第7話 青春の行方

 目が覚めた時、自分がどこにいるのかまるで思い出せなかった。糸の切れた風船みたいに、小鳥の声を聞きながら、ぽかんと天井の木目を見上げて漂っていた。自分が空っぽになったようで、妙に清々した気分だった。


「やっと目を覚ましましたね」


 だが視界にクロウの呆れ顔が入ってくるなり一気に記憶が戻って、私は布団を跳ねのけ飛び起きた。


「うそ!」


 心臓が暴れ、足が小刻みに震える。絶望が押し寄せる中、恐る恐る横目で時計を見る。


「いやああああああ!」


 時計の針が午後一時半を指しているのを見、頭を抱えて絶叫した。


「なんで、なんで寝てる! なんで私寝てる!」


 激しく動揺し、頭を抱えたままうろうろと部屋を歩き回る。見ればジーンズを履いたままだ。


「なんでなんでなんで……」


 帰ったらすぐシャワーを浴びて、髪を乾かして、制服に着替えて、朝ご飯を食べて、そして奈良市内の高校で行われるサッカーの試合を見に行くつもりだったのに!


「万琴は車の中で眠ってしまったのです。ゆすっても起きないものだから、神主殿が苦労して運び込んで下さったのです。親切なことに、こうして布団まで敷いて。私は寝かせてはなりませんと言ったのですが。生憎、神主殿には私の言葉は届かず……」


 縋りつけるものなら、クロウの衣に縋りついていた。


「なんで起こしてくれないのぉー」


 恨みつらみを込めて畳に爪を立てる。


「起こしましたよ。何度も。大切な約束ですから。しかし、ほら」


 クロウの差し出す手は私の身体を通り抜ける。


「非力で申し訳ありません」

「クーローオー」


 うち伏して畳に何度も拳を叩きつける。


「せっかくの、せっかくの誘いだったのにいぃ」


 悪いのは自分なのに、すごく惜しいことをした気がする。


「今から行ってみては?」

「もう遅いよおー」


 仰向けになって足をバタバタさせる。


「困りましたねえ」


 さして困ってもいない風に言って、ほほ笑んだ。


「きっと次も誘ってもらえます」

「約束破ったのに?」

「明日、謝ればよいのです。素直に謝れば、きっと許してもらえますよ」


 クロウの涼しげな目が、穏やかに細められる。


「そっか。明日謝って、また誘ってねって言えばいいんだね」

「そうですよ」


 後悔は消えないが、少し希望は見えてきた。気持ちが落ち着いた途端、胃袋が盛大に空腹を訴えた。


                  ※


 翌朝、緊張して教室に入るとまだ湊は来ていなかった。朱緒と目が合い、席に歩み寄る。


「おはよう」


 後ろめたい気持ちを隠して明るく言った。


「おはよ」


 笑顔を見て安堵する。何も悪いことをしたわけではないのだ。湊はただの幼馴染だと言っていたし。私は湊に誘われて、一緒に帰っただけ。びくびくするなんて、私らしくもない。


「昨日の試合、来られなくて残念だったね」


 勉強していた単語帳を机に伏せ、朱緒が言った。


「朱緒、試合見に行ったの?」

「うん」


 当然というように頷く。


「湊が万琴も誘ったって言うから、向こうで会えるの楽しみにしてたのに」

「そっか。ごめんね」


 なんだか、面白くない気分だ。


「湊、試合に負けてすごく悔しそうだったよ」

「試合、負けちゃったんだ……」


 なんで私、こんなにがっかりしている? 肩を落とし、よろよろと自分の席に辿り着いたとき、ドアが開いて颯爽と湊が教室に入って来た。労いの言葉を掛ける男子達を相手に、軽口を叩きながらこっちへやって来る。隣の席なのだから当たり前なのだが、どうしよう、緊張がぶり返してくる。


「昨日は、試合に行けなくてごめんね」


 目が合った途端、半べそをかきそうになり冷や汗が出た。


「いいって。気にすんな」


 湊は男らしくあっさりと笑って許してくれる。


「試合、2-0で負けたし、かっこ悪いとこ見られずにすんでよかったかも」


 土下座せんばかりの私を気遣う優しさまでみせる。


「今度は絶対行くから」


 クラスの連中から、冷やかすような視線が向けられるのが分かった。自転車二人乗りは、すっかり知れ渡ってしまったようだった。


「残念ながら、昨日で部活は引退。今日から受験モード突入」


 湊はあっさりそう言って明るく笑った。


「そう、なんだ……」


 次はもうないのだ。返す波が、砂浜に書いた青春の二文字を消してゆく。私は力なく席に着いた。


「万琴は? 受験するんだろ?」


 湊に名前を呼ばれ、心臓がぴちぴちと勢いよく跳ねた。


「一応、親には進学しろって言われているけど……」


 修行と勉強の両立ははっきり言ってできていない。それほど大学に行きたいとも思わないし、渡りの修業を終え、早く一人前の巫女になるのが当面の目標だった。


「それなら、一緒に勉強しようぜ」

「えっ、勉強?」

「ああ。放課後、図書館で」


 そ、それって、また誘ってる?


「うん、いいよ」


 私は間髪を入れず頷いた。くすぐったいような喜びが湧く。放課後図書館で勉強……。それもまた、青春っぽいではないか。


 ふと、教室の空気がざわついているのに気が付いた。何事かと思ってみれば、確が後ろのドアから入ってきて、席まで歩くのを皆が好奇の目で追っている。


 そうか、眼鏡が変わったからだと気づく。鬱陶しかった前髪も、いつの間にかさっぱりしている。女子から笑い声が起こったけど、それは嘲笑などとは真逆の色めき立ったハイトーンだった。私は確の性格の悪さを知っているから小憎たらしいばかりだが、見ようによってはクールな秀才タイプに見えなくもない。


 確は完璧なまでの無表情で鞄の中身を机にしまっている。私はお疲れ、と挨拶しかけて思いとどまった。


 土曜の夜のことは、当然極秘扱い。急に親しく話しかけたりしたら、皆に怪しまれる。今後の計画を練るのも、どこか目立たない場所を選んで話し合わなくてはならない。保健室の生霊に、旧校舎。祓い残した霊がいないか確認もしなくては。まだやることは沢山ある。そばにいるのに話しかけられないとはもどかしい。

 だが湊と交わした約束のせいで、そんなことはすぐに忘れてしまった。


 放課後、ホームルームが終わった直後の教室に、髪をツインテールに結った生徒が台風のように乗り込んできた。二年生の印にグリーンのリボンをなびかせ、色白の顔を真っ赤にして、周りの視線も気にせず一直線に歩いて確の席で止まった。


「確!」


 いきなり名前を呼び捨てにする。

 保育園から一緒というメンバー同士は男女問わず名前で呼び合っているから、珍しいことではない。だが、確だけはなぜか小野寺君と苗字で呼ばれていた。瓶底眼鏡のせいで敬遠されていたからだろうが、今朝突如として赤丸急上昇を遂げている。授業中ちらちらと振り返って確の変身ぶりを確認する女子が何人もいた。そこに可愛い下級生が現れて、馴れ馴れしく名前を呼んだものだから、たちまちクラスの女子から剣呑な空気が立ち上る。


「なんだよ」


 確は迷惑そうな顔で鞄に教科書を詰め、女の子には目もくれずに立ち上がる。どういう関係か知らないけど、ちょっとその態度は冷たいんじゃないの? と思った時だ。


「同級生が噂してたけど、土曜日の晩、この人を家に泊めたって本当?」


 彼女が真っすぐ伸ばした指先が、私の額に穴を開けそうになる。とっさにのけ反ると、血走った眼で怨敵のように睨みつけられた。


「日曜の朝早く、この人と家の前にいるとこ、人に見られてるんですけど?」


 えー、と女子たちの悲鳴。隣から湊の視線を感じる。


「ご、誤解しないで! 違うから」


 湊に向かって両手を振る。壁に耳あり障子に目あり。田舎の情報網を侮ってはならない。後、早起きのお年寄りも。


「ということは、泊ったこと認めるんですね!」


 私は首を振って否定するのが精いっぱいだった。怖すぎる。


「白川、ばらしてもいいか?」


 何を血迷ったか、確がため息をついて言う。私が口を開きかけるのを目で制した。


「白川は土曜の晩に喘息の発作をおこしたんだよ。それで家の診療所で処置した。明け方様態が落ち着いたから帰った。それだけだ」


「本当?」


 女の子は確と私を交互に見比べ、まだ疑わしそうに言った。


「ああ。本当だ」


 確が頷くとやっと安心したように微笑んで、お邪魔しました誰にともなくぺこりと頭を下げて教室を出て行った。乗り込んで来た時からの豹変ぶりにあっけに取られていると、湊が心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「もう大丈夫なのか? 無理して今日学校へ来たんじゃないよな?」

「あ、うん。もう大丈夫」

「本当か?」


 探るように私の顔を見まわす。


「うん、もう平気だから」


 笑顔を作りながら、またもや良心が疼くのを感じた。確が私の傍に立って言った。


「悪かったな、白川。約束破って」


 私が首を横に振ると、確は鞄を担いでさっさと教室を出て行った。


「すごい子だよね」


 朱緒がやって来て肩をすくめる。


「四方繭、小野寺君の家の近所に住んでる。二人は幼馴染ってとこかな」

「そうなんだ……」


 聞いてもないのに教えてくれた。それにしても、どこもかしこも幼馴染だらけなのか、この村は。


「びっくりした。繭ちゃん、確のことが好きなんだね」

「え?」


 朱緒の顔に浮かんでいた苦笑いが消え、私は失敗したことに気付いた。


「ほら、土曜日お世話になったから。確って呼びやすい名前だし、あはは……」


 せっかく確が機転を利かせたというのに。そういえば、私はいつからあいつのこと、名前で呼んでいるのだ?


「たしか、確って名前だったよね。変わってるー、とか言ってさぁ」


 必死で笑ってごまかす。誰か助けてという私の心の叫びが聞こえたのか、湊が立ち上がって言った。


「朱緒、悪い。俺たちこれから勉強なんだ」


 朱緒の顔色がさっと変わった。


「ごめん、邪魔して」


 一瞬言葉に詰まってからそう言うと、踵を返して去って行く。その背中からとげとげしたものが滲み出していた。


「朱緒も誘う?」


 小声で聞いてみる。


「なんで?」


 振り返って首を傾げる湊に、何でもないと首を振る。小さな優越感を覚え、すぐに恥ずかしさで一杯になった。

 並んで教室を出るとき、背中に何人分かの視線が突き刺さる。湊はどうやらモテるようだった。女子の友達は今回もできそうにない。朱緒とは仲が良くなりかけていただけに残念だ。


 図書館に入るなり、カウンターで響子と話している神主と出会った。


「叔父さん、また来てたの?」

「ああ、万琴か。うん、週末の式典の準備があってな」

「こんにちは!」


 湊がスポーツマンらしく爽やかに挨拶すると、神主は感心した目で私を見た。確のことは契約に関わるので、今後祓いに参加する旨説明してある。その時何を早とちりしたか、神主は確が私に好意を抱いていると思ったようだ。そして今、湊と一緒にいるところを見、どうやら私が二人から同時に思いを寄せられていると勘違いしている。愉快だからそのまま勘違いさせておくことに決めた。


「式典ってなんの?」


「旧校舎の取り壊しが決まっただろ。もうすぐ工事が始まるから、その前にあの校舎で学生生活を送ったお年寄りたちを招いて、式典を催すことになったんだよ。まあ、お別れ会といったところだな」


「へえ、叔父さんも招かれたの? お別れ会に?」


「私はスピーチを頼まれたんだ」


 憤慨する神主の横で、響子がくすりと笑う。そして手のひらに乗る大きさの箱を取り出しカウンターに並べる。


「おお、響子さんいつもありがとうございます。さすが仕事が早い」


 嬉々としてふたを開けて中身を確認する。


「うん、これなら大丈夫だ」

「何それ?」


 そばに寄ってみると、写真のネガのようだった。ただし横長ではなく、ハガキほどの大きさのシートに、何十もの窓が並んでいて、ミジンコ位の大きさの文字がびっしりと写っている。


「これはマイクロフィッシュ。これ一枚に新聞三十ページ分が保存されている」


 神主は興奮気味に説明する。


「あれが校舎になる以前は製糸工場でな。その頃のことを詳しく知るために明治時代の新聞を調べようと思い立ったんだ。だから響子さんに頼んで県立図書館からこれを借りてもらった」


「相互利用で借りられてよかったです。ですが禁帯出扱いなので、館内でのご利用に限らせて頂きます」


「ええ、承知しています」


 むしろ歓迎しているようだ。


「朝日や読売は明治時代の記事もデータベースで簡単に検索できるんですが。奈良の地方紙ではそれも無理ですし。どちらにせよ、この図書館の予算ではデータベースなんて夢の又夢だけどね」


 最後は私たちに向かって言う。


「もしかして、これ一枚一枚調べて目当ての記事を探すの?」

「そうだ」


 恐る恐る尋ねると、神主はこともなげに頷く。


「いやあ、式典の日は一階部分だけ旧校舎を開放するらしいし、楽しみだなあ」


 うきうきした顔で箱を眺める。一つの箱にマイクロフィッシュが百枚入っているとして、それが全部で六箱もある。響子はご丁寧にも大和新聞、新大和新聞、奈良日日新聞など各社取り揃えて用意したようだ。


「引き続き、資料を探してみますね」

「お願いします」

「えー、まだ調べるの?」


 二人の執念深さに驚嘆し、天を仰いだ時だ。私は見つけてしまった。


「図書館の自由に関する宣言。一、図書館は資料収集の自由を有する 二、図書館は資料提供の自由を有する 三、図書館は利用者の秘密を守る 四、図書館はすべての検閲に反対する 図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」


 声に出して読み上げる。


「かっこいいですね」


 神主を見てにんまりと笑う。


「そうでしょ。私が司書に憧れてなりたいと思ったのも、この宣言を知ったからなの」


 響子は嬉しそうにほほ笑んだ。神主がそそくさと箱をかき集める。


「さて、こうしてはいられない。今週末までに記事を見つけないと」

「印刷の際はお声がけくださいね」


 神主は箱を落とさないように背中を丸めて歩き、窓際に置いてある骨董品のテレビのような機械の前に座った。


 私はもう一度、宣言を掲げた看板を見上げる。納得すると同時に、にやにやが止まらない。神主はあの看板の裏に護符を隠したのだ。そして効果が減らないうちにまめに取り換えているに違いない。


 全ては響子を守るため。


 これで図書館に霊が近寄らないわけが分かった。 


「私たち、向こうで勉強してるね」


 神主の背中に声をかけ、一つだけある奥のテーブル席に移動する。

 クロウは神主の背中越しに、画面を興味深げにのぞき込んでいる。まるで神主の背後霊になったみたいだ。


 テーブル席には雑誌を読んでいる老人が一人いるほか、同じように勉強をしにきた学生が三人いた。私たち二人が並んで座ると、席はいっぱいになる。これでは会話もままならない。図書館だからおしゃべりは禁止なのだろうが、声を潜めてこそこそ話せると思ってた。肩透かしを食らったようでがっかりする。


 渋々勉強する覚悟を決めると、湊は分厚い英語の参考書を鞄から取り出している。学校で使っているものではないから、最初から勉強する気で家から持ってきたのだ。何を期待していたのか自分でも呆れる。


 閲覧室の隣にはもう一つ畳敷きの部屋があって、背の低い本棚に絵本が並んでいる。子供用のスペースらしい。あそこに寝転がって雑誌でも読みたいところだ。

 とりあえず宿題を始めたが、気が散って中々頭に入ってこない。隣の湊をそっと窺う。真剣な表情で参考書にマーカーを引き、時々眉を寄せては考えこんでいる。湊はどこの大学を受験するのだろう。京都や大阪の大学だったらいいな。そしたら、また会えるかもしれない。私も親に言われる通り、大学に行ってみようかな。

 晴れて女子大生となった自分を想像しているうちに時間が過ぎた。


「さて、後は夜にするか」


 二時間ほどたって、やっと湊が参考書を閉じた。私も喜んで教科書を片付ける。


「万琴は神主さんと帰るんだろ?」

「うん、そうだけど」


 また自転車で送ってもらうという展開を期待していたのに、神主め! 心の中で舌打ちする。


「校門まで送るよ」


 このままでは本当に一緒に勉強しただけで終わってしまう。


「サンキュ」


 湊はそう言って笑ったが、図書館を出、自転車置き場に向かって歩き出しても話そうとしない。普段の快活さはどこへやら、その横顔は沈んでいるように見えた。


「試合、残念だったね」

「ああ」


 負けたのがよほどショックだったのだろうと思って言ってみるが、上の空で返事を返す。そのまま自転車置き場についてしまう。

 暗くなりきらないうちから、もう蛍光灯がついている。湊は鞄を自転車の籠に放り投げると、鍵を外した。


「何か、怒ってる?」


 おずおず尋ねると、湊ははっと気が付いたように私の顔を見た。


「いや、そうじゃないんだ」


 首の後ろに手をやり、うー、とうめき声を漏らす。


「ごめん、怒ってなんかないんだ。ただ、ちょっとショックだったというか……。もやもやしてるというか……」


 制服のネクタイを引っ張って緩める。


「試合のこと?」

「違う。それは全力で戦って負けたから、いいんだ」

「じゃあ、なに?」


 しばらく口ごもってから、湊は意を決したように顔を上げた。


「実は、昨日試合に勝ったら、万琴に告白するつもりだった」

「え」


 自転車を取りに来た下級生がピクリと肩を震わせ、こちらを見る。私と目が合うと気まずそうに急ぎ足で去って行った。


「試合に負けたからできなくなったけど。今度は、大学に合格したら告白することに決めた」


 ということは、これは告白ではないのか。


「万琴は俺にとって、何かに打ち勝って自分のレベルを上げて、やっと資格を手にできる、何ていうか、いわば神様みたいな存在なんだ」


 湊の目はどこまでも真剣だ。


「初めて万琴を見たとき、そう思った」


 眩しそうに笑って、私をじっと見つめた。そんな風に見つめられたのは初めてで、胸が錐で突かれたように痛んで、それ以上湊の顔を見ることができなくなった。


「俺の勝手な想像だったらごめん。万琴も俺のこと、少しは想ってくれていると思ってた。だから、引っかかるんだ。試合に来れなかったのは、喘息の発作のせいだろ? 俺に心配かけたくないっていう気持ちは理解できる。でも、頭では理解できるけど、ここが納得しないんだ」


 そう言って拳で胸を叩く。


「確からじゃなくて、万琴の口から聞きたかった。俺には本当のこと、隠さないで欲しいんだ」


 湊は腰をかがめ、無理やり私の顔を覗き込もうとする。


「俺に何が出来るか分からない。だけど、せめて万琴の身体のこと、一緒に考えさせてくれないか?」


 いつかこうなると薄々勘づきながら、初めて味わう感覚にもっと浸っていたくて、見て見ぬふりをした。はなから嘘をつき、騙しているのを棚に上げて、浮かれていた。

 私は勢いよく頭を下げた。


「ごめんなさい!」


 これほど自分が嫌な人間に思えたことはない。


「私、隠してたけど、本当は」


 湊は好きだ。もしかしたら、すごく好きかもしれない。だから。


「本当は」


 目を閉じ、息を深く吸った。


「許婚がいるの!」

「い、許婚?」


 湊は支えが必要になったらしい。傍の柱につかまり、マジかよと呟いた。


「うん。親が決めた相手。子供のころから知ってる人よ」


 この嘘で最後だ。


「今時、許婚って……」


 もう二度と、この真っすぐな人に嘘をつきたくない。


「万琴はそれでいいのか? 納得できるのか?」


「とってもいい人なの。京都のお寺のお坊さんよ。年上で優しくて、賢くて、強くて、顔もすっごくいいの」


「万琴は、その人のことが好きなのか?」


「うん。だからごめんなさい」


 もう一度頭を下げる。


「そっか」


 湊は動揺を隠そうと、軽く何度も頷いた。


「万琴が幸せなら、それでいい。こっちこそ、なんか一人で先走ってごめんな。俺のことは気にするな。じゃあ、また明日!」


 笑顔を作ると自転車に乗り、手を振ってから漕ぎ出す。

 湊の姿が見えなくなると、私はずっしりと重い足を無理やり動かして走った。夕暮れの、人影も疎らとなった運動場を横切り、石段を上り、草むらと化した旧校舎の校庭を駆け抜ける。 


 校舎の影に隠れると、膝を抱えて蹲った。最低の気分だった。

暫くすると爽やかな香のかおりがして、クロウが傍にいるのが分かった。


「クロウ、なんで黙ってたの? 注意してくれたって、よかったじゃない」


 クロウのせいではないのに、憎まれ口を叩いてしまう。「あーあ」と溜息をつき、両手で顔を隠す。


「私、何やってるんだろ。修行中の身なのに、青春だなんて浮かれて、あんないい人を騙して、傷つけて。ほんと、自分のバカさ加減が嫌になる」


「万琴、何か勘違いしていませんか」


 クロウの声はいつも静かで優しい。


「あなたは、何を選んでもいいのですよ」


 衣擦れの音がして、クロウの手の温もりを背中に感じた。


「大勢の友人に囲まれ、人を好きになり、その年に見合った楽しみを見つける。それがどうしていけないのです。常に、厳しい道を選ぶ必要はないのですよ」


「だけど、そしたら、クロウは……」


 顔を上げクロウを見つめると、その先を飲み込んだ。


「即今只今。今という瞬間を大切に、心のままに生きなさい」


 クロウの深い瞳に、小さく蹲る私が映っている。


「大丈夫。ここに神は宿っています」


 胸に手を当て、泣きなくなるほど優しく微笑んだ。


「私は、自分で巫女になるって決めた」


 クロウは私の指導霊だ。もし私が巫女とは違う人生を選んだら、クロウはどこかへ行ってしまうのだろうか。


「だから修行も辛くないし、後悔もしない」


 クロウがいなくなる。それだけは、絶対に嫌だった。


「ありがとう、クロウ。いつも一緒にいてくれて」

「どういたしまして」


 クロウが傍にいてくれれば、それだけで十分幸せだ。


「私は出家の身ゆえ、結婚はして差し上げられませんが」


「……クロウって、時々意地悪だよね」


 笑いを漏らしたクロウに向かって、口を尖らせた時だった。


「万琴」


 クロウの声音が変わる。


「うん。いるね」


 そろって校舎を見上げる。二階の窓に、ぼんやりと人影が浮かびこちらを見下ろしていた。


「あれが、旧校舎の幽霊……」


 私たちが立ち上がると、影は窓の向こうの暗闇に混じって消えた。


「鍵をこじ開けて、中へ入ってみる?」

「いえ」


 クロウは校舎を見上げたまま言った。


「建物は老朽化しています。一人で中に入るのは危険です」


「確を連れてくるしかないか……」


 式典の翌週にも、取り壊し工事が始まると神主から聞いた。


「取り壊しまで時間がないし、早く祓わないと、工事に障りがあるかも」


「そうですね。祓わずに済むなら、それにこしたことはないのですが」


 クロウは旧校舎の霊に同情しているようだった。普段から害が無ければ無理に祓う必要はないというスタンスだが、今回は特に人間のせいで住処を無理やり奪われるのだ。事と次第によっては、新しい住居を見つけてやると言い出しかねない。


「早速、明日、中へ入ってみることにしましょう」


 あの霊、どこかで……。クロウの呟きは、突如鳴り響いたけたたましいサイレンの音にかき消された。

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