛け? 誰かが意図的に霊を呼んでるってことか?」


「いえ、そうとも限りません」


 私と確は混乱した顔を見合わせた。もしクロウに欠点があるとすれば、それはその頭脳の明晰さだといえるだろう。私にはクロウの考えが全く読めない。


「結論を急ぐのは危険です。まずは旧校舎を調べてみませんか。近く工事が始まるということですから」


 そうだった。すっかり忘れてた。


「昨日私たち、旧校舎の窓に女の霊を見たんだ」


 説明すると、確も頷いた。早速、その日の放課後に忍び込むことに決める。教室に戻りかけた時だ。確が思い出したように言った。


「そういやおまえ、許婚がいるんだってな」


 頭の後ろで両手を組み、先に立って廊下を歩く。


「繭のやつが、わざわざご注進に来てくれた」


 駐輪所にいた、あの下級生が言いふらしたのだとピンときた。立ち去ったふりをして、話を盗み聞きしていたに違いない。


「相手は京都の寺の坊さんだって? こんなじゃじゃ馬を嫁にもらおうなんて気が知れない。まったく、一度顔を拝ませてもらいたいね」


 私は堅く決意した。こいつ、いつか絶対泣かせる。


                 ※


 案の定、神主は図書館にいた。マイクロフィッシュを飽きることなく調べている。帰りが遅くなると伝えると、快く車で迎えに来ると言った。


 書架の奥を見ると、昨日と同じ席に湊がいた。背中を丸め、ノートにペンを走らせている。今朝、おはようと挨拶を交わしたきり、一度も話していない。いくら天真爛漫だとはいえ、やはり気まずいのか目も合わせようとしない。嫌われて当然だ。そう思っても、苦い後悔と罪悪感が胸を締め付ける。


 せめて、友達としてまた話せるようになりたかった。背後から心配そうに湊を見下ろしているお婆さんにそっと頭を下げ、頑張って、と心の中でエールを送る。


 先に旧校舎に着き、軒先でずぶ濡れになった足を拭いていると、鍵を手にした確がやって来た。優等生の覚えもめでたい確だ。疑われもせず職員室から鍵をくすねてきたらしい。


 並んで二階の窓を見上げるが、女の姿はなかった。確は早速、玄関にかかった南京錠に鍵を差し込む。


「鍵開けは得意じゃなかったっけ?」


 手間取っている確に嫌味を言う。朝のお返しだ。


「うるさい、文句言うならおまえもやってみろ」


 仕方がないので、確が渡した鍵を、さび付いた鍵穴に差し込む。奥まで入ることは入るが、捻ってもピクリとも動かない。完全に中がさび付いているのだ。


「オイルを差すか、駄目なら鎖ごと切断するかだな」


「無理やり開けて痕跡を残せば、厄介なことになるかもしれません。式典の日に一階部分だけ開放されるそうですから、その隙を狙うしかありませんね」


「くそっ」


 何もできないのがよほど悔しかったようだ。確は苛々した足取りで建物の周りを一周して戻ってくると仏頂面で首を横に振った。


「確は祓う気満々のようだけど、まだ分からないよ」


 クロウは編笠を被り、フェンス越しに川を見下ろしている。確にだけ聞こえるよう、耳打ちする。


「クロウが同情してるみたいだから」

「坊さんも女には甘いんだな」

「変な言い方はやめてよね。クロウは紳士なの」

「幽霊相手に焼きもちか」


 唇の片方だけ器用に持ち上げて笑う。


「うるさい! 違うってば!」


 確にアカンベェと舌を出してから傘をさし、クロウの傍へ歩み寄った。


 新校舎の向こうを流れる川は、水嵩が増して流れも速くなっている。雨音に混じって、ごうごうと水の流れる音がここまで響いていた。


「そういえば昔、明治時代に大規模な水害があって、ここら辺も地形が変わるくらいの被害があったって聞いた」


 引き付けられるように濁流から目が離せないでいると、隣に立った確が言った。


「そうなんだ。大変だったんだね」


 あきらめの悪い目で旧校舎を一瞥して、確は歩き出した。


「霊を呼び寄せる仕掛けってなんだと思う」


「例えば刑場跡のように土地が穢れていると、悪いものを呼び寄せるの。だけど一晩であの量は異常。そういうんじゃないと思う」


 ざっと調べたが各階に十体ずつくらいはいる。前回私が祓った時より少ないが、それでも異常な数であることに変わりはない。


 結論を急ぐなと言ったクロウは、そ知らぬ顔で並んで歩く。編笠に半分隠れた横顔から、何かを読み取ることはできない。


「やっぱり分からないんだな」

「うるさい」


 確の減らず口にも慣れてきた。

 傘に当たる雨粒の音を聞きながら、薄暗い校庭を横切る。スクールバスも出た後で、新校舎には職員室の明かりがぽつんと残るのみだった。


 体育館につながる渡り廊下から、校舎に忍び込んだ。気付かれないうちに鍵を返さなくてはならない。確一人で職員室に入ってゆく。忘れ物をしたので教室の鍵を借りると嘘をつき、鍵のかかったラックに旧校舎の鍵を戻すという算段だった。


「まだ教室は施錠してないそうだ。勝手に上がって取ってこいだと。なあ、さっさとこっちの霊を祓ってしまわないか?」


 階段の陰に隠れて待っていると、職員室から出てきた確が囁いた。


「まだ教師が残ってるから無理」


「だから教師が帰った後で、だ」


「祓いってのはね、そんなに気安くやれる仕事じゃないの。もっと慎重にならないと。変に目を付けられたら厄介なことになるんだから。大阪の高校の時だって、もう少しで……」


 声を潜めて言い合っていた時だ、キュッキュッと微かな音が近づいてくるのに気付いた。顔を見合わせると、急いで階段の陰に身を縮める。

 近づいてくるのは、リノリウムの床をゴムの靴底が擦る音だ。迷いのない、規則的な音が大きくなる。生徒は皆下校している時間だ。教師だろうか。もうすぐそこまで来ている。見つかると不味い。


 息をひそめる私たちの前を、足音だけが通り過ぎていった。


「生霊です」


 クロウが言った。確の肩越しに見たそれには、実体がなかった。薄闇に同化してしまうほどの、だが人の形をした微かな影だった。


「誰の生霊だか分かった?」


 確に聞くと首を横に振った。


「いや、薄くて分からなかった」


 クロウがすっと傍を離れ、影の後を追った。私たちも足音を忍ばせ、それに続く。


 灰色の影は保健室の前で立ち止まったかと思うと、扉に吸い込まれるように姿を消した。クロウが振り向いて頷く。確が扉に手を掛け、わずかな間隙を作る。中を覗くと、生霊はベッドの上に、こちらに背を向けて座っていた。音を立てないよう注意して中へ忍び込み、後ろ手に扉を閉める。


 自転車置き場の明かりが届いて、白いカーテンの掛った窓を四角く浮かび上がらせていた。二人で薬品棚の陰に滑り込む。プンと消毒の匂いが鼻孔をついた。


 向こうが透けて見える、丸まった背中が小刻みに揺れている。何か低い声で呟いているのが聞こえた。私たちが入って来たことにも気付いていない。


 耳を澄ませ、何を言っているのか聞き取ろうとしたが、雨音に紛れてよく分からない。長い髪や、制服のように見える衣服から、女子生徒だということは分かる。


 痺れを切らした確が、身をかがめてベッドの傍の衝立の裏へ移動する。何時でも刀を出せるように気を集中させ、私もそのあとを追った。


「……みな……いが……れ……だよ……なのわ」


 雨脚が強まる中、辛うじて言葉の断片が届く。私は目を閉じて声に神経を傾ける。一音ずつ濁点を付けたような声だった。


「……が……わるい……みな……わだじの……」


 ざらざらと陰湿な響きに、肌がすっと冷たくなる。


「わるい……おんな……だ……だま……じて……」


 生霊は前後に体をゆすり、呪詛の言葉を吐き続ける。


「あいつが……あいつのせいで……、みなとが……」


 みなと? 今、湊って言った? 確が眉根を寄せ、私を見た。


「あんなやつ……こなきゃよがった……」


 さーっと血の気が引いていくのが分かった。もしかして、私のこと? 目で問うと、確はしっかりと頷いた。頭が真っ白になる。魂消るとはこういう状態を指すのだろう。


「……しねばいい……、じごにあってじねばいい……」


 背筋を冷たいものが這い上り、全身の産毛が逆立つ。面と向かって死ねと言われるほうが、まだましに思えた。誰かにこれほど恨まれるなんて、想像したこともなかった。


「じね……、じね……」


 確が放心していた私の腕をつかみ、出ようと扉を指さした。頷き、そろそろと扉に歩み寄る。手を伸ばし、ドアの取っ手に指を掛けた時だった。

 誰かが廊下を駆け足で、こちらにやって来る。


「全く、小野寺のやつ、まだ上にいるのか? それとも、挨拶もせず帰ったのか?」


 担任のイラついた声がした。咄嗟に振り向く。


 生霊はまるで首から上だけを回転させたように見えた。灰色の影にぽっかりと空いた二つの穴が、真っすぐ私を見ている。表情などないのに、憎しみに燃えているのが分かる。ゆっくりとベッドから降りて近づいてくる。


 今すぐ刀を出さなきゃやられる。分かっているのに体が硬直して動かない。まずい、そう思った時にはもう遅かった。生霊が獣のように跳躍し、猛然と飛びかかってきた。


 息をのんだその時、確の背中が目の前に立ち塞がった。片手で私を後ろに庇い、もう片方の手を生霊に向かって突き出す。


 突如青白い閃光が部屋を照らした。確の手から箒の柄のようなものが伸び、白く硬質な光を放った。


「ギャッ」


 かすれた叫び声を上げ、目前まで迫っていた生霊が、かき消すようにいなくなった。


「行くぞ」


 まだ突っ立ったままでいる私の腕を掴み、部屋を出る。誰もいない廊下を、無言で駆け抜ける。降り注ぐ雨の中、表の道路まで出てやっと手を離した。


 何か言わないと。そう思ったが、言葉が出てこない。クロウを見ると、厳しい顔で私を見つめ返した。


「何か言うことは?」


「……ごめんなさい」


「そんな言葉を聞きたいのではありません」


 惨めな気持ちでいっぱいになる。霊を前にして、何もできなかった。


「感情に支配されて力を使えなくなるなんて、巫女として、あるまじきことだと反省してる」


「まだ、修行が足りないようですね」


 自分のふがいなさに嫌気がさす。徐霊に迷いは禁物だ。中途半端に祓うとかえって反発がきつくなり、事態を悪化させることに繋がる。手負いの獣がどう猛さを増すのと同じだ。自分だけでなく、周りも危険に晒すことになる。


「さっきは、確まで危ない目に合わせるところだった。ごめんなさい」


 確に向き直り、頭を下げる。


「ありがとう」


 下を向いたまま付け加えた。


「いや、いい。おかげで、コツが掴めた」


「確、私からも礼を言います。万琴を守ってくれてありがとう」


 クロウに頭を下げられ、確は照れたように首筋を掻いた。


「守るなんて。咄嗟に身体が動いただけだから」


「いえ、見事でした。この調子です。あなたは筋がいいですよ」


 クロウの言った通りだ。これほどの短期間で得物を具現化させる力を身につけるとは。正直私も驚いている。だがそれを口に出すのも億劫なほど、気持ちが落ち込んでいた。


「あれで祓えたわけじゃないだろ?」


 確がクロウに向かって言う。


「ええ、驚いて消えただけ。ですが、それでいいのです。生霊は原因になるものを取り除かないと、祓ってもまた現れます」


「な、家に来て少し話さないか」


 私を見て言った。


「また誰かに見られたら」


「構うか。また仮病でも使えよ」


 面倒くさそうに言うと、さっさと先に歩き出す。傘は学校に置いてきてしまった。仕方なく雨に濡れながら歩く。人通りのない道を、車のライトが雨を羽虫のように浮かび上がらせては、私たちを追い抜いて行った。


                 ※


 折りたたみ式のテーブルを出して広げると、確は少し待つよう言い残し、部屋を出ていった。貸してくれたタオルで髪を拭きながら、二日と開けずここに来ているんだなと思った。

 しばらくすると、確が湯気の立つマグカップを三つ持って戻って来る。


「コーヒーでいいか」

「ありがとう」


 熱いコーヒーを口に含むと、ほんのり甘かった。


「落ち着いたか?」


 向かいに座った確に聞かれ、知らぬ間にため息をついていたことに気付く。


「うん。大丈夫」

「そっか」


 急に気まずい空気が流れ、お互いに黙り込んだ。普段コーヒーを口にしないクロウだが、礼儀正しく一礼してカップの幽霊を取り上げる。


 確は咄嗟に身体が動いただけだと言っていたが、庇われた事実は変わらない。こんな風に労わりの言葉をかけられたのも初めてだ。得意の皮肉も出ないほど、今の私は非力に見えるのだろうか。


「あの生霊、高屋敷だった」


 重苦しい沈黙を破ったのは確だった。


「え?」

「だから、同じクラスの高屋敷朱緒だった」

「間違いない?」

「ああ。襲ってきたとき、一瞬だけど顔が見えた」


 朱緒は湊のことが好きなのだ。おそらく、ずっと昔から。

 私のせいだという思いがこみ上げ、すぐさま甘えた考えを打ち消す。もう感情に流されたりしない。これは私の修業だ。一人前の巫女になるための。


「本人から霊感があるって聞いたけど、確はどう思う?」


 秘密を打ち明けるように言った時の顔を思い出す。


「全くないとは言い切れないが、あれだけの霊がくっついていても気付かないんだ。霊感があるというよりは、霊が寄って来る霊媒体質なんじゃないのか? そもそも、生霊を出すのに霊感が必要なのか?」


「単なる心の葛藤だけでは、精神の分裂が起こる程度に留まります。これは祓い屋ではなく精神科医の領分です。」


 クロウが説明する。


「一方で死をもたらすことなしに、暫くの間霊魂が肉体を離れるためには、ある程度の霊力が必要になります」


「幽体離脱とかいうやつも?」


「寝入りばなには幻覚を見やすいものです。一概には言えませんが、単なる夢であることが多いでしょう」


 なるほど、と確が頷く。


「ある程度霊力があることが前提で、ストレスや葛藤が引き金になって生霊になるってことか」


 本当は恨みつらみと言いたいところを、私の手前言葉を選んでいるのが分かる。


「高屋敷は自分が生霊になってることに気付いているだろうか?」


「人の魂には荒魂、和魂、幸魂、奇魂の四つがあり、これを四魂と呼びます。修業を積んだものなら、その一部を体の外に分離することも可能で、この状態なら意識や記憶を保つことができます。記紀にはオホナムチの神が海上から光り輝く神を御諸山に祀るとき、その神が自分の幸魂、奇魂であることを知ったとあります。神ならいざ知らず、普通の娘にそんな離れ業ができるとは思いません。歪な形で魂が欠けた状態になっているはずです」


「なんかそんな話、俺も読んだことがあるぞ。どっかの国の魔法使いが自分の魂の一部をオウムに隠したってやつ。隠し場所がばれて、オウムが殺されることによって、本人も永遠に消えるって話だ」


 私の頭越しに、ポンポンと会話が弾む。


「分離された魂を外魂と言います。それを器に封印した話は日本にもあります。羅摩船のように」


 もしもしお二人さん、私の存在を完全に忘れていませんか?


「ようするに、朱緒は自分が生霊になってるのも知らないし、なってる間も何も覚えてないってことだよね?」


 二人の話に無理やり割って入る。


「そういうことです」


 クロウがやっと私を見て頷いた。


「浮上したみたいだな」


 確が笑いを漏らし、「バカは立ち直りも早い」と付け加えた。


「普通生霊は、執着する人間に付きまとうものなの」


 じろりと一睨みしてから説明する。


「でも私にはクロウがいるし、一応巫女だからくっ付けないんだ」


 自分で一応と言ってしまうあたり、惨めだ。


「だから代わりに馴染みのある場所に出たんだと思う」


「高屋敷は保健室の常連だしな」


 空になったコービーカップをテーブルに置き、確がはっとした顔を上げた。


「そういえば、たしか高一のころ、高屋敷が幽霊を見たっていう騒ぎがあった」


「なにそれ?」


「俺は違うクラスだったから、その場に居合わせたわけじゃないけど。理科の授業中に、急に入り口のドアを指さして黒い人影が蹲っているって言って、怯えて泣き出したらしい。一瞬女子がパニックになりかけたけど、教師が太陽光みたいに強烈な光が目に入って網膜を損傷すると、白い壁なんかに黒っぽい残像が映って見えるって話でその場を収めたらしい。その後暫くは噂になってたけど、段々忘れ去られたというか」


「それって、私が祓った落ち武者の霊?」


「さあ。何しろ数が多いから。高屋敷に話を聞こうにも、そういう心霊的なことって言い出しにくいというか。普通、引くだろ。結局分からないままだ」


「学校の怪談やコックリさんが受けるのって、中学くらいまでだもんね。高校になると皆大人になるっていうか、そういうのに対して懐疑的になったり、否定的になる。真剣にとらえるのが、恥ずかしくなるっていうか」


 だからこそ面白半分に心霊スポットに出かけたりできるのだ。


 初めて登校した日のことを思い出す。霊が飛び交いラップ音が響いても、誰も反応しなかった。スマホの画面に向かっているときと同じ顔をして、意識にかすりもしていないようだった。


「数のわりに、霊障が深刻にならないのは、皆の無関心のなせる業かもね」


 私が言うと、クロウも頷いた。


「ラップ音にしても、学校という大勢の人間が集まる場では常時なにがしかの音がしますから、さして気にも留めない。物がなくなったり、置いたはずの場所とは違うところから出てきても、誰かのせいにしてしまえます。何か変だと思っても気のせいだと無視するうちに、意識されなくなる。すると障りそのものも弱まる」


「だから、今回の依頼者は校長じゃなかったんだね。生徒も教師も、誰も異常を訴えないから。見える神主が依頼してきた」


「へえ」


 確が上目遣いで面白くなさそうに笑う。


「それも初耳だ」

「そ、そうだっけ?」


 笑ってごまかす。


「だけど、何で今頃? 第一、おまえを呼ばなくても神主さんがお祓いをすればいいじゃないか」


「それこそ、依頼がなければお祓いなんて勝手にできないし」


 だけど、図書館には勝手に護符を貼ってある。あれを学校中に貼れば、そこそこ効果があるはずだ。ケチなのか? 胸の中でごちる。


「高屋敷さんは、優しく自分に厳しい性格なのでしょう。ですから万琴を憎む気持ちを受け入れられず、蓋をするしかなかった。それが抑圧を高め、生霊を出す原因となったのです。根本的な解決には霊魂の説得が必要ですが、まずは本人とよく話し合い、わだかまりを解いてみてはどうでしょう」


「分かった。明日学校で会ったら、二人で話してみる」


 そう言って膝を叩くと、気持ちが軽くなっていることに気付いた。生霊の件は、明日にも解決できる。そんな希望を抱いていた。

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